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書物蒐集狂(ビブリオメニア)

 私は西洋の随筆集の中で、アイザツク・ヂスレリーの Curiosities of Literature. を最も好む。ヂスレリーは、有名な英国の大政治家ヂスレリー即ちビーコンフイールド伯の父である。この随筆集は西洋の文学に於ける奇談異聞とでも云ふべきものを集めたもので凡そ四百ばかりの随筆が集められてあるが、どれを読んでも云ふに云へぬ妙味があつて、私の永い療病生活中どれ程この書によつて慰められたか知れない。英文学を修めて居る人は勿論のこと、英語の読める人は是が非でも読んでほしいと思ふ位面白い本である。
 昨今読書熱が大いに高められ、書物蒐集熱が甚だ盛んになつたに就いて、私は上記ヂスレリーの随筆集の中の一文「書物蒐集狂(ビブリオメニア)」の内容をこゝに紹介してみようと思ふ。
「ビブリオ」とは「書物」「メニヤ」とは「狂」の意味であつてビブリオメニアとは書物狂といふ字義であるけれ共、特に書物をむやみに蒐集する熱狂に対して慣用せられて居る言葉である。即ち別に知識的好奇心を持たないで驚くべき多数の書物を集めることを云ふのであつて、図書館と云ふものがこの世に出来た当初からさう云ふ人間は沢山あつたもので、書物を集めさへすれば知識が得られるものと思ふ人間のする仕業なのである。だから斯様な変態的な書庫は「人心の瘋癲院」又は「書物の墓」と呼ばれたものである。何んとなれば斯様な人の多くは、書物を自分の一家に檻禁して他人に見せることを嫌ふのが常であつたからである。
 ヂスレリーは続けて云ふ。ビブリオメニアは現今(十八世紀)が一番甚しいと。併し斯う云ふ人間があればこそ本は後世に保存されるのであつて、つまらない書物も残る代りには、いゝものが残るから許されて然るべきである。
 ラ・ブルイエールはこのメニアに就いて、こんなことを云つた。「私は斯う云ふ蒐集家の家へ入るや否やいつもその階段のところでモロツコ皮の強い香気にあてられて人事不省に陥らないやうに用心して居る。彼は私に美しい版を見せ、金色の紙やエストラカンの装幀を誇らしげに指して一つ一つ名前を告げ、まるで絵画の展覧会へでも行つたやうに説明するが、しかも自分ぢや滅多にそれを読んだことがないのである。」ルシアンは斯様な蒐集家のことを、航海術を教はつたことのない水先案内、生きた馬に乗つたことのない乗馬家、義足をつけた駆走の先生に例へた。恰度アキレスの鎧をつけたテルシテスのやうに一足ごとにひよろゝゝゝ(※1)としてゐなければならぬ人間だと皮肉つて居る。又まるで毛のない人が櫛を買ひ、めくらが鏡を買ひ、つんぼが楽器を買ふやうなものだとのゝしつて居る。
 だが蒐集家の方から云へば、何んと云はれやうが、ニヤツと笑つてプラトー、プリニー、プルタアク、トレミー、をすつかり集めてどんなものだと納り返つてゐる。
 アンシロンは珍らしい書物を沢山集めたが、人からビブリオメニアだと云はれる度にいつも次のやうに弁解した。
「自分はいつも一番いゝ版を買ふんだけれ共、それが贅沢だとは思はない。書物を読んで眼がそんなに疲れないうちは、いつも心でその価値を判断しようとする。書物になればその欠点なり優れた点なりが原稿よりも分り易く又悪い活字で印刷したものよりも、よい活字で印刷したものゝ方が分り易い、だから自分はなるべくよい本を買ふんである。又自分は必ず初版を買つて再版まで待たない。世の中には初版は著者が世の中へ自分の心を試めしに出したものだから不完全なものであると云ふけれども、自分は再版を待つ人間を知識を得ることより金を貯めた方がよいと考へてゐる人だと思ふ。」
 全く誰かの云つたやうに、どの書物も再版されるとは限らないのだから、若し再版が欲しければ再版が出た時に買へばよいので、初版と二冊とも買つて置くにしくはないのである。尚又再版は著者が、削つたりふやしたりするので所謂こしらへ物が出来てしまつて、著者の有りのまゝの姿を見ることが出来ない。然るに再版を初版と兼ねて持つて居れば、著者が如何なる部分を削り、いかなる部分を補つたかゞよく解つて著者の心を知るに一層便利である。それに初版は大抵後の版よりも三倍か四倍の値段を持つもので、これが又蒐集家にとつて極めて嬉しいとこであるらしい。
 だが、と、ヂスレリーは云ふ――本を沢山集めると湿気でぼろゝゝ(※2)になつたり、紙魚が喰つたり、鼠が荒したり、借りて行く人(盗人でないが)が荒したりするものだ。

(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。

底本:『紙魚』大正15年12月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2017年10月6日 最終更新:2017年10月6日)