科学知識普及の目的は、いふ迄もなく常識の涵養と、科学的態度の養成とである。いかに科学知識を豊富に持つて居ても、科学的態度の養成が不完全であつては何もならない(。)(※1)事物を観察し、事物を判断する態度が科学的になつてこそ始めて科学知識が役に立つのであつて、造次顛沛に、科学的態度がなくなるやうなことでは、科学知識は何の役にも立たないのである。
ところが、人間の多くは、いざといふ場合に科学的態度を失ひ易い。「溺れるものは藁にもすがる」といふ諺は、この人間の欠点を遺憾なく指摘した言葉であつて、天変地異又は一身上の大事変に遭遇すると、平素神を認めなかつたものが神を拝むやうになり、迷信を笑つて居た人が、いつの間にか迷信的態度を取るやうになる。ロツクはこの世の中を支配する三大動力として理性、感情、迷信を挙げ、この中迷信が最も優勢で、理性が最も劣勢であることを述べて居るが、科学万能の時代即ち理性が最も優勢であるべき時代にも、いざといふ場合にはやはり迷信が勢力を逞しうするものである。かの関東の大地震の節の苦々しい○○虐殺の如きはその顕著なる一例である。
現今、新聞広告の中に、肺結核治療薬の広告が極めて屡々私だ(※2)ちの眼に触れるのも、畢竟人々ことに肺結核患者に科学的態度の欠けて居ることを証明するものである。何となれば広告が度々出るといふことは、肺病薬が、よく売れるといふことであり、よく売れるといふことは、溺れる者の藁をつかむ状態を遺憾なくあらはして居るからである。この人間の弱点に乗じて、私腹を肥やす人たちは実ににくむに余りはあるが広告の文句につられて高い薬剤を買はうとする人たちも、またあはれむに余りありといはねばならない。
すべて、物の道理に二通りはない。肺結核に特効薬がないといふことは、動かすことの出来ない事実である。特効薬がないのに特効薬があるやうに吹聴するのは嘘言である。嘘言であるとわかれば、いかに肺結核患者でも、頭脳の健全である限り、その所謂「特効薬」を買ふ筈がない。然るに「特効薬」であると広告して、結核患者がそれを買ふのは、どう考へても不合理である。換言すれば非科学的である。極端に言ふならば昔の人が狐にばかされたやうに、広告にばかされた形である。然らば即ち「迷信的」といふも敢て過言ではなからうと思ふ。
結核患者は日に月に増加しつゝある、結核は恐ろしい勢を以て文明諸国に蔓延しつゝあるのである。統計的数字を挙げるの煩は之を避けるが、若し特効薬があるならば、かうまで猖獗は極めないであらう。現今の医学は結核に対して実にじれつたい(※3)程力がない。だから、結核患者は非医者 Quack の乗ずる所となり、またいかがはしい売薬 nostrums の犠牲となるのである。むかし英国の文豪シエークスピーアは「脆き者よ、汝の名は女なり。」といつたが、私は「脆き者よ、汝の名は結核患者なり。」といひたい。
さういふ脆い人を責めて、非科学的であると罵ることは頗る心苦しいけれど、私自身久しい間結核に悩んで、可なりつらい経験を嘗めた関係上、非科学的の人が気の毒でならぬから、之れ等の人のため、否世の人一般のために、結核売薬の価値を述べ、結核患者の膏血を絞り取らうとする魔の手を、出来得るかぎり喰ひ止めたいと思ふのである。何となれば、現今まだ、かかる売薬を取り締まる法律が設けられて居ないからである。
どの内科医書を開いて見ても、必ず「肺結核は治癒すべきものである。」と書いてある。これは決して誇張でもなければまた虚偽(うそ)でもなく、長い間の経験と研究とによつて定められた真実である。即ち肺結核は難治ではあるけれども決して不治ではない。又「不治」といふ言葉は必ずしも、「死」を意味しては居ない。ところが世の人の中には往々結核を不治と考へ、不治を死と混同して、結核即死のやうに妄信して居る人が少くない。それ故、結核病と診断されたとき、誤つて死の宣告を受けたやうに思ひ絶望の淵に沈淪するものが甚だ多いのである。そして無暗に疾病を恐怖し、時には自暴自棄に陥り、文字通り結核即死の状態を出現せしめ、愈よ世人をして結核に対する妄覚を深からしめるのである。
抑も人体には自然治癒力と称する尊い力が存在して、如何なる疾病に対しても、必ずこれに打ち勝たうとする傾向が具はつて居る。文芸復興期の大外科医アンブロアス・パレーが、「自分は傷を繃帯し、神が之を治癒する。」といつた如く、医師の仕事は畢竟この自然治癒力をして思ふ存分に働かしめやうとするに過ぎない。医師に罹つて病がなほるのは、医師が適当に患者の自然治癒力を働かせてくれたのであつて、病を治したのは医師ではなくて、その実、患者自身である。難治の病といふのはこの自然治癒力がはかゞゝ(※4)しく働き得ない状態をいふのである。色々と方法を講じても、その方法が適当でない場合には自然治癒力を助長することが出来ない。結核が難治であるといふのは、結核患者の自然治癒力を助力する適当な方法が見出し難いか、或は自然治癒力の発現をさまたげるやうな事情に陥り易いからである。
