『名古屋近代文学史研究』 第18号 1月10日発行
扨て井口唯志は大正十二年来、病を得て郷里尾北の大日比野の地にあり、病を養いつゝその文筆を磨いていたのであろうか。それから三年、処女作と言われる「幻の十字架」を名古屋新聞に連載をはじめたのは大正十五年のことであつたが、その時期は前記の通り我国に新しき大衆文学創造の気運が澎湃として起り、且つその文連の中堅的担い手は、郷里に近き名古屋を本拠とする江戸川、国枝、小酒井等錚々たる大衆作家達であつた。そして井口がそれ等の人々と生涯の交りを結んでゐたことを思えば、新進気鋭の井口にとつてその創作意欲は大いに刺戟されたのであり、作家としては非常に恵まれた環境の中にあつたと云うべきである。
『名古屋近代文学史研究』 第19号 3月10日発行
いま、大正十五年版の『中央文学』という二冊の雑誌を手にしている。井口唯志の名があつた。文学に生命をかけた彼の存在が、この雑誌の主動力になつているのではないか、とふと思つた。
編輯委員は井口唯志、岩田賢一、市川彦光、関潤の四人。
創刊がいつだかわからないが、ともかく二冊のうちの一冊は〈復活号〉と題されて、新聞、雑誌にも刊行広告を載せ、岩田によると〈中部日本に並ぶべきなき大文芸誌だから、沈着に熟考を重ねて〉送り出されている。
(中略)
復活号を記念して、小酒井不木と市川此星が随筆を寄稿。不木らは再三協力し、同人の支えとなっていたと思われる。
裏表紙に、医博としての小酒井不木の著書『闘病術』(東京・春陽堂)の広告が載つている。当時、すでに胸部疾患に悩んでいた井口は、親交を重ねていた不木の、自らの体験をも基にしたこの肺結核療養法を、どんな思いで読んだであろうか。その不木も昭和四年四月、享年四十歳で没している。
『名古屋近代文学史研究』 第19号 3月10日発行
次号には、小酒井不木特集を行なう。略伝、耽綺社、作品論等に分け、パートの取り決めなどについて意見交換を行なう。
長馬圭之、岡戸武平氏らに依頼したらどうかなどの発言も出る。
『名古屋近代文学史研究』 第20号 5月10日発行
六号室はもともと私の生活の手段ではなかつたが、誰かゞそのつもりになつてやれば十分経営できる筈だつた。私は別に東雲町に住居があつてめつたにここでは寝なかつた。それを知つている武平は、私がそろそろ厭気になつて譲つてもよいと言つたのを、不木に話したらしく、不木は東京にいる女流歌人を呼び寄せた。私としてはまだ多分に未練を残している六号室へある日武平が不木と当の女流歌人を連れて現われた。三十四五の痩せた女性だつた。
『名古屋近代文学史研究』 第20号 5月10日発行
彼の母親に対するこの淡白さは、〈別にそれを知らなくつたつて飢え死にもしない〉という言葉で濁されているが、推理好きな不木にとつて、これは納得のいかぬところである。もらい子であつたか(不木は一人つ子として育てられている)、あるいは妾腹の子でもあろうか、知らぬが、おそらくはこの母親と、父と、そして不木の間に、何か不快な、少なくとも愉快ならざる事情が介在していたものと思われる。さらにそれを、不木自身はある程度、察していたのではなかつたか。
寺沢鎮氏の『名古屋つ子』によれば、当時、真野毅(元最高裁判所判事)、三輪誠(医博、元名古屋大学教授)とともに、一中の三秀才の一人に数えられていた。
『名古屋近代文学史研究』 第20号 5月10日発行
今度読んだのもわずかに一短篇だけである。大衆文学大系短篇下の中の「闘争」である。これだけで何かを書けと言われて困つてしまつた。ましてや、頼みにしていた独歩と「闘争」とではもう結びついてこない。しばらくして一つの本が見付かつた。不木の死を調べた『不木の死とその周辺』(木下信三)という小冊子である。
『名古屋近代文学史研究』 第20号 5月10日発行
新国劇の沢田正二郎が逝去したのは昭和四年三月四日のことであつた。その追悼講演会が新国劇名古屋後援会の主催で御園座で催されたのは、同月二十七日。倉橋仙太郎、永島優子、土方与志、西塚寿男、野村清一郎、二葉早苗、久松喜世子、大河内伝次郎、俵藤丈夫らが壇上に熱弁をふるつたが、ひとり不木は病床にあつて出席することができず、代読の形をとらざるを得なかつた。
沢正のあとを追うようにして逝つた不木に対して、新国劇は不木追悼の意味で、「不木博士の死」を劇代し、御園座の五月興行に上演したい旨の申し入れを遺族にした。
しかし、俵藤丈夫理事の交渉も虚しく結局この企画は実現せずに終つてしまつた。
『名古屋近代文学史研究』 第21号 7月10日発行
