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三つの天才

平山蘆江

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 小酒井博士の顔が一種特別の顔だつたといふ事を、私は都新聞紙上で書いた。平生は文(※1)通りの温顔で、どれほどの無理でも聞いてくれさうな顔、その顔を見ながら、とぼけた世間話か、相当にをかしい話でもしかけると、さつと変つて、眉毛から脣までの間にクシヤヽヽヽ(※2)と皺をよせた極端な笑顔になる、それほど極端な笑顔である故にこの笑顔が元の顔に戻るのは容易であるまいと思つてゐると、思ひがけなくさつと再転して、たつた今の皺がもう拭いて取つたやうに消えている。而も笑顔の消えた途端、博士の顔の冷たさ森厳さは吃驚するほどのものである。稍暫く、森厳な顔がつづいてから、今度は又しづかに拭いて取るやうに森厳さが消えて、平生の温顔に戻る。とこの風な三段の変り方を絶えずくりかへしてゐるのが小酒井博士の顔である。
 温顔から笑顔へが暗転、笑顔から冷たい顔へも暗転、それから冷たい顔から温顔へは、しづかに絞つて変る、といふ行き方なので、博士と初めて逢ふ人は、この奇異な顔の変転に驚かないものはあるまい。
 かうした三様の顔の変化する因由を私は博士の死後に初めて知る事が出来た。あ(※3)三様の顔は博士自身が生れながらにして備へた三つの天才的実力を意味してゐたのであつた。
 三つの天才、それは冷顔が学者としての天才、笑顔は探偵小説家としての天才、それから温顔は事務家としての天才、以上三様の才分である。
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 探偵小説家としての小酒井博士の事は、世間の人の方がよく知つてゐる。「疑問の黒枠」といひ「恋愛曲線」といひ「人工心臓」といひ、可なり多方面に亙つて、創作の才能を発(※4)してゐるので、私は私自身が博士との交際を経ない中、既に世の読者と共に博士の作品の奇異と、深刻と、宏大な事を知つてゐた。
 其後、耽綺社へ加盟してから、私は博士のその事務的天稟をはじめて知つた。博士の事務的才能は実にすばらしいもので、ここ二ヶ年の耽綺社事務を寸毫の渋滞もなく、実は着々として博士一人の力がよく取まとめて来た。かうした博士の特異な天分は、全く、世間一般の人々の夢にも知らぬことであらう。
 まだそればかりでない、医学者としての博士は、門外漢たる私がかれこれ言はずとも、二十八歳にして博士となり、三十歳にして世界的の篤学となつたといふ博士の閲歴が立派に物語つてゐる。決して、博士の没後その研究室の整理をした金沢医大の古畑種基博士が、小酒井氏の血(※5)学は世界の医学界よりも更に二歩を進めてゐた事を初めて知つたと証言したのでもはつきり証拠立てられてゐる。

(※1)原文ママ。「字」の誤植か。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文ママ。「の」の誤植か。
(※4)原文ママ。
(※5)原文ママ。

底本:『世界大衆文学全集月報 第十四号』(改造社・昭和4年5月3日発行)

(公開:2009年1月30日 最終更新:2009年1月30日)