参考文献/資料集 1929(昭和4)年

(公開:2007年2月13日 最終更新:2023年6月10日)
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1月

編輯落葉籠

『医文学』 1月号

△小酒井不木博士からの書信の一節に
 先日御はがきを頂き、もうとつくに御快方と思つて居ましたのに、医文学十二月の後記を読んで驚きました。平素あのやうに頑健な尊台がどうなさつたといふのです。『日本及日本人』に馬上の姿を拝したりしたので、そんなに長く御病気だとは夢にも思ひませんでした。一日も早く御全快のほどを祈つて居ります。小生の腰痛まだ全然去りませず、また一代去らぬと思ひますが、追々馴れて来ましたのでさほど起居には差支なく暮してゐます。
 くれゞゝも御加養のほど、今日はとりあへず御見舞まで。
   十二月三日 小酒井不木

△不木博士があの大患をものともせず、精力絶倫創作に従事せらるゝことは闘病の神髄を得られたもので、病に対する勇者であり、又精神的抗抵力の強者である。病に負けぬやう勇気は療病の一要素である。(後略)

(黎明をうたふ 17)蒼白い頬に浮ぶ 凄い『声なき笑ひ』/大衆文芸は長篇探偵小説へ/腹案を語る小酒井不木博士

『大阪朝日新聞』 1月18日 5面

翻刻: 「黎明をうたふ 17」

2月

耽綺社打明け話 / 土師清二

『大阪朝日新聞』 2月3日(日曜日) 第11面

 会の名前耽綺社ときまる。こは曲亭馬琴などの耽奇漫録より思ひつきたるものにて、小酒井氏発案。

 まづ朝日新聞から夕刊連載小説約三百五十回、興味深き作品を提供せよ、といふ注文を耽綺社が受けたとします。この交渉を受けるのは耽綺社々長(兼事務員にしてしまふ傾向が少しあつて社員一同恐縮中の)小酒井不木氏で、同氏は早速東京在住の平山、長谷川、江戸川三氏と大阪在住の私とに集会を通知して来られる。会場は毎回名古屋で、同地在住の小酒井、国枝両氏と同人六人が集る。
 これまでの例によると小酒井氏がストオリーの根幹となるものを二三提供される。これは同氏が博識強記東西古今にわたつてゐられるからで(真に驚くばかりの博覧強記だ)それを同人一同で評議し取捨按配して一篇の小説の骨子が組立てられることになります。
 で、朝日新聞で三百五十回分ならば原稿にして何枚、興味の盛り方はかうとなると、その時代の考査、人物の配列をきめ、それから最初の第一回から最終の第三百五十回の大団円までの筋書をこしらへます。耽綺社として同人全部が全能力を傾倒して苦心評議するのはこの筋書で、三百五十回の大長篇とすると原稿用紙にして百枚(文字数にして四万字、余白ができても三万字は降(くだ)(※))以上のものを作ります。それだけのものをともかく一度纏めあげ、筋を通して置いて、また評議にかけます。
 さて同人一致で『これでよし』となると(こゝから先をいつてはどうかと思はれますが打明け話だからやむを得ません)同人中で筆者の詮衡が行はれます。(中略)つかまへられた同人は承諾すると多少自家の創意も加へて懸命に、筆を執るといふのが『耽綺社の小説作法』の大体の過程であります。(後略)

(※)原文ママ。

読者諸氏に告ぐ / (係)

『サンデー毎日』 2月3日号

耽綺社同人諸氏は、この座談会の席上において考へた筋書を土台として、早速「意外な告白」と題する探偵小説を作り上げられました。その小説は近く発売する本誌春季特別号「小説と講談」に掲載します。この筆記録に出てくる筋書と、合作の出来上る順序とを読んでおいてから、あらためてその出来上つた小説をお読みになると、合作の内幕も分り、一層興味深いと思ひます。春季特別号の発売をお待ち下さい。

