小酒井不木年譜


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小酒井不木のプロフィール

趣味・嗜好

「次号予告 モリス・ルヴエル短篇集」(『新青年』 大正12年7月号)
日本でも、慧眼な小酒井博士は、夙にルヴエルの真価を認め、「自分も探偵小説を創作するときは是非この手法で行きたい」と激賞された。

「医家兼文学家で余の好む人々」(小酒井不木 『医文学』 大正14年8月号)
 日本では貝原益軒先生が大好です。大好きだなどゝいふ言葉をつかふのを勿体なく思ふほど私は先生の人物を尊敬して居るのですが、その著述は益軒十訓を読んだゞけで、誠に御恥かしい次第です。

「ポオとルヴェル」(小酒井不木 『新青年』 大正14年8月増刊号)
 私の一番好きな探偵小説は、短篇ではやはりポウとルヴェルである。
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 次に短篇ではチエスタトンが好きである。
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 次には、ダヴイソン・ポーストやビーストンの作品が、私にとつて頗るうれしいものである。
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 私は軽いユーモアに充ちた作品よりも、いはゞ凄みを帯んだユーモアを持つた作品が好きである。だからポオのThe Tell-Tale Heartの如きものが、喰ひつきたいほど好きである。之に反してルブランやマツカレーあたりのユーモアは、面白いとは思つても、それに耽溺するほどにはなれない。それにも拘はらずオルチーのユーモアはたまらなくいゝ。然し、何故かといつてきかれたとて答へられる訳のものではない。
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 長篇では、何といつてもオルチーのスカーレツト・ピンパーネル叢書が一ばん好きである。然し、オルチー夫人の筆は少し長すぎはしないかと思つて居る。もう少しきりつめればきりつめられぬことはなささうに思ふが、あゝいふのが英国人に向くのかも知れない。同じく長過ぎるとは思つても、コリンスの作品はそんなに気にならずに読んで行ける。「白衣の女」など、長いところに面白味があるやうに思はれる。
 ドウーゼも可なり好きであつて、彼の長篇六つは非常な興味を持つて読み、六篇とも追々翻訳して公にするつもりであるが、何度も何度も繰返して読む程の熱はない。一般に探偵小説の長篇で、何度読んでも飽かないといふやうなのは滅多にないもので、やはり探偵小説は、短篇に生命があるやうに思はれる。

「西洋初版本漁り」(小酒井不木 『紙魚』 大正15年2月号)
 グラスゴーのフインレーソンと云ふ医者は、医学には医学史の教授が必要であることを主張し、その方法として医学に関する名著の初版本を蒐集して、それを学生に示して説明する方法をとつてゐる。この方法は頗る我が意を得たものであつて、私も外国留学中は、出来得る限り名著の初版本をあさることに努めたのである。漁ると云つても到底買ふことが出来ぬからたゞ図書館や、或は大きな古本屋をたづねて手にして見て喜ぶにすぎなかつた。尤も比較的廉いものは、買ひ集めることを忘れなかつた。

「雑感」(小酒井不木 『新青年』 大正15年2月号)
 その頃から、探偵ものが好だつたので、たしか、その小説は、一人の老翁が、ある男に依頼されて、須磨の警察署へ一箇の行李を運んで來たので、警察署員がその行李を開いて見ると、中から絞殺死体が出て来るといふやうな書き出しであつたと思ふ。この小説を書き上げて、新聞社に送りまだ新聞に発表されぬ前に、善光寺へ女の死体を行李詰にして送つた犯罪が実際に行はれたので、私は恰もその事件からヒントを得て書いたやうになつてしまつた。そんなやうなことから、私は犯罪といふことに興味を持つやうになつたのである。

「書物蒐集狂」(小酒井不木 『紙魚』 大正15年12月号)
 私は西洋の随筆集の中で、アイザツク・ヂスレリーの Curiosities of Literature. を最も好む。ヂスレリーは、有名な英国の大政治家ヂスレリー即ちビーコンフイールド伯の父である。この随筆集は西洋の文学に於ける奇談異聞とでも云ふべきものを集めたもので凡そ四百ばかりの随筆が集められてあるが、どれを読んでも云ふに云へぬ妙味があつて、私の永い療病生活中どれ程この書によつて慰められたか知れない。

