小説に筆を染めるやうになつてから、「種さがし」といふことをやるやうになつた。然し小説の種なんか何処にも落ちて居ないし、又売つて居るところもないから、やむを得ず書物を繰りひろげて、捜して見るが、さて中々見つからない。どれもこれもみんないゝ種になりさうで、さて、少しく考へて見ると、どれもこれもみんな種にならない。実に困つてしまふ。困つたところが誰も援助してくれない。結局は自分の想像力の足らぬことを今更ながらなげき悲しむより外はない。
ヂッケンズは、「天才は些事に注意する生物だ!」といつた。彼の言葉のとほり、彼の大きな小説は、恐らくみんな、小さなことに注意したがもとで出来上つたのであらう。小説に限らず、学術研究でも、些事を見のがさなければ、立派な業績がいくつでも出来上るわけだが、さて研究室にはひつて居ると、兎角ぼんやりして折角のいゝ種を見のがしてしまふ。私の血清学研究を指導して下さつた恩師M先生は「散歩しませう。散歩しませう。散歩すると、よい考へがひらめいて来ます。」とよく教へて下さつたので、私も散歩して色々考へたものだがなるほど、時にはよい考への浮んで来ることがあつた。小説を作るのも同じことで、ちと散歩でもして考へを纏めたら、多少はよい種に行き当るかと思ふが、何分病身で、少し散歩を続けると苦しくなり、その方に気をとられて、小説の筋などちつとも纏まりはしない。随分困つたことである。
生きた人間に接することが少なければ、それだけ見界(けんかい)が狭くなつて、書くものに実感が伴はない。ことに物ごとを客観的に見ることに馴らされて来た私の頭には主観が燃えにくい、いはゞ板につきがたいのである。だから人間を練り直さなければ到底碌な小説は書き得まいと思ふ。といつて今更練り直すにはあまりに年をとり過ぎて、どうにも致し方がない。若い人が羨ましい。もつと若い時分にどうにかして置くとよかつたにと思つても、後悔は先に立たぬ。
大正九年の冬、海外から帰朝したときには、五年後に探偵小説を書かうなどとは夢にも思はなかつた。留学中、探偵小説が好きで、可なり沢山読んだことは読んだけれど、自分で作つて見ようなどといふ気は毛頭なかつた。病気を懐いて帰つては来たものゝ、一年も休養したら、東北大学へ帰つて衛生学を受持つ気であつたところが帰朝早々流行性感冒から肺炎にかゝつて、やつとカンプル注射で一命を取りとめ、それから間もなく大きい咯血をして、づつと床の上に横(よこた)はり、大学の方はあきらめて、小説を読むやうになつた。大正十年の秋、つれゞゝ(※1)なるまゝに、東京日々新聞に、「学者気質」なる随筆を発表して、その中に探偵小説のことを書いたが因縁となつて、森下雨村氏と知己になり、「新青年」へ犯罪に関する雑話や探偵小説に関することなどを発表させて貰つて今日に至つたのである。病中、森下さんが、どしゞゝ(※2)海外の探偵小説を送つて下さつたので、病気の方はそつちのけになり、幸ひに、起居に不自由のない迄に恢復したのであるから、森下さんと「新青年」とは、私の病気を治してくれた恩人に数へること(が)(※3)出来る。
いづれにしても、探偵小説の創作をするやうになる位ならば、もつと、その心懸けをして置けばよかつたのにと、残念至極である。東京大学の一年級のとき、参考書を買ふ金に窮して、「あら浪」といふ連載小説を、京都の日出新聞に書いたことがある。一回五十銭で八十回書いたのだから、合計四十円。明治四十四年頃の貧乏書生に取つては大金だつた。この小説はもとよりくだらないものだが、金に窮したばかりでなく、一つには友人たちに対する意地つ張りもあつたやうに思ふ。その頃私がよく小説のことを口にするので、友人たちは、口ばかりでは駄目だ、作ることが出来なければといふやうなことを言つたものである。そのとき露伴は二十一歳のときに処女作を発表したといふやうな話が出たところ、気がついて見ると丁度私はその時二十一歳だ。で「よし、俺は今年中に一つ小説を書いて見せてやらう。」と決心して十月頃から、年の暮までに書き上げ、日出新聞に買つてもらつて、翌年三月頃から発表されたのである。誠につまらない意地を出したものだが、金がはひつた時はさすがに嬉しかつた。
その頃から、探偵ものが好(すき)だつたので、たしか、その小説は、一人の老翁が、ある男に依頼されて、須磨の警察署へ一箇の行李を運んで来たので、警察署員がその行李を開いて見ると、中から絞殺死体が出て来るといふやうな書き出しであつ(た)(※4)と思ふ。この小説を書き上げて、新聞社に送りまだ新聞に発表されぬ前に、善光寺へ女の死体を行李詰にして送つた犯罪が実際に行はれたので、私は恰もその事件からヒントを得て書いたやうになつてしまつた。そんなやうなことから、私は犯罪といふことに興味を持つやうになつたのである。
然し、小説などを書いて居ては、学科の方がおろそかになるので、私は、小説を書くことをふつつり思ひ切り、恩師の家に書生をさせて頂いたりして学校を卒業し、爾来、短篇小説一つ書いたことはなかつた。若し学生時代に創作に心を寄せて居たら、多少は物の見方も変つて居ただらうに、今はもう、too late の感がある。
最近探偵小説は素破らしい勢(いきほひ)で流行し、江戸川亂歩の如き天才を生むに至つた。私はこの時に当つて年の若い作家の輩出を切望してやまないのである。この機に乗じて出なければ、日本には当分探偵作家の出る見込はないやうな気がする。諸君、願はくば奮発せよ。
(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文は「数へること出来る」。
(※4)原文は「あつと思ふ」。
底本:『新青年』大正15年2月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(最終更新:2017年3月24日)