耽綺社座談会

『サンデー毎日』 2月3日号
(出席者)
江戸川乱歩 小酒井不木 国枝史郎 長谷川伸 土師清二 平山蘆江
小田富彌 大竹憲太郎 渡辺均

 大竹 先づ耽綺社のなりたちから伺ひたいと思ひます。
 長谷川 はじめに小酒井さんが新派の喜多村緑郎君から探偵劇の依頼をうけられた。そこへ江戸川氏が現れて、話合つた結果かういふものを合作でやつてはといふことになつて、同人を作ることになつたのでした。
 渡辺 耽綺社といふ名前は?
 小酒井 滝沢馬琴、尾代輪池、山崎北峰などが毎月所蔵の骨董珍品を持寄つて、見せたり批評したりする会に耽奇会といふのがありました。たしか文政頃――。その奇に糸扁を附けて耽綺社としました(。)

3月

れふき

『猟奇』 3月号

4月

編輯落葉籠

『医文学』 4月号

△寒川鼠骨翁が最近京都に遊ばれた途上、葉書に東山の図を描写され左の一首を題して贈られた。
   薮山のうねゝゝかすむ風ながら京人と彼岸埃にふかれ来し
又小酒井不木博士からも編輯子の病気全快を祝されて
   雪降りて山高々と見えにけり
の一句を思はず口ずさみしとて投寄された。

(『喜多村緑郎日記』)四月一日 / 喜多村緑郎

『喜多村緑郎日記』 編者 喜多村九寿子 昭和37年5月16日発行 演劇出版社

 小酒井不木氏逝かる。

探偵小説の小酒井博士逝く

『東京朝日新聞』 4月2日 第2面

探偵小説の小酒井博士逝く 急性肺炎を起して
【名古屋電話】探偵小説作家として名声を博してゐた医学博士小酒井不木氏は去月二十七日来急性肺炎を起し名古屋市中区御器所町北丸屋の自宅で療養中であつたが一日午前二時半遂に永眠した、行年四十
 家庭は夫人ひさえさん(三四)長男望さん(一二)長女夏江さん(四才)の四人暮しである告別式は三日午後四時から五時まで名古屋市矢場町勝曼寺において執行する
 氏は明治二十三年十月八日愛知県海部郡蟹江町に生れ、大正三年十二月東京帝大医科を卒業、同六年十二月東北帝大医学部助教授として文部省留学生を命ぜられ三ヶ年間にわたり英、米、仏三ヶ国において衛生学を専攻帰朝後同九年十二月東北帝大教授に任ぜられ、同十年医学博士の学位を受けた、同十二年以来病のため教授の職を退き名古屋市に転住病を養ふ傍ら探偵小説を愛読し以来病昂じて吐血の上死にひんすること数度、大正十四年春より探偵小説の筆をとり、近時盛んとなつた大衆文学界において名声をはせた、その処女作は大正十四年七月雑誌苦楽に掲載された「呪はれの家」で、今年六月号の文芸クラブに公表されることになつてゐる「抱きつく死体」といふ深刻な作品が絶筆となつてゐる同博士の専門は衛生学で学位論文は「しん透(一文字判読不能)の研究」(英文)であるがこの外生命神秘論、科学探偵、殺人論、学者気質、西洋医談、科学より観たる犯罪と探偵等医学上から観た犯罪著書、また探偵小説、大衆文学としては疑問の黒わく、死の接吻、恋愛曲線等二十余種あり、自己の肺病の体験記録である「闘病術」は多大の世の反響を招いた

ぞつとする陰惨味 江戸川乱歩氏談
「小酒井さんは自身が病身であつたためでもあらうが作品はぞつとするやうな陰惨なものが多かつた、博士独特の鋭い筆力で種々の著述がある、中でも小説『恋愛曲線』や『疑問の黒わく』等は代表的傑作であるが伊井、河合一座が上演した『龍門党異聞』『紅蜘蛛奇談』等の探偵劇もある、博士は私の恩人で私の処女作『二銭銅貨』が新青年に載るとき賛辞を頂いたのが縁となり一昨年暮博士が中心となつて起した耽綺社の同人になつた訳である、昨日博士から手紙を頂いたばかりで余り突然の悲報にうそではないかと思つた次第だ博士が亡くなつたので耽綺社も解散になるだらう」因に江戸川乱歩、森下雨村等の探偵小説家は一日夜名古屋に急行すると■■(本文二字空欄)