「名人に乏し」(小酒井不木 『春秋』昭和3年1月号)
現に、私は、師宣の版画に、言ふに言へぬ執着を持つて居る。

「「夜鳥」礼讃」(小酒井不木 『新青年』昭和3年8月増刊号)
アーヴイングは、アマチユアの犯罪研究者として、数種の著書があり、又怪奇文学の愛好者であり、多少私とは趣味の似かよつた点があつて、私は彼の著書をかねて研究して居つたが、そのアーヴイングがルヴエルの愛好者であると知つて、何となく嬉しさを感じた訳である。

小説を書くきっかけ

「雑感」(小酒井不木 『新青年』 大正15年2月号)
東京大学の一年級のとき、参考書を買ふ金に窮して、「あら浪」といふ連載小説を、京都の日出新聞に書いたことがある。一回五十銭で八十回書いたのだから、合計四十円。明治四十四年頃の貧乏書生に取つては大金だつた。この小説はもとよりくだらないものだが、金に窮したばかりでなく、一つには友人たちに対する意地つ張りもあつたやうに思ふ。その頃私がよく小説のことを口にするので、友人たちは、口ばかりでは駄目だ、作ることが出来なければといふやうなことを言つたものである。そのとき露伴は二十一歳のときに処女作を発表したといふやうな話が出たところ、気がついて見ると丁度私はその時二十一歳だ。で「よし、俺は今年中に一つ小説を書いて見せてやらう。」と決心して十月頃から、年の暮までに書き上げ、日出新聞に買つてもらつて、翌年三月頃から発表されたのである。

人間関係

「巴里のおもひ出」(小酒井不木 『医文学』 大正15年1月号)
 いづれにしても、あの頃の私は、とても今日の程度に恢復しやうとは思ひも寄らなかつたのであるが、今日のやうな程度に恢復したゝめ、却つて御世話になつた人々の恩を忘れかけやうとして居るのである。ブラン氏はあれだけ度々診察に来てくれて、遂に料金を取つてくれなかつた。フランスでは医師同志は料金を取らないからといふのである。そのブラン氏に対しても私は久しく音信を怠つて居る。ブラン氏ばかりでなく、及能博士、島博士、名和君に対しても御無沙汰をして居る。「恩知らず」と罵られても、私には弁解の言葉がないのである。

闘病のためのモットー

「憎むべき悪徳売薬」(小酒井不木 『科学画報』 大正13年9月号)
 すべて、物の道理に二通りはない。肺結核に特効薬がないといふことは、動かすことの出来ない事実である。特効薬がないのに特効薬があるやうに吹聴するのは嘘言である。嘘言であるとわかれば、いかに肺結核患者でも、頭脳の健全である限り、その所謂「特効薬」を買ふ筈がない。然るに「特効薬」であると広告して、結核患者がそれを買ふのは、どう考へても不合理である。換言すれば非科学的である。極端に言ふならば昔の人が狐にばかされたやうに、広告にばかされた形である。然らば即ち「迷信的」といふも敢て過言ではなからうと思ふ。
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 自然治癒力は潜在意識の支配を受けて居るのであつて、潜在意識は暗示によつて左右されるが故に、「必ず治る」といふ確信を以て暮す場合には、たゞその暗示だけによつて、何の薬剤を用ひないでも、結核は治癒することがある。かの所謂各種の精神療法で結核が治るのは、決して不思議でも何でもない。

「明治大帝の御言葉」(小酒井不木 『医文学』 昭和2年11月号)
 私は病気をした当座、死んだつもりになつて、自分の意志によつて病を征服しようと致しましたが、明治大帝のこの御言葉に接したとき、「死んだつもり」は誤つて居ることに気づいたのであります。即ち「死ぬにも死ねぬ」つもりになつて、自分の意志を鍛煉し、もつて病と闘ひ、併せて人間生活の苦悩と闘はねばならぬと覚悟したのであります。

評価

「よしあし草」(『医学及医政』 大正9年10月号)
▲才子多病美人薄命も古ひが、東北大学医学部教授の候補者小酒井光次は留学中宿痾に悩まされ目下帰朝の途に在ると云ふが又手病症は気遣はしいものであると、東大生理の永井教授が小頭を傾けてゐた。小酒井は非常な勤勉家の上に当代稀に見る常識の発達した学者気質の人であるばかりでなく、友情に厚く能く人の面倒を見ることは彼を知る者の間に有名である、海陸無事帰朝を祈ると同時に故山の山川に接して一日も速に回春の期に接せんことを中心から祈って置く、今や何れの方面を見ても人材の欠乏せる時代、小酒井の如き人物は学問上から云ふも人格上から云ふも杏林界の花形である。どうか夜半の嵐に散らし度くないものである。

