参考文献/資料集 1996(平成8)年

(公開:2006年1月23日 最終更新:2024年10月8日)
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3月

―あいちの生んだ小説家展―小酒井不木展

『年魚市』 第10号 愛知芸術文化センター愛知県図書館 3月15日発行

 平成7年11月24日から12月24日までの25日間、「あいちの生んだ小説家展」の第4弾として「小酒井不木展―探偵小説の黎明」を開催した。
 小酒井不木は1890年(明治23年)10月8日、愛知県海部郡蟹江町に生まれた。少年時代から頭脳明晰であり、医学者として将来を嘱望されながら、持病の結核のため東北帝国大学教授の職を辞することとなった。その後、名古屋に居を構え、探偵小説に筆を染め、探偵小説の大衆化を図ると同時に探偵小説文壇の指導者としての役割を果たした作家である。
 今回の展示では、作品、蔵書、遺品、写真パネル等を7つの区分に分け、不木の生涯を回顧することとした。

小酒井不木略年譜

『年魚市』 第10号 愛知芸術文化センター愛知県図書館 3月15日発行

☆この年譜については『叢書新青年 小酒井不木』博文館(平成6年刊)を参考にしました。

展示品一覧

『年魚市』 第10号 愛知芸術文化センター愛知県図書館 3月15日発行

遺品
・不木印(小酒井不木作)
・筆記具
・不木日記(複写)
・愛用万年筆
・硯
・作品草案
・耽綺社封筒
・ペーパーナイフ
・古書台帳
・三高時代の論文
・自宅設計図
・不木直筆書「至誠無息」
・不木直筆書「子不語」
・掛け軸(不木書 木村晴三画)「菖蒲太刀 勝負勝負と 洒落た児よ」
・掛け軸(不木書 木村晴三画)「おもむろに 鳥かくるるや 春の雲」
・掛け軸(不木書)「秋雨や 不犯の僧の 水汲める」
・長谷川瀏宛書簡
・不木直筆戯画帳
・江戸川乱歩宛書簡集
・原稿(『竜門党異聞』について)
・原稿(『怪談奇談』)
・浜尾四郎から不木宛の書簡
・石田元季から不木宛の書簡 その他

雑誌
「新青年」「東海の女性」「キング」「医文学」「女性」「改造」「太陽」「サンデー毎日」「子供の科学」「洪水以後」※「科学と文明」※「第三帝国」※

蔵書
Doyle, A. Conan 『The return of Sherlock Holmes』
Duse, S. A 『Leocarring Doppelganger』
Chesterton, G. K 『The man who knew too much and other stories』
Ellis, Havelock 『The criminal. 5. ed』
Raenec, R. T. H 『A treaties on the diseases of the chest, and on mediate auscultation』 その他

図書
『生命神秘論』 大正4年 洛陽堂刊
『学者気質』 大正10年 洛陽堂刊
『殺人論』 大正13年 京文社刊
『科学探偵』 大正13年 春陽堂刊※
『三面座談』 大正14年 京文社刊
『趣味の探偵談』 大正14年 黎明社刊
『死の接吻』 大正15年 聚英閣刊
『闘病術』 大正15年 春陽堂刊
『恋愛曲線』 大正15年 春陽堂刊
『犯罪文学研究』 大正15年 春陽堂刊※
『慢性病治療術』 昭和2年 人文書院
『疑問の黒枠』 昭和2年 波屋書店
『闘病問答』 昭和2年 春陽堂刊
『メンデルの遺伝原理』 昭和3年 春秋社刊※
『医談女談』 昭和3年 人文書院
『小酒井不木傑作撰集』 昭和4年 博文館
『小酒井不木全集17巻』 昭和5年 改造社刊※
『紅色ダイヤ』 昭和21年 平凡社刊 その他
※については本館所蔵

 今回の展示にあたり、下記の方々から資料提供のご協力をいただきました。
江口雄輔氏、木下信三氏、小酒井美智子氏、高木一郎氏、武田茂敬氏、長山靖生氏、平井隆太郎氏、湯浅篤志氏、渡辺晋氏、愛知医科大学医学情報センター(図書館)、愛知県立大学附属図書館、愛知大学豊橋図書館、蟹江町歴史民俗資料館、『新青年』研究会、名古屋市鶴舞中央図書館、名古屋市蓬左文庫(五十音順)

小酒井不木の児童文学 ―〈少年科学探偵〉シリーズを中心に― / 上田信道

『国際児童文学館紀要 第11号』 大阪国際児童文学館 3月31日発行
 → 「小酒井不木の児童文学」

4月

探偵小説草分け的存在「ねんげ句会」生みの親 小酒井不木の句碑完成 同人、感慨ひとしお

『中日新聞』市民版 4月7日(18面)