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『東京朝日新聞』 4月2日 第7面

小酒井不木氏 絶筆『闘争』60枚
 『新青年』五月号に掲載(四日発売)

 作中人物の法医学者は、万人驚嘆の的であつた、
 闘病の人不木博士ではあるまいか?……………。

死を越えて / 岡戸武平

『名古屋新聞』 4月2日夕刊

 小酒井不木先生の逝去に関する感想は、昨夕の本欄における小林先生の一文によつて殆ど尽されてゐる。しかし私は今、現在『闘病術』を読みつゝある人、または嘗つて読まれたる結核患者である吾が病友の前に一言したいと思ふ。
     ▲
 先生は肺結核によつて死なれたのではない(。)それは『闘病術』の著者をして全からしめんがための、苦しい弁解ではない。事実、急性肺炎によつて亡くなられたのである。二十七日の午前にはまだ原稿を書いてゐられた。三十日には仰臥しながら手紙を書かれた。たゞ心臓が甚だ衰弱してゐたことは確だつた。が昨年の五月から六月にかけても、この位の心臓の衰弱はあつた。
 『なアにこの位……』と言つて、二時間位たて続けにしやべられたことはよくあつた。
 先月は一日から三日間大阪へ行つて来られたし、就床一週間ほど以前には、当地の警察講習会で二時間の講義をされた。そして帰られてから、
 『もういくら放送局から頼みに来ても大丈夫だ』と言つてゐられた位である。肺結核で死ぬ人が、旬日前にこの活動がどうして出来やうぞ!
     ▲
 『闘病術』の愛読者が先生の訃を知つたならばどんなに意気沮喪するか知れないと思ふ(。)ある人には先生の死は『百日の説法へ一つ』の感を抱かせるかも知れない。『あんな強がりをいつてゐても結局駄目か』そんな風に頭下しに考へる人があるかも知れない。
 しかし、先生の生活を目前に見てゐるものは、いかに氏が闘病的修養によつて、けふまでよく病気を征服して来られたか、といふことをよく知つてゐる。事実、あの鉄のやうな意志がなかつたならば、もう疾くに亡くなつてゐられたのではないだらうか。死の直前二分まへに荒川医師が『先生!』と呼ばれたら氏ははつきりと、うなづかれたさうである。それは実に常人のき得る業ではない。
 正岡子規は生前『死は怖くないが、死ぬまでがつらい』と言つた。
 先生は生前『僕は死は怖くないが、やりたい仕事だけ完成したい』と言つてゐられた。
 『闘病術』の著者にして始めて、あれだけの偉業もでき、またあれだけの長命も得られたのである。吾病友よ、決して迷ふなかれ、である。(通夜の席にて)

文芸時評3 小酒井不木氏 / 平林初之輔

『東京朝日新聞』 4月4日

翻刻: 「文芸時評3 小酒井不木氏」

文壇楽屋噺

『サンデー毎日』 4月14日号

 文壇にもこの頃不幸事がつゞく(。)探偵小説作家の小酒井不木氏が去る一日、突然名古屋の自宅で死んだことは、またわれゝゝをおどろかした。もつとも氏は常々余り丈夫な体ではなく、それがために、大学教授の職を辞して創作に専念してゐたにはゐたのだが、こんなに早く死ぬとは誰も思はなかつたらう。先月末から、風邪が因で肺炎を起こしてゐたのが、急に■り卒去したのだ。ことがあまりに突然だつたので、友人なども間にあはず、たゞ夫人や子供たちに寂しくおくられて逝つたのは気の毒だつた。
 氏は文壇とは畑ちがひの衛生学を専攻し医学博士となつた人だつたが、不幸肺を病んだために東北帝大の教授を退き、名古屋に引つこんで静養かたゞゝ、好きな探偵小説を書いたのが、文壇人となるそもゝゝだつた。何しろ、根が科学者だつただけに、書くものが頗る科学的で、鋭利な観察や推理の仕方が注目され、つひに大衆文芸界の大黒柱になつたのだ。読者諸君も本誌やその他で氏の特異な作品に接したことは屡々だつたらう(。)まだ四十の働きざかりなのに惜しいことをした。

