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医家兼文学家で余の好む人々

 御求めの趣は、私淑する人物について書けとの事ですが、実をいふと医家兼文学家で、好きな人はあつても、私淑するといふほど深入りして居る人はないのであります。それ故、その人の著述を読んで居ても、一向その人の伝記を知らなかつたり、又、伝記を比較的よく知つて居ても、その人の著述をあまり沢山読んで居なかつたりするのであります。又、たとひそれ等の著述を読んでも、私が、エドガー・アラン・ポオ(※1)ドストイエフスキー(※2)の作物を読むやうに愛読するといつた程度には至りません。これも結局は、私の視野のせまいためでありまして、そのうちには、私淑するやうな人を見つけるかもしれません。
 有名な探偵小説家コーナン・ドイル(※3)は医者でありまして、その探偵小説は一つ残らず読んだつもりで居りますが、別にドイル(※4)その人を崇拝致して居る訳ではありません。シエクスピーア(※5)と殆んど同時代だつたトーマス・ブラウン(※6)は医家兼文学家の錚々たるもので、その著作は相当に読みましたけれど、何しろ英語がむづかしいので、愛読する迄にはなつて居りません。アメリカ(※7)オリヴァー・ウエンデル・ホームズ(※8)の著述も好きは好きですが、ポオ(※9)ほど好きにはなれません。然しホームズ(※10)の文章は痛快です。医家としては稀な文豪といつてよいでせう。
 日本では貝原益軒先生が大好です。大好きだなどゝいふ言葉をつかふのを勿体なく思ふほど私は先生の人物を尊敬して居るのですが、その著述は益軒十訓を読んだゞけで、誠に御恥かしい次第です。先月、九州の小川博士から益軒先生の手紙を御恵贈に預つたので、私は嬉しくてならず、直ちに机の前に掲げて、日夜それを見上げては、いふにいへぬ感動を与へられて居りますから、私は日一日先生に対する親しみが深くなるを覚えます。そのうちには、益軒でなくては夜も日もあけぬやうになるかもしれません。
 鴎外先生の著述もぼつゞゝ(※11)読みましたが、鴎外通にはとてもなれさうもありません。
 まだ書きたいこともありますが、医家兼文学家の文章だとか性格だとか、その他逸話などについては、追々「医文学」誌上に書かせて頂くことにして、回答はこれだけにさせて頂きます。(図は益軒先生の断簡)

(※1)(※2)(※3)(※4)(※5)(※6)原文傍線。
(※7)原文二重傍線。
(※8)(※9)(※10)原文傍線。
(※11)原文の踊り字は「ぐ」。

底本:『医文学』大正14年8月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1925(大正14)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2017年10月6日 最終更新:2017年10月6日)