〈医学を修めたもの〉として医学の発展を願い、〈意志の強固な人に共鳴し、かつその人を尊敬する〉という不木が、その意志の強固な人として医学の発展の為にあえて人間実験まで行つた狩尾と、それを不可能事と考えながらも認めざるを得なかつた毛利との二人の俊才を結局は死なせてしまわなければならなかつたという点にこそ不木の作家としての苦悩があり、生き方があつたのではなかろうか。
岡戸武平 『不木・乱歩・私』 7月7日発行 名古屋豆本第32集 名古屋豆本
これが私の発病時のいきさつで、結果はとうてい勤務にはたえられなくなって郷里へ帰り、ついで完成間もない名古屋市立八事療養所に入所した。ついで妙見山にある日赤療養所に移り、大正十四年秋半全快といった状態で退所した。もちろんまだ復職するといった健康状態ではないので、何か収入源を探さねばならぬ。といって名古屋では新聞社以外に原稿を買ってくれる出版社もなく、仮りにあったとしても無名のわれわれ如きものの原稿を買う筈もない。一つ懸賞小説でも書こうかと思っていると、名古屋新聞時代の先輩で新聞社をやめて「医海」という雑誌を発行していた男(小尾菊雄という)から、小酒井不木が助手を探しているがやらぬかという話があった。渡りに舟である。すぐ承知の返事をして訪問日をきめてもらい、その日鶴舞公園裏の小酒井邸をおとずれた。話はすぐきまった。仕事はさしあたって「闘病術」を書くことで、君の体験を基いにして萎縮している患者の心をふるい立たせ、人体には自然治癒力という偉大な力があるのだから、その精神を掻きたてる内容のものを書けばいいのだという話だった。
岡戸武平 『不木・乱歩・私』 7月7日発行 名古屋豆本第32集 名古屋豆本
巻末覚書(昭和四十九年五月現在)
小酒井不木 本名光次、明治二十三年十月愛知県蟹江に生る。昭和四年四月一日歿、享年四十。
江戸川乱歩 本名平井太郎、明治二十七年十月三重県名張に生る。昭和四十年七月歿、享年七十。
岡戸武平 明治三十年十二月尾張横須賀に生る。現在名古屋市在住、七十七歳。
小酒井久枝(未亡人) 健在にて名古屋に居住、洋裁学院和裁部にて教授。
小酒井望 不木長男、目下東京順天堂病院長。
小酒井夏江 不木長女、医家植松家に嫁ぎ目下健在。
岡戸武平 『不木・乱歩・私』 7月7日発行 名古屋豆本第32集 名古屋豆本
昭和のはじめ、私は面識のあった父に伴なわれ博士のお宅に伺ったことがある。画稿をみてもらい、しかるべき出版社へ斡旋してもらおうというのであった。博士はビアズレーが春画をかいたといったりして白黒画についての理解を示したが、いま考えると「リシストラータ」のシリーズを指したようである。「森下雨村に会え」というので音羽町の古めかしい邸みたいな博文館を訪ねたが、結局さしゑ画家になることはできなかった。岡戸さんの文章をよみながら五十年ちかい昔を思いだして懐かしく思った
『小説推理』 8月臨時増刊号「現代作家がえらぶ知られざる傑作ミステリー集」
私が「メヂューサの首」を読んだのは、ちょうど小学校(当時の国民学校)を卒業し、中学校へ入学しようという年頃であった。
しかも、私は上海から内地へ引き揚げる船の中で、この作品を読んだことをありありと覚えている。
それは戦争中でも、もっとも最悪の事態を迎えた一九四五年の二月半ばだった。つまり、敗戦直前だったわけで、当然、満足な客船などに乗れるわけがなく、われわれ引き揚げ者は便所さえない船倉のなかへスシづめにされたまま、機雷や潜水艦の恐怖におびえながら、九日間もかかって、ようやく内地へたどりついた。
そういうやりきれない状況の中で、ふと手にした小酒井不木氏の短篇集は、それを読んでいる間、私に死の恐怖や、船酔いや、空腹を忘れさせてくれた。
特に「メヂューサの首」が頭にこびりついているのは、作品としての出来のよしあしよりも、戦争とは無関係な世界がそこにあったからだろうと思う。
ギリシャ神話と現代医学とがいりまじって、一種奇妙なエロチシズムをかもしだしているこの作品は、十二才の私に強烈な印象を残した。
今でこそ、この程度のエロチシズムはどうということもないだろうが、エロのエの字も口に出すことをはばかられた戦時中では、ひどくエロチックな感じを与えたものだ。
『現代怪奇小説集1』 中島河太郎・紀田順一郎編 立風書房 8月20日発行
→ 『幻想と怪奇の時代』 紀田順一郎 松籟社 2007年3月20日発行
昭和十年代まで、戦前に活躍した作家の中で、怪奇幻想の分野を手がけた人々は、木々高太郎、小酒井不木、橘外男、平山蘆江、横溝正史、大下宇陀児、久生十蘭、守友恒、蘭郁二郎らである。
『新青年傑作選第2巻 怪奇・幻想小説編(新装版)』 立風書房 12月■日発行