耽綺社の指導者 / 長谷川伸

『サンデー毎日』 4月14日号
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行

徹底個人主義 / 土師清二

『サンデー毎日』 4月14日号
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行

梅田ホテルでの話 / 渡邊均

『サンデー毎日』 4月14日号
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行

小酒井不木氏の思ひ出 / 國枝史郎

『サンデー毎日』 4月14日号
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行

翻刻: 「小酒井不木氏の思ひ出」

小酒井不木博士

『紙魚』 4月号

 医学博士小酒井不木氏は去る三月廿七日入浴後、軽い眩暈を感じそのまゝ床に就かれたが、二十九日には、筆を執つて知友に手紙を書かれた程だつた。ところが三十一日深更に及び、病俄然として嵩じ、一日午前二時半、家人に看護せられつゝ急性肺炎で死去された享年四十。三日午後二時名古屋市中区御器所町北丸屋の自宅出棺、同区矢場町勝蔓寺に於て告別式を行はれ、荼毘に附せられた。
 不木博士は本名光次、名古屋市外蟹江町蟹江新田を郷里とし、ひさえ未亡人(三十)との間に望(一二)夏江(四)の二人のお子さんがあつた。
 われゝゝが「紙魚」社を興し、雑誌刊行を企てた最初に、その御後援を願つた有力なる方々の一人に、われゝゝは氏を戴くことを得たことは、どんな喜びであつたことか。
 氏は爾来、その御多忙にもかゝはらず、進んで、われゝゝの事業に対して、立派なる後援者としてのあらゆることをされた。
 創刊第一冊に「西洋初版本漁り」を、第二冊に「比事物叢談」を、第三冊に「書物蒐集狂」を、第四冊に「誤謬の値段」を、第六冊に「検閲官の心理」を、第十冊に「模造の妙手」を、第十六冊に「医家千字文」を、第十九冊に「宗春公と名古屋祭」を、それゞゝ御寄稿願つた。それらは何れも、金玉の文字であつた。
 更に最近お願ひして置いた玉稿は、やがて本誌を飾り得るものと信じてゐたのに、俄かに氏の訃を聞いた、愕然として為す所を知らなかつた程である。
 氏は本道の医学は勿論、探偵小説界の一大権威として大御所の高きに在られたが、更に氏の随筆は高き気品と尚き風格に於て、居然として重きに置かれてゐられた。その氏が、本誌に寄せられた数篇は、往くとして可ならざる所なき氏の卓越せる天稟の所産である。
 向後、わが読者界が「小酒井不木全集」を要望する時、全集は必ずや本誌所載の数篇を登載するであらう。さうする事は氏の全豹を現はすに大きな力となるからである。
 今や氏亡し。追慕の念禁じ敢えず、蕪辞を連ねて哀悼の意を表するのみ。悲しい哉
  昭和四年四月三日 紙魚社同人 謹記

故小酒井博士の著作全集を刊行

『名古屋新聞』 4月19日

寄贈書籍 紹介欄

『心霊医学』 第1年第1号 心霊医学社 4月20日発行

参照: 書評・新刊案内『タナトプシス』

れふき

『猟奇』 4月号

5月

彙報:警察

『官報』 第709号 内閣印刷局 5月14日火曜日

◎予約出版届出 予約出版法ニ依リ警視庁ヘ予約出版ヲ届出タルモノ左ノ如シ
題号 小酒井不木全集
著作者 山本三生
発行者 同上
発行所 東京市芝区愛宕下町四丁目六番 改造社
着手年月日 昭和四年五月十九日
届出年月日 昭和四年五月九日

