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巴里のおもひ出

小酒井不木

「巴里のおもひ出」といつても、巴里印象記でもなければ巴里見物記でもない。巴里で大病に罹つた当時の苦しかつた記憶を書き列ねるに過ぎないのである。あの当時は随分色々な人に厄介をかけ、この御恩は一生忘れまいと思つたのに、五年の歳月を経た今日、省れば誠に慚愧に堪へない次第であつて、如何に凡夫の浅ましさとはいへ、我ながら呆れ返らざるを得ないから、かうした機会に、当時のことを書き綴つて、御世話になつた人々を憶ひ出し、暫時なりとも感謝の情を湧かせたいと、貴重な紙面を拝借してこの拙い一文を物した訳である。
 アメリカ、イギリス、フランス(※1)の三国に滞在して、色々面白いことにも出逢つたが、面白かつたことの記憶は割合にぼやけてしまつて、苦しかつた時の記憶だけが、可なりにはつきり保たれて居る。さうしてフランス(※2)滞在の九ヶ月間といふものは、全く、苦しいづめの生活で、ことにそのうち半分の巴里生活は殆んど病牀の上で過し、今思つてもぞつとするのである。
 ロンドン(※3)から巴里へ渉つたのは、大正九年(一九二〇年)の三月三十一日であつた。出迎へて呉れたのは高校学校時代の同窓たる名和軍医で、同夜直ちに同君の御世話で、オテル・アンテルナチオナールの第十六号室(イエナ(※4)街に面した二階の一室)に宿つたが、それが私の重病の身を養ふ病室にならうとはその時夢にも思はなかつた。私は巴里へ渡る二週間ばかり前まで英国のブライトン(※5)といふ海岸の町で静養して居たが、その年の一月から再発した宿痾は日にゝゝ(※6)重つて行く徴候を示したので、欧洲滞在中、どこかで大きなカタストロフィーに出逢ふだらうといふ予感はあつたけれども、それが巴里へ渡つて一ヶ月になるかならぬに起つて来やうとは考へなかつたのである。
 その年の巴里の気候は甚だ不順であつた。熱があつた為かも知れぬけれど、寒さが身に沁みた。名和君に案内されて名所見物をしながらも、心から面白い気は一度もしなかつた。かねてあこがれて居たルーヴルの画廊を訪ねて、ダ、ヴィンチやミレーに接しても、どうした訳か心は浮立たなかつた。セーヌ河岸の古本屋をあさつても、エッフェル塔の頂上に登つて巴里全市を見おろしても、刻一刻と侵されて行く肺の反応が、ひしゝゝ(※7)と心に感ぜられるのであつた。
 これではいかぬ、何か方法を講じなければならぬ。と、考へては見るものゝ、どうにも仕様がなく、たゞもう成行きに任せるより外はなかつた。「何故あのとき早く牀に就かなかつたゞらう」。(※8)とは、いまに至るも私に解けない謎であるが、外国に居ると、あゝも捨鉢的な、絶望的なものになるものかと不審に堪へないのである。まだ英国に居るとき、たつた一度だけ、ある朝痰に血がまじつて出たが、巴里へ渡つて一週間ほど過ぎると、痰の中に可なりの量に血がまじるやうになつて来た。それにも拘はらず私は平気で外出したのである。忙がしい名和君をさうも度々煩はすことは出来ぬから、地図をたよつて一人であちらこちらを歩きまはつたのであるが、私の心は巴里の曇つた鉛色の空よりも重たかつた。今に大きな喀血をして二進も三進もならぬやうになるだらうといふ予感がだんゞゝ(※9)はつきりとして来たけれど、私は誰にもそれを打明けて話さなかつた。自分の身は自分で始末しなければならぬのだといふやうな、あまり便りにもならぬ心でその日ゝゝゝ(※10)を送つて居たのである。