自然治癒力は潜在意識の支配を受けて居るのであつて、潜在意識は暗示によつて左右されるが故に、「必ず治る」といふ確信を以て暮す場合には、たゞその暗示だけによつて、何の薬剤を用ひないでも、結核は治癒することがある。かの所謂各種の精神療法で結核が治るのは、決して不思議でも何でもない。
然るに結核患者の自然治癒力は、通常却つて奥の方に引きこんでしまつて居る。即ら(※5)自然治癒力の発現がさまたげられるやうな事情になつて居る。それは何であるかといふに所謂結核恐怖心の存在である。この恐怖心は、ことに初期の患者に著しい場合の多いのである。この恐怖心は、潜在意識に向つて、「治らぬ」「治らぬ」といふ暗示を与へて居ると同じであつて、自然治癒力はいはゞ抑へつけられてしまつて居るのである。
かういふ訳であるから、結核患者が、その恐怖心を去つて、結核は必ず治るものだといふ信念をさへ持つたならば、薬剤を用ひなくつても病を征服することは極めて容易である。実際、結核に罹つて治療した人はその数の甚だ多い。恐怖心の生ずるのは、結核の本態を充分に知らないためであるから、結核の本態をよく知つて、人体の自然治癒力の妙機を悟り所謂科学的態度を保持したならば、結核は容易に駆逐し得るのである。
であるから、新聞広告に結核治癒者の写真が載つたとて、それは当然すぎる程の当然である。結核に特効薬のない限り、結核の治つたのは、自然治癒力が適当に働いたに過ぎないのであつて、広告された薬が作用したのではないのである。これ程わかりきつた道理はないのに、尚ほ且つ誇大な広告に釣られて、高価な薬剤を購ひ、治癒した挙句、写真まで添へて礼状出すといふのは、余程科学的態度にかけて居るといはねばならない。
精神療法を除く、所謂物質的疾病治療法には色々あるが、之を大別すれば、体内の病原体を直接に撲滅する方法と、病状を軽減して自然治癒力を働かしむる方法とになる。前者は即ち、身体には毒にならずして、病原体にのみ毒になる物質の応用を始め、自働他働免疫法などをいひ、後者は即ち外科手術や、一般薬物療法などをいふのである。
さて肺結核に対しても従来、多くの学者たちが脳漿を搾つて、これ等の方法の発見につとめたけれど、遺憾ながら、満足な結果は得られなかつた。サルヴルサン(六○六号)の黴毒に対する如き顕著なる治療作用を有する結核特効薬の発見研究も空に帰し、ヂフテリア血清のヂフテリアに対する如き鮮かな作用を有する治療血清の研究も不成功に終つた。その他ワクチン療法、外科的手術など何一つ効果あるものはなく、たゞ所謂対症候的療法を試みて自然治癒力の活動を待つより外はないのである。
今日結核に対して有効なりと称せらるゝあらゆる薬剤は、要するに対症候的のもので、熱を下げるとか、咳嗽(せき)をとめるとか、消化をよくするとかに過ぎないのであつて、一つとして体内に寄生繁殖しつゝある結核菌を撲滅する作用を有しない。霊夢、霊感によつて得たと称せらるる薬も、やはりその範囲を出でない。現に、一つの結核病に対し多種多様の薬剤が存するのが既に、特効薬の無いといふ証拠ではないか。
それにもかゝはらず、新聞に、特効薬があると広告されると、それを試みて見度くなるのは、科学的態度が欠乏して居るからである。結核に罹つたといふ意識即ち「不治」といふ恐怖心がその人の心を支配し、理性を曇らる(※6)からである。
無論私は、結核患者に対して、全然薬剤を服用するなとは言はない。熱の高いときには下熱剤を用ふるのもよからう。咳嗽(せき)の盛んに出るときは、鎮咳剤を用ひるのもよからう。たゞ私の言はうと思ふ所は、いかに特効薬のやうに吹聴されて居る結核治療剤も、要するに、下熱剤、鎮咳剤、消化剤、その他の対症候的薬剤に過ぎないのであるから、新聞広告につられて、高い代価を支払はなくつても、廉い価でそれ等のものを買へばよいといふのである。
往年レスピラチンなる結核特効薬が発売され誇大なる新聞広告のために、販売人は巨万の富を得た。その実その薬の成分はたしか乳糖九九炭酸グアヤコール一であつた。
(※1)原文句読点なし。
(※2)原文ママ。
(※3)原文圏点。
(※4)原文の踊り字は「ぐ」。
(※5)原文ママ。
(※6)原文ママ。
底本:『科学画報』大正13年9月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1924(大正13)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2005年6月23日 最終更新:2017年9月29日)