小酒井不木博士の書簡を辿りて / 長尾藻城

『医文学』 5月号

編輯落葉籠

『医文学』 5月号

△本誌の為めに多大の同情と後援を吝まれなかつた小酒井不木博士が前号の本誌発行の当日に突如として逝かれたことは実に驚愕に堪へぬ。前号の本欄には編輯子の病気全快を祝された俳句が載せてあつた。毎号の本誌を必ず精読さるゝ博士がそれを見ないで亡くなられたことは残念であるばかりでなく、実に人生無常の感なきを得ない。一ヶ月後の本誌にその弔文を掲げやうとは夢にだも思はなかつた。今春編輯子が熱海に遊むで梅林で夫婦連で写真を撮つたと云ふ記事を見て、その写真が是非見たいものだと所望されたので、早速送り届けたのに対し左のやうな葉書を送られた。
 御写真まさに拝手、堂々たる御体躯、これが近い過去に病臥せられたかと不思議です。奥様とは初御目見え、家内と共に無言の御挨拶申上ました、どうぞくれゝゝもよろしく願ひます。
こんな手紙が机上に散らばつてゐるのも涙の種。

小酒井博士の死 / 小笠秀一

『創作月刊』 5月号

(前略)近々の間に小山内氏と澤田氏を失ひ今又氏を失ふ。等之が大きな不運でなくてなんであらう。(後略)

小酒井不木博士 / 大河内英一

『創作月刊』 5月号

(前略)元来氏は医学者であるだけに、氏の探偵創作品は、皆医学から出発してゐた。であるから、可成り架空的な道筋であつても、其処に、医学的真理がうかゞはれ、秩序整然たるものがあつた。それは氏の持つてゐる独特なものであつた。そしてどの作品にも、一種凄惨な匂ひが漲ぎつてゐた。それは、ふだん病弱であつた氏の淋しかつた気持ちの潜在かも知れない。(後略)

不木の雅号に就て / 桑原虎太郎

『犯罪学雑誌』 5月号

探偵小説の小酒井不木氏逝く

『文学時代』 5月号

 探偵小説家として名声を博してゐた医学博士小酒井不木氏は三月廿七日以来急性肺炎を起して名古屋市中区御器所町北丸屋の自宅で療養中であつたが四月一日午前二時半遂に永眠した。行年四十。江戸川亂歩森下雨村氏等の探偵小説家耽綺社同人達は同夜名古屋へ急行した。告別式は同三日名古屋の某寺で執行され柩の上には故人の傑作「疑問の黒枠」の挿絵の画家であつた大澤鉦一郎氏の筆になる死面の素描が描かれ文芸家協会を代表して國枝史郎氏が弔辞を述べた。

記者より

『文学時代』 5月号

(前略)小酒井不木氏の「鼻に基く殺人」は、実に氏の絶筆です。氏の逝去直前に着社した此の原稿は、おそらく氏の最後の執筆にかゝるものと思ひます。小酒井氏については、「文壇ニユウス」に於て大体紹介して置きました。

大衆文芸壇

『文芸春秋』 5月号

▽小酒井不木が死んだ。探偵小説界はいよゝゝ寂莫だ。僕は、毎月五種の外国探偵雑誌を取つてゐるが、翻訳したいと思ふ位の作は二ヶ月に一つ位しか無い。「新青年」が、性慾物で埋めるのも無理は無く、翻訳しやうにも然り、いかに謂んや創作に於てをや、もう一つ謂んや、外国が然り、いかに謂んや日本ではで、大下、横溝も二三書くと共に、行づまつてしまつた。