 不木が句会を作ったのは昭和の初め。会の名前を「拈華微笑(ねんげみしょう)」(以心伝心の意)という仏教の言葉から命名。文筆の助手らと自宅で俳句を楽しんだ。

 碑の建立の話が持ち上がったのは七年ほど前。不木邸を管理していた長男で東京在住の医師、望さんが亡くなり、都合で土地を売ることに。望さんの妻美智子さんが「何とか不木の名を残したい」と考え、同人の希望もあって碑が作られることになった。新しい地主との話もまとまり、このほど完成した。

5月

伝奇作家になりたくなかった伝奇作家・國枝史郎

『「新青年」をめぐる作家たち』 山下武 筑摩書房 5月25日発行

 土師清二によれば、「國枝史郎は一種の壮気をもっていた人」であったという。たしかに国士気取りの一面があったことは事実だ。しかし、強気と弱気が同居するかたちで彼自身もそのバランスを取るのに苦しんだらしい。土師清二も、「僕はバセドーがあるので、意志と感情の平衡がとれない人間です」と語った國枝史郎の言葉を引き、その事実を肯定している。「甚だ慇懃で謙虚であるかと思うと、暴君的になり、君臨したがるところがあった」(土師)彼の扱いには、一騎当千の耽綺社の面々もしばしば手を焼いたものだった。小酒井不木の音頭取りで、江戸川乱歩、長谷川伸、土師清二ら大衆文壇の雄が合作団体として顔を揃えた耽綺社が短命に終ったのも、その辺に一因があったのでは……。

小説に書かれた江戸川乱歩

『「新青年」をめぐる作家たち』 山下武 筑摩書房 5月25日発行

(前略)
 そこへいくと、乱歩と小酒井不木の交情を描いた中島河太郎の伝記小説は、平板なかわり安心して読める。処女作の価値を誰よりも早く認め推挽もしてくれた不木に、乱歩は終生感謝の気持を失わなかった。その不木の訃報に接した彼が名古屋へ駆けつけ、故人の研究室のデスクで静かに往事を回想する場面から小説は始まる。
(中略)
 そのころには、いつしか窓の外には白々と薄明の霧が流れ朧々と明け放たれた四月三日の朝を迎えていたが、博士の業績や温い人柄を偲ぶうち乱歩は、「探偵小説の面白さを広く世間に知らせる通俗味のあるものに着手しよう、そうだ、それが或いは博士の遺志を活かすことになるかもしれぬ」と、天啓を得たところで、中島河太郎の小説は終っている。
 だが、それでは綺麗事にすぎないだろうか? 行き詰まった乱歩が退路を通俗小説に求めたというのが真相だからだ。事実は決して中島河太郎の言うようなものではなかったのである。「乱歩還暦記念特集号」というような性格の雑誌に書いた文章であってみれば、食い足りないのもある程度しかたないが、これでは“探偵小説評論家”の肩書が泣こうというものだ。(後略)

9月

共同研究名古屋近代文学史研究会例会

『名古屋近代文学史研究』 第117号 9月10日発行

遺族により刊行された「村井三豆句集」は、さながら俳句による自伝の観がある。多くの俳人達との交友は名古屋俳壇史として読むことができる。
 小酒井不木を中心に都会俳句を試むなど興味をそそられる。その不木逝去の際の句。
 眼にしみて崖土赤き春深し

10月

 

『江戸川乱歩 日本探偵小説事典』 山前譲・新保博久編 河出書房新社 10月25日発行

12月

第二章 浜尾四郎の足跡

『日本推理小説史 第三巻』 中島河太郎 東京創元社 12月20日発行
→初出:『推理界』 1970(昭和45)年2月号

 昭和三年であったか、江戸川乱歩は名古屋の小酒井不木の書斎で、浜尾四郎と探偵小説を結びつける消息を、はじめて耳にした。その折り不木は、浜尾君が探偵小説を書くかも知れない。私は今それを頻りに勧めているのです。多分書くだろうと思う。書いて呉れれば探偵小説壇の為大変喜ばしいことだ、と興奮気味に話した。
 乱歩は不木と四郎とがどの程度の知り合いだったか知らない。多分その頃、四郎がある堅い雑誌に、マクベスだとか日本の歌舞伎だとか犯罪劇に関するエッセイを発表していたのを、不木が注目して文通がはじまり、創作を勧めたのではなかろうかと想像している。
 しかしこの推測はすこしうがち過ぎている。犯罪劇に関するエッセイは大正十二年のことで隔たりがありすぎるし、それよりも昭和二、三年に「新青年」に犯罪随筆を発表しているから、そのほうの因縁であった。

第七章 「文学時代」と書き下し全集

『日本推理小説史 第三巻』 中島河太郎 東京創元社 12月20日発行
→初出:『推理界』 1970(昭和45)年7月号

投書雑誌として有名であった「文章倶楽部」が四年四月に廃刊され、その編集者が加藤と佐左木であった。だからそれらの新時代に即した刷新を試みたもので、大衆性を帯びた文芸総合誌であった。
 創刊号には千葉亀雄、新居格、大宅壮一らの評論と、藤森成吉、岡田三郎、佐藤春夫らの小説が載っているが、「文学時代」が探偵小説と係わりをもつのは、その創作欄に小酒井不木の「鼻に基く殺人」が載っていることからも窺えるように、終始探偵小説に好意を持ち続けたことである。