「編輯後記」池内生(『大衆文芸』 大正15年4月号)
□病気で思ひ出すのは、名古屋の同人国枝、小酒井両氏である。小酒井氏は屋外一歩も踏み出せぬと云ふ病弱にあり乍ら本誌への力作にはほとんど感謝にたへない。同じく国枝氏の精力にも亦驚くの外はないと、本誌のために喜んで居る。

「子供の科学時代」原田三夫(『思い出の七十年』 誠文堂新光社 昭和41年3月)
 小酒井は永井潜博士の弟子で、東大を出て東北大学の教授になったが、洋行中に胸を悪くし、帰ると、名古屋の東郊御器所に家を建てて静養しながら闘病術という本を書いた。前記のようにかれは中学で私と同組でも、秀才を鼻にかけたようで親しめなかったが、名古屋に住み、私の依頼で「科学画報」や「子供の科学」に執筆するようになってからは、生れ変ったように親しくしてくれた。かれは「Pのおじさん」を主役にした少年探偵小説を、長く「子供の科学」に連載した。
 当時アメリカでラジオ・ニュースという雑誌を発行していたゲルンスバックが、そのほかにアメージング・ストーリーというSF雑誌とサイエンス・アンド・インヴェンションという通俗科学雑誌を出していて、私は皆取っていたが、アメージング・ストーリーを全部小酒井に送ってやった。かれはそれからも取材したかもしれない。
 そのころ、名古屋の東郊の七本松に牡丹亭という料亭があった。帰省したとき私は、よくそこへ母をつれて行ったが、そのとき小酒井に迎えの人力車を向けたことが、一、二度あった。かれは酒は飲まなかったが、私の歌を面白がって聞いてくれた。最後に会ったのは、かれの家を訪問して食事をともにしたときで(口絵)、そのときかれは容態がよくなく、ときどき大喀血をするといったが、その翌年、その大喀血でやられたのである。
 小酒井で驚ろいたことは、頼まれた原稿をぶっつけで注文どおりの枚数に過不足なくきちんと書き上げ、しかも消したり直したりしたところがなかったことである。私も長年の経験から、最後の一枚になると、自然に最後の行でおさまるようになるが、消して直したり、前後を入れかえたりするのが常で、印刷したような原稿をかいた小酒井の頭のよさが思いやられる。

(『不木・乱歩・私』 名古屋豆本 昭和49年7月)
純文学といい、大衆文学といい、作家が作家らしい生活に入ったのは「円本」と称する一冊一円(小酒井不木全集もその一つ)の売れ行きがよかった事に始っている。吉川英治ほどの大家ですら、その頃は向島の借家に住んでいた。三上於菟吉は待合を根城に転々として仕事をしていたので、入る原稿料はすべて待合の払いとなった。「文士」というものは、こういうものだったのである。
 小酒井不木はそういう時代に売文業者の仲間入りをしながら、作家にあり勝ちなデカダニズムに流されなかったのは、意志が強かったとか、医学博士という教養があったとか、というのでなく、体力が容さなかったのである。デカダンか死か――を選ぶとすれば、誰しも生命を大切にするのは当然である。

評価(笑顔)

「梅田ホテルでの話」(渡辺均 『サンデー毎日』 1929(昭和4)年4月14日)
 小酒井さんの笑顔は、実に小酒井さん独特の笑顔である。
 顔ぢうに、太い皺を幾条となく刻ませて、満面に笑ひが溢れる。しかも、その次の瞬間に、その笑ひの皺は、全部奇麗になくなつて、キヨトンとした真面目な顔に早変りするのである。
 私が小酒井さんと相知つたのはまだ日が浅くて、足掛四年位にしかならない。
 その足掛四年前、はじめて小酒井さんに会つた時、先づ私を驚かせたのは、この瞬間的な笑ひであつた。そして、実のところ、何となく、馬鹿にせられたやうな感じでさへあつた。
 ところが、その後、何度もお会ひしてゐると、私には、この独特な小酒井さんの笑顔が、実に懐かしくて嬉しくなつたのである。といふよりも、そこに小酒井さんの優しさと几帳面さとが一緒に籠つてゐるのだと思ふやうになつた。

(公開:2007年2月19日 最終更新:2022年9月9日)