肺患で闘ひつゝ名を成した小酒井不木氏逝く / 一記者

『雄弁』 5月号

 探偵小説界の重鎮として名声を博された小酒井不木博士が、去る四月一日、突如急性肺炎のために亡くなられた。
 突如といつても、博士は多年の病身であつた。医科大学を卒業して約一ヶ年後、大正四年の冬発病してからは、幾度か大喀血を起して、死に瀕したが、常に精神力によつて、病魔を退散せしめ、一方に於て療養生活を続けながら、一方に於て文筆生活に携はり、宛(さなが)ら身に病あるを知らざるが如くであつた。
 博士は肺病の恐るべく、また絶対に恐るべからざる理由を知つてをられた、其れ故、病床に絶対安静を守つてをられる時にも、一日平均一冊宛(づつ)の書物を読破せられた。博士の博文多識なる、誠に故なしとしない。そして、やがて大衆文芸の勃興し来るや、その先駆者となつて、幾多の傑作をものされた。本誌にも、昨年、探偵小説「雪の夜の惨劇」を連載異常の喝采を博したことは、読者諸君の記憶に新(あらた)なところであらう。
 博士は、原稿などを依頼しても、その期日や、枚数等は必らず正確にされた、いま訃報に接して、哀悼の意切なるを覚える。
――四月二日・一記者――

逝ける小酒井不木氏(口絵)

『若草』 宝文館 5月1日発行

れふき

『猟奇』 5月号

編輯室より

『世界大衆文学全集月報 第十四号』 改造社 5月3日発行

◇次回はヅーゼ原著小酒井不木博士訳「スペードのキング」「四枚のクラブ一」東健而氏訳「世界滑稽名作集」を配本したいと思ひます。
◇ヅーゼの訳者小酒井氏は去る三月尚ほ春秋に富む身をもつて突如逝去されました、吾等は会員諸君と共に謹んで哀悼の意を表し、博士の最後の訳文にして、専門的研究を積まれた傑作を配本して故人を偲びませう。 (中略)
◇小酒井不木全集が本社から発行されることになりました。近く内容を発表します。

三つの天才 / 平山蘆江

『世界大衆文学全集月報 第十四号』 改造社 5月3日発行

翻刻: 「三つの天才」

小酒井不木氏と翻訳 / 甲賀三郎

『世界大衆文学全集月報 第十四号』 改造社 5月3日発行

翻刻: 「小酒井不木氏と翻訳」

世界大衆文学全集 次回配本

『世界大衆文学全集月報 第十四号』 改造社 5月3日発行

参照: 書評・新刊案内『スペードのキング/四枚のクラブ一』

ドウーゼの作に就いて / 森下雨村

『世界探偵小説全集13 ドウーゼ集』 博文館 昭和4年5月28日発行

はしがき / 國枝史郎

『不木句集』 私家版 昭和4年刊行

編者の言葉 / 石田元季

『不木句集』 私家版 昭和4年刊行

 / 茅原華山

『内観』 111号 5月

 

6月

超人小酒井不木博士

『朝日』 6月号

 学識あり、才能あり、そして前途なほ成すべき多くの仕事をもつてゐる人が、病のために死んでゆくほど惜しいことはない。小酒井不木博士の場合などそれである。博士の名は探偵文学の方面で世間に知られてゐるが、専門は血清病理学で、年三十に足らずして、その方面での世界的発見をなし、「ドクター小酒井」の名は日本の学界よりも寧ろ外国の学者の間に喧伝されてゐた。専門は専門として、他の方面でも不木博士ほど多趣味な人は珍しく、その最も得意とするところは踊の研究、ついでは浅草の研究、それから独逸哲学、専門の病理学はその次ぎに位するものであるとは、学生時代の同窓である某博士の話である。すれば探偵小説などはまだその下位に置くべき余技でその他絵画に、篆刻に、江戸文学の研究にと算へ立てゝ来るとまだいくらもあらう。博士を知る人はいづれも再びあんな多趣味な天才を求めることは出来ないと惜しんでゐる。本誌巻頭に載せた短文も今は貴い絶筆となつた。

思い出の断片 / 横溝正史

『新青年』 6月号
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行

小酒井氏の思い出 / 森下雨村

『新青年』 6月号
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行

肱掛椅子の凭り心地 / 江戸川乱歩

『新青年』 6月号
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行

作家としての小酒井博士 / 平林初之輔

『新青年』 6月号
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行
→ 『平林初之輔探偵小説選2』 論創社 2003年11月10日発行