 さういふやうな苦しい日送りをして居るとき、私は同じ宿にとまり合せて居るデリール(※11)夫人といふ六十近い御婆さんと懇意になつた。夫人はもとパストール研究所員であつたデリール(※12)氏の未亡人であるが、アメリカ(※13)生れではあるけれど、その後づゝと巴里に滞在して余生を送つて居るとのことで、フランス(※14)語の碌に話せない私には誠によい話相手であつて、私たちは毎日可なり沢山の時間を談話に費したのであつた。デリール(※15)夫人はメッチニコッフ(※16)教授と非常に懇意だつたので、同教授の話をよくしてくれた。夫人がパストール研究所の研究室にメッチニコッフ(※17)教授を訪ねると、教授はいつも、後ろの方までゐざつて居る子クタイをぐい(※18)と正面へ引つ張つて、「さあ、お掛けなさい」。(※19)といふのが常であつたさうである。短い話であるが、教授の姿が目に見えるやうである。
 デリール(※20)夫人の紹介で、私は、メッチニコッフ(※21)教授の後をついで居るベスレドカ(※22)氏に面会に行つた。ベスレドカ(※23)氏は私が研究所で働かしてくれと頼みに来たものと察して、いつでも席を与へてやるから来たまへと言つた。私はそれに対して、健康を害して居るから、巴里では研究に従事しないつもりですと答へたが、その時私は始めて(※24)悲しい思ひをしたのである。病を持つ身を悲しいとは思はなかつたが研究をさせてやるとの好意を断らねばならぬのは可なりにつらかつた。宿へ帰つてデリール(※25)夫人にそのことを語ると夫人は涙を流した。良人が学者であつたから、研究といふことに対して、夫人は可なりに深い理解を持つて居たのである。
 然し、デリール(※26)夫人は私の病気がどの程度に進んで居るかをもとより知らなかつた。ある日デリール(※27)夫人が、ヴィシー(※28)温泉場についての某医師の意見(医師の手紙を見せて)私に語りかけると、私は急にはげしい咳嗽に襲はれ、同時に咽頭に暖かいものがとび出して来た。いふ迄もなく、比較的大きな喀血で、私はその血を飲みこみながら話をつゞけた。はげしい咳嗽は十回ばかりで終り、さすがの夫人も、それに気づいて、大へんな咳嗽だつたがどうかしたのかとたづねた。(※29)私は、なに、何でもないです」。(※30)と答へたが、それからあとは、夫人の話もあまり耳に入らず、早々切り上げて自分の室に来て、静かに横つた。それでも私はまだじつと牀に横はらうとせず、その翌日は平気で外出したが、それから二三日過ぎて、尾見薫博士と食卓を囲んで話しをして居たときも同様のことが起り、その時も尾見博士には事の真相を告げなかつた。
 たうとう五月十三日には、猛烈な喀血をしてしまつた。午後自分の室で、ドテラを纏つて、うたゝねをして、ふと眼がさめて見ると、咽喉がはしかゆいやうになつたので、これはと思つて起き上つて見ると、けたゝましい咳嗽が起つて、出るわゝゝゝ(※31)。私はとりあへず机の上に新聞紙を敷いて、その上に喀いたが、見る見るうちに新聞紙を取替へねばならなかつた。咳嗽の音のたゞならぬに驚いて、何処に居て聞き出したものか部屋番が駆けつけて来たが、あまりかんばしくもない光景だから、私は新聞紙を折つて見せぬやうにし、別に何でもないから、あつちへ行つてくれといつて去らしめた。幸に血はとまつたが、愈よもう牀に就かねばならぬ時機が来たと覚悟して、私は牀に就いた。その夜更に喀血をし、翌日同じ宿に居た及能博士に来て貰つて相談すると、及能博士は大に心配して、パリー(※32)の医師ブラン(※33)氏を聘してくれた。ブラン(※34)氏はすぐ来て、吸角をあてるやうに取り計らつて呉れた。私が吸角をあてゝ貰つて居るとき、大使館の芦田氏が見舞つて下さつて、御金のいるやうなことがあつたら遠慮なく申し出てくれと言はれたが、その時私はモルヒ子と貧血のため、少し意識がぼんやりして居たやうであるけれど、見ず知らぬ芦田氏の、あのうれしい言葉は今もなほ忘れることが出来ない。