第十章 小栗虫太郎の出現

『日本推理小説史 第三巻』 中島河太郎 東京創元社 12月20日発行
→初出:『幻影城』 1977(昭和52)年1月号

 大正末期に急速に形成された探偵文壇は、よそめには賑やかだったかもしれないが、根柢は脆弱さを免れなかった。乱歩の出現を契機として、探偵小説という新領域が脚光を浴びたとき、急速に作家陣容を調えなければならなかった。
 一、二回の投稿入選者を掻き集め、純文学方面で探偵趣味の作品を書きそうな作家を動員し、翻訳をやっていた小酒井不木、保篠龍緒、平林初之輔、妹尾アキ夫らを勧誘している。
 いち早く純文学系作家は退いたので、作家としては文学修行を経ない愛好家が、見よう見真似で小説らしきものを拵えていたといえぬこともない。乱歩のように大正初期の大学在学中から、曲がりなりにも内外の作品を渉猟し、研究的態度で探偵小説に心酔していたものは寥々たるものであった。
 いわばアマチュア集団にすぎなかったが、新しい旗印の下に寄り集った勃興期には、その熱意と興奮が読者に伝わるほどであったにしても、安定期に入ると作家としてのバックボーンの無さが露呈し、低俗な読物化していく傾向は如何ともし難かったかもしれない。

第十二章 木々高太郎誕生

『日本推理小説史 第三巻』 中島河太郎 東京創元社 12月20日発行
→初出:『幻影城』 1977(昭和52)年4月号

 ただ「編集だより」では、小酒井不木の再来という紹介がなされているが、医学者出身の点では共通していても、まだ作風や小説観にはなはだしい懸隔のあることが気付かれていなかったからである。

第三十一章 「新青年」三十年史

『日本推理小説史 第三巻』 中島河太郎 東京創元社 12月20日発行
→初出:『新青年傑作選 第五巻 読物・資料編』 立風書房 1970(昭和45)年6月15日発行

 その努力が短日月の間に実って、翻訳者は逐次揃ったが、もう一段高い立場に立った探偵小説の啓蒙家が欲しかった。馬場孤蝶は昵懇の雨村に促されて、紹介評論の筆を執ったが、当時欧米自体の水準が低く、その乏しい作品の範囲の中で、探偵小説の本質を見事に抉り出し、将来への予測を試みている。さすがに文学者としての識見を示しているが、もっともその普及に貢献した第一人者は小酒井不木であった。
 生理学を専攻した彼は東北大学から留学を命ぜられたが、外地で喀血して帰朝し療養につとめていた。その随筆を読んで探偵小説愛好家であることを知った雨村は、研究随筆の発表を勧誘し、後には翻訳・創作に及んで八面六臂の活躍を見せることになる。

第三十二章 連作・合作探偵小説史

『日本推理小説史 第三巻』 中島河太郎 東京創元社 12月20日発行
→初出:『幻影城』 1976(昭和51)年4月号

 海外では不人気のように見える連作だが、日本では企画に窮したり、目先の趣向を狙ってしばしば試みられている。そのもっとも早い例は大正十五年五月から連載の「五階の窓」(新青年)であろう。
 この年、江戸川乱歩は「新青年」発表作品がわずか二篇だったので、編集者の森下雨村が連作の案を出して、乱歩の執筆を慫慂したのである。当時一般読物界に連作が流行しはじめた頃で、探偵小説の連作は難しいが、またおもしろいかもしれないという気持で試みられた。
 乱歩が第一回を担当し、以下平林初之輔、森下雨村、甲賀三郎、国枝史郎、小酒井不木と六人が執筆した。本篇は本格的構成をとっているが、執筆者間にこまかい打合せがなく、結局最終回の不木が解決篇を纏めるとともに、読者から別に解答篇を募集した。
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 翌昭和二年一月からプラトン社発行の「女性」が、「吉祥天女の像」を連載した。甲賀、牧逸馬、横溝正史、高田義一郎、岡田三郎、小酒井の六名に委嘱した。前の企画に刺激されたもので、筆者の選択に変化を求めている。 ----------
 昭和三年一月には乱歩、小酒井合作の「屍を」が「探偵趣味」に発表されている。乱歩は単に名を貸したにすぎないと思われる。
 この以前に名古屋在住の小酒井は、国枝の発案をうけて、合作組合耽綺社を誕生させた。一人で考えるより多数の考えがまざった方が、視界の広い変化に富んだおもしろい読物が生まれるという趣旨であった。この二人の他に乱歩、土師清二、長谷川伸、後に平山蘆江が参加した。
 いわゆる大衆文芸が急激に伸展し、需要が多くなったため、共同製作会社を拵えた趣きがある。その経緯は乱歩の「探偵小説四十年」に詳しいが、乱歩自身は元来乗り気でなく、成果を期待していなかった。どんな種類の作品でも引き受けようという商魂逞しい組織であった。