翻刻: 「作家としての小酒井博士」

小酒井氏と江戸文学 / 尾崎久彌

『新青年』 6月号
→ 『軟本羮』 廣済堂出版 昭和43年3月30日発行
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行

先生の余技 / 岡戸武平

『新青年』 6月号
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行

吾等の一大損失 / 甲賀三郎

『新青年』 6月号
→ 『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』 幻影城 昭和53年3月1日発行

ドウーゼの作品 / 森下雨村

『世界大衆文学全集 月報』 第十五号 改造社 昭和4年6月3日発行

 ドウーゼの日本探偵小説界出現はまことに彗星的なものであつた。私は小酒井氏の訳になる「スミルノ博士の日記」を一読して、瑞典にかゝる素晴らしい作家がはたしてゐるのかと、先づその存在をうたがつたくらゐであつた。

編輯室より

『世界大衆文学全集 月報』 第十五号 改造社 昭和4年6月3日発行

◇ヅーゼ原著小酒井不木訳「スペードのキング」「四枚のクラブ一」東健而訳「世界滑稽名作集」を第十六回配本としました。
◇ヅーゼは小酒井博士が初めて日本に紹介した北欧の巨人で、博士の言を借るなれば「ドイルよりもルブランよりも遙かに面白い作品」である、図らずも博士最後の翻訳となつたことを悼むと同時に、一行をも忽かせにせぬ博士の労作を味読されむことを希望します。
◇尚ほ、小酒井博士の訳稿は去る二月九日本社に向けて博士自ら発送、追つて組版の進行に従つて序文を草する筈であつたが、忽然として訃音に接し、止むなく本集のみは訳者の序文を欠きます。
(中略)
◇本社から「小酒井不木全集」全八巻(一冊一円)が出版されます、医学博士にして文人である氏の作品は、犯罪研究、闘病文学、探偵小説等何れも貴重な研究で、全社会人に愛読を薦めます。

小酒井不木全集(全八巻)

『世界大衆文学全集 月報』 第十五号 改造社 昭和4年6月3日発行

参照: 書評・新刊案内『小酒井不木全集』

小酒井不木全集 / 潮山長三

『名古屋新聞』 6月3日

(小酒井不木「抱きつく瀕死者」口絵)

『文芸倶楽部』 6月号

 H新聞社の社会部記者春木三郎は、いまや夜勤を終へて、行きつけのカフエー「明暗」へ行かうと足を急がせてゐたが、その時、ふと前方を見ると、今にも倒れさうな足どりで歩いて来る男がある。見れば何やら盛んに胸のあたりを掻きむしつてゐる様子――
 春木の側まで来ると倒れるやうに彼の体によりかゝつて来たが、
「水、水、水!」
 と三度ほどかすかに叫んだ。
「どうしたんだい、おい、君、君。」
 と春木は抱いてゐる男を強く揺ぶつたが、男は一言も発せず、激しい痙攣のやうなものを起したかと思ふと、そのまゝ体は段々冷たくなつて行つた。――以上は、本号所載小酒井不木先生が最後の傑作探偵小説「抱きつく瀕死者」の一場面です。
山川秀峰画

小酒井不木氏略歴

『猟奇』 6月号

れふき

『猟奇』 6月号

(広告)新青年編輯部特輯 新青年叢書

 

3 不木傑作選集 小酒井不木著
探偵小説の父、我等が不木氏の傑作を集め、本選集を除いては一冊を以て氏の全幅に徹するもの他に断じて無しと、秘かに編者の自負して止まざる快適本。

7月

前兆? / 國枝史郎

『朝日』 7月号

参照: 翻刻テキスト:「前兆?」

新舞子だより / 國枝史郎

『騒人』 7月号

 