 看護婦は、英国の私の知つた婦人を頼むことにしたので十五日(即ち明日)しか来ない。私はその夜を越すに可なりに不安を覚えたので、そのことを尾見博士に話すと、尾見博士は一時頃迄私の牀のそばについて居て、それから宿の番人と交替して下さつた。私がモルヒ子のために、夢ともうつゝともわからぬ境を辿り、ふと眼をあいて、尾見博士の顔が電燈の薄闇い光に照されて居たのを見たときのうれしかつたは、一生涯忘れることが出来ないだらうと思ふ。それでも喀血するときには、尾見博士に一寸室を出て貰つた。然し、後にはもうそんなことは言つて居られなくなり、尾見博士にコップを受けて貰つて血を喀いた。
 尾見博士と同じく島文次郎博士もコップを捧げて下さつた。コップに一ぱいになつて島博士は隣室の洗面所へ洗ひに行つて下さつたが、凝血が落ちて行かないので可なりに時間がかゝつたらしかつた。両博士にさうしたことまでさせたかと思ふと、今でも汗が出るほどつらい感じがする。実にそれに対する感謝の言葉がないのである。
 及能博士はそれから一ヶ月半といふもの、毎日のやうに見舞つて診察して下さつた。デリール(※35)夫人はスヰートピーやその他の珍らしい花を持つて来ては枕頭に挿して行つてくれる。尾見、島両博士も花を持つて来たり、面白い書物を持つて来て私を慰めてくれる。私はまつたく幸福な病牀生活を営むことが出来たのである。名和君は独逸から帰つて色々世話をしてくれるし、グラスゴー(※36)の谷口君からは、いざといへばすぐ走つて行くからとの手紙が来るし、まつたく心強く暮すことが出来たのである。
 さうして、私は日一日恢復をして、遂に七月の半ばにアルカション(※37)といふ大西洋沿岸の小さい町に転地することが出来るやうになつたのである。転地する前に、好本節博士に伴はれて、久し振りで町へ出た時は、可なりに胸が苦しかつたが、一方からいへば多少心に晴やかさを感ずるであつた。喀血から恢復したとて、それが原病からの恢復を意味しないことを私はよく知つて居たが、七月の巴里の空は非常にあかるい感じがしたので、それが私に晴やかな思ひを与へたのであらう。
 いづれにしても、あの頃の私は、とても今日の程度に恢復しやうとは思ひも寄らなかつたのであるが、今日のやうな程度に恢復したゝめ、却つて御世話になつた人々の恩を忘れかけやうとして居るのである。ブラン(※38)氏はあれだけ度度診察に来てくれて、遂に料金を取つてくれなかつた。フランス(※39)では医師同志は料金を取らないからといふのである。そのブラン(※40)氏に対しても私は久しく音信を怠つて居る。ブラン(※41)氏ばかりでなく、及能博士、島博士、名和君に対しても御無沙汰をして居る。「恩知らず」と罵られても、私には弁解の言葉がないのである。

(※1)(※2)(※3)(※4)(※5)原文、国名・地名に二重傍線。
(※6)(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)原文ママ。
(※9)原文の踊り字は「ぐ」。
(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)(※12)原文、人名に傍線。
(※13)(※14)原文、国名に二重傍線。
(※15)(※16)(※17)原文、人名に傍線。
(※18)原文圏点。
(※19)原文ママ。
(※20)(※21)(※22)(※23)原文、人名に傍線。
(※24)原文ママ。
(※25)(※26)(※27)原文、人名に傍線。
(※28)原文、地名に二重傍線。
(※29)(※30)原文ママ。
(※31)原文の踊り字は「く」。
(※32)原文、地名に二重傍線。
(※33)(※34)(※35)原文、人名に傍線。
(※36)(※37)原文、地名に二重傍線。
(※38)原文、人名に傍線。
(※39)原文、国名に二重傍線。 (※40)(※41)原文、人名に傍線。

底本:『医文学』大正15年1月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(最終更新:2015年2月9日)