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前兆?

國枝史郎

 小酒井不木さんが長逝された。前兆のやうなものが私にあつた。
 私は新舞子に住んでゐる。愛知県知多郡新舞子である。私の家の前に小酒井さんの別荘がある。私の家と同時に建てた別荘である。
 新舞子は名古屋市から愛電に乗ると四十分で達する、その新舞子の一つ向ふの駅を大野と云つて世界で最も早く設立された海水浴場である。相当大きな町である。私の家のすぐ下に女の按摩さんがゐる。お稲荷さんの堂守を兼ねてゐる。よく私の所へも来て治療をしてくれる。或日その女の按摩さんが私の所へ来て次のやうに話した。
 今日大野へ治療に行きました。三軒へ行つたわけです。すると三軒ながら私に訊くのでした。『國枝さんが死んだといふ噂があるが本当か?』と。で、私は云つてやりました。『いえそんな事はありません。現に今日も國枝さんを見掛けましたと』(※1)するとその人達は云ひました。『あゝでは小酒井さんが死なれたのだらう』と。この噂は大野ばかりでなく新舞子にも伝はつて意外に反響を起したやうであつた。私は一寸気になつたので小酒井さんへ電話で様子を訊ねやうかと思つたが、小酒井さんはあゝいふ科学者であり迷信らしいものを排してゐられたのであるから、そんな事を電話で云つてやつたら一笑されるであらうと思つて止めた。然るにさういふ噂が立つて約一ヶ月経つた時に、小酒井さんが長逝されたのである。変だな――と、私は今も何んだか変に思つてゐる。この事実は小酒井さんが長逝された日に、当地の新聞記者の幾人かへも私はお話した。

(※1)原文ママ。

底本:『朝日』昭和4年7月号 ※筆写した原稿を基に翻刻(筆写協力、阿部弓子)

(リニューアル公開:2009年10月27日 最終更新:2009年10月27日)