現下文壇と探偵小説 / 平林初之輔

『文学時代』 7月号
→ 『平林初之輔探偵小説選2』 論創社 2003年11月10日発行

 仮りに佐藤春夫が小説家として非常にすぐれてゐて、時に探偵小説的作品も書くけれども、それは探偵小説としてはあまりすぐれてゐないとする。又大下宇陀児が、探偵小説だけはすぐれたものを書くけれども、外の小説は全く駄目だとする。これは例にあげた二人には申し訳けないが、私はこゝで事実を指摘してゐるのではなくて、たゞ仮定してゐるだけである。今例にあげた二人の場合、実際はさうでないとしても、かういふ場合は実際にはあり得ることである。それはモオリス・ルブランとたとへばチエスタトンとを例にあげてもよい。チエスタトンの探偵小説の価値を非常に高く評価する人も中にはあるが、それは探偵小説の独自性を認めない人々であつて、私は彼の作品、わけても、小酒井不木が彼の傑作として翻訳紹介した『孔雀の樹』のやうな作品は探偵小説としては実に退屈な失敗の作だと思つてゐる。
 これに反してルブランの「リュパン」物などになると、材料の真実性は稀薄だし、描写の迫真性も乏しく、読んで私たちの魂の奥底にふれるやうなところは滅多にないが、それでゐて探偵小説としては実に面白い。

日本探偵小説発達史 / 森下雨村

『文学時代』 7月号

 日本の探偵文壇を今日あらしめた功労者の一人は故小酒井不木博士である。東北大学教授の栄職にあつた氏が犯罪並に犯罪文学の研究から入つて、自ら創作の筆を執り幾多の名篇を発表した事は、探偵文学の発達に貢献するところ多大であつたは勿論、探偵小説に対する一般読者の見解を覚醒せしめたゞけでもその功績は永久に記念さるべきものがある。

『蘆花全集』広告

『文学時代』 7月号

『蘆花全集』第九回配本(七月刊行)
トルストイ、探偵異聞、ゴルドン将軍伝
▼前二書と全く趣を異にする『探偵異聞』一篇は、故小酒井不木氏をして最も感嘆せしめたもので、小酒井氏は蘆花氏に此の一著あるが為に著者を敬愛するとまで云つてゐる。

8月

れふき

『猟奇』 8月号

フレッチヤ氏とその作品 / 森下雨村

『世界探偵小説全集15 フレッチヤ集』 博文館 8月発行

 

10月

東京勝手話 / 潮山長三

『名古屋新聞』 10月29日

東京勝手話 / 潮山長三

『名古屋新聞』 10月30日

東京勝手話 / 潮山長三

『名古屋新聞』 10月31日

れふき

『猟奇』 10月号

11月

紫錦台便り

『犯罪学雑誌』 11月号

△本誌も各地の熱心なる会員の御援助によつて、段々と発展して参ります。第二巻一号は其月の中に品切れになり、第二巻第二号の小酒井不木号も長い間品切れでありましたが、各地から残本はないかと御問合せになる方が続出するので、思切つて、第二版を出す事に致しました。再版号には小酒井さんの写真も増し、小酒井さんの筆蹟をしのぶために、其写真を二枚加へ、表紙もすつかり改めました。表紙の図案は森さんに描いて戴きました。
 小酒井不木号の諸家の筆は何れも小酒井さんの面目をよく書いて居りますが、殊に永井先生の一文は、弟子を愛惜する師の慈愛がひしゝゝと我々の胸にしみ込みます。今年五月不木号が出来て永井先生の教室宛てに御送りしました処、先生は、不木君追悼号を読んでは泣き、泣いては読みして居ります。これは教室には置きません。余りに涙をさそひますから、と云つて次の一句を送られました。
 「魂よ 今 いづこにあるか 杜鵑」
 小酒井さんが逝くなられて既に半歳以上も経ちました。それでも私達の心には依然として小酒井さんが生きて居ります。恐らく永遠に生きて行くでしやう。

12月

昭和四年の文壇の概観 / 平林初之輔

『新潮』 12月号
→ 『平林初之輔探偵小説選2』 論創社 2003年11月10日発行

(前略)小酒井不木の死は、探偵小説らしい探偵小説の出現をさらにおくらしたという点からだけでもおしまれる。

『平林初之輔探偵小説選2』(論創社・2003年11月10日発行)より引用。