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黎明をうたふ 17 蒼白い頬に浮ぶ凄い『声なき笑ひ』/大衆文芸は長篇探偵小説へ/腹案を語る小酒井不木博士

 名古屋鶴舞公園のほとり夥しい書物の渦に埋(うづ)まつた書斎の小酒井不木博士、大きな眼をギロリと光らせて『六月にまたへたばり(※1)ましてね、ちよつとも書きませんでした、尤もわたしの小説は、なに分本職が不生産的な学者稼業ですから、その埋め合せの、食ふための金儲け小説ですよ、文芸価値の何のつて、もちろんゼロだし私自身もそこまで深く考へてもゐませんが……大体いまの大衆文芸なんて、まあみんな私のと似たり寄つたりの金儲け小説でせう』と相好を崩して鼻から上でニツ(※2)と笑ふ、痩頬に青白い光が流れて、まさに怪奇小説の主人公そのまゝだ(。)(※3)天井の高い部屋、あつてもなうてもの電気ストーヴに冷たい手をかざしつゝ、まづ大衆文芸論からはじまつて怪奇小説、探偵小説漫談に熱い番茶をなんべんも冷しつづける………
『そもゝゝ(※4)大衆といふのは釈迦が祇園精舎に集まつた坊さんたちに、「一切大衆」と仰しやつたのがはじまりで、大衆とは坊さんのこと(、)(※5)つまり坊主の小説といふ事になるんだが……』
と、ニツと声のない凄い笑ひをしてから
『……「静岡藩」が現れたり「王朝時代に裃姿」が出てくることくらゐ大衆作家には朝飯前の芸当で、これは歴史的事実に背くものだなんて議論する方が野暮、そんな事実にこだはらずたゞ面白く読ませればいゝといふのが大衆作家の了簡かも知れない、大衆文芸の生命十年と誰かゞ予言したが、チヤンバラが方向転換をして近ごろ変態性慾や変態性格を取扱ひ出したが、どの作品をみても誰の作品を読んでも同じこと、A氏の作をB氏の作と発表しても読者は一向お構ひなしに読める……つまり同じやうなものを乱雑に無造作に書きなぐつてゐるだけで何の感銘なく、あはれ感興さへ薄らいでいよゝゝ(※6)行詰つてしまつた(。)(※7)近ごろまた、日蓮主義の講義にまで手を出してゐるのがありますね、全く吹き出したくなる、この調子では今に自然衰亡、自然消滅のほかあるまい、作家もどうかせねばならん、何とか考へねばならないと、みんなが一様に案じあぐんで五里霧中のうちに新生命を窺つて、しかもまだ暗中模索のかたちですね』
 大衆文芸の行詰りに落ちて行つた話題は転じて、不木氏得意の探偵小説に移ると、さすがに口調に熱を帯びて来る(。)(※8)
『全く探偵小説は魅力をもつたものですよ、現在長篇に延びてゆくべき余地が十分あり余つてゐるのですが、もちろんいゝ頭脳と十分の体力が必要で、さういふ人が出なければ駄目だけれど……英、仏にはずゐぶんいゝ作品が出ますね、ドイツ人は推理力は発達しても空想に乏しいからいゝものが出ないのでせう、日本でも短篇にはずゐぶんいゝのがある、E氏のサドヒズムなどとてもいゝにはいゝが、あゝいふ怪談は長篇にはなれない、はじめからお化けが飛び出してお化け踊りがどこまでもつゞいてゆくんぢや、むしろ滑稽で探偵味も糞もありませんからね』
と、先生、またこゝでニツと無言の凄笑(。)(※9)
『探偵小説は建築のやうなもので(、)(※10)その場のゆき当りばつたりでは胡魔化せない、大衆文芸なら、一つ種本があれば片手間に二つ三つ立ちどころに書けるけれど(、)(※11)探偵ものは片手間では出来ません、近ごろ大衆作家も探偵味を狙つてゐるやうですが、大衆作家が探偵小説を書いたら不生産的で困るでせう、大衆作家はそれほどの苦労もせずこれまで三日で書けたものが、探偵小説になると十日も二十日もかゝる、おまけに血を吐くやうな苦労もせねばならん、第一原稿料がてんで比較にならないでせう、拙いながら探偵小説の雛形を世に示してから数年になる、後援つゞかずで、私も実はいさゝか悲観してるのですが、健康恢復を待つて、近く長篇にかゝりたいと思うてゐます
 私が医者の立場から、さしづめ肺病患者の殺人――といふやうなものを持ち出しますね、一体この患者は何でもないのに人に誤られ厭はれて全く救はれざる状態に陥り(、)(※12)ひどく医者を恨んでゐるものです(。)(※13)かういふ点から出発して書いてみたい、ドストイエフスキーの「罪と罰」を読むと、本当に救はれたやうな気持ちになりますね、もちろん、あれほどの才能はないけれど、患者がそれを読めば自然に、本当に救はれるやうなもの――さういふ希望をもつてゐます(。)(※14)
 その長い興味を繋ぐ武器は性慾――といへば先達つてキネマの人が来ましてね、勇敢なカウボーイや剣戟の響きはもう駄目だから、性慾に入つてゆくといつてましたよ、探偵小説が性慾、大衆作家も性慾に新らしい進路をとれば成功するかも知れません、要するに人間の興味の頂上は性慾ですからねえ』
 と、先生最後に、無言の凄笑を破つてハハ……と大きな声をあげて笑つた(。)(※15)

(※1)(※2)原文圏点。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)原文句読点なし。
(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)(※8)(※9)(※10)(※11)(※12)(※13)(※14)原文句読点なし。

底本:『大阪朝日新聞』昭和4年1月18日

(公開:2023年6月10日 最終更新:2023年6月10日)