参考文献/資料集 1976(昭和51)年

(公開:2009年1月1日 最終更新:2009年1月1日)
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3月

「蠢く触手」の影武者・岡戸武平

『幻影城』 3月号
 → 『幻の探偵作家を求めて』 鮎川哲也 晶文社 1985年10月10日発行

 机の真上の長押に「疊々居」と大書された扁額が、そしてそれと向い合ったところに「子不語」の額がかけられている。前者は江戸川乱歩氏の、そして後者は小酒井不木氏の筆であった。どちらも煤けてくすんだ色になっているが、それがまた渋味をそえている。江戸川氏のほうは昭和戊寅としてあるから十三年に、小酒井氏のほうは戊辰としるされているから、それより十年前の昭和三年に書かれたものである。
「わたしが上京して最初の住居となったところが二畳の間だったもので、乱歩さんがそれに因んで書いてくれたのです。『子不語』のほうは小酒井先生が乱歩さんに贈ろうとして書いたときに、不の字のヒゲが短く書けたというのでもう一枚お書きになった。その書き損いともいうべきほうを頂戴したのですが、字の出来はこちらのほうがいいですよ」

 小酒井氏は東北大学の教授に任命されながら、結局は任地に赴かずに、終始名古屋を離れなかった。氏もまた胸を病んでいたからである。そうした蒲柳の質であったためか、昭和四年の春、小酒井氏はちょっとした風邪がもとで肺炎を併発し、わずか数日床についたきりで亡くなってしまった。こうして小酒井・岡戸のコンビは短期間で終止符を打たれたのである。
「当時の小酒井先生は地元大学の医学部の学生にテーマを与えて、熱心に研究を指導しておられたのですが、なにしろ世間知らずの青年ばかりですから、先生が亡くなられてもなすべきことを知りません。ところが、わたしは新聞記者の出身です。はじめは後ろに控えていたのですけど、見るに見兼ねて乗り出しますと、各新聞社に連絡をとって先生の死を発表しました」
 このニュースは東京や大阪の一流紙の夕刊に写真入りで報道され、それを読んだ森下雨村、江戸川乱歩その他の在京作家がぞくぞくと名古屋へ集まってくる。岡戸氏は葬儀の一切をとりしきって、小酒井博士の野辺の送りをとどこおりなくすませた。

4月

〈特別対談〉怪奇・幻想小説の系譜を探る / 中島河太郎・横溝正史

『別冊いんなあとりっぷ四月号』 いんなあとりっぷ社 4月10日発行

横溝 もう書けなくなっちゃったんだろうね。ぼくも「『陰獣』と『パノラマ島奇談』ができる話」に引用してるけど、とにかく書けなくなったんでしょうね。一作ごとに前の作品を乗り越えたものを書かなきゃ無意味だっていう作家でしょう。
中島 そうですね。『陰獣』が昭和三年で、その翌年には『孤島の鬼』を経て『蜘蛛男』から講談社物へ移られるわけですけども、そういうことについて釈明みたいなことはしておられませんか、お会いになって。
横溝 ぼくは突っ込んだことがあるの。小酒井不木さんが亡くなられたんですよ。
中島 あれは四年ですね。
横溝 それから『蜘蛛男』へいっちゃったでしょ。だから「小酒井さんの呪縛が解けたんでしょう」と言ったら、いやアな顔したよ、乱歩が。あれやっぱり、相当大きいでしょうね。小酒井さんが生きてたら、ちょっとあっちへはああ臆面なくいけなかったでしょうね。
中島 もっとも小酒井さんもそういう意味では通俗的といいますか、わりにああいう娯楽雑誌にどんどんお書きになってる方ですね。
横溝 どんどん書いていらっしゃる。しかし乱歩にはもっと純粋であってほしいという期待が強かったでしょうね。
中島 ああ、それはありましょうね。
横溝 ぼくが高木(彬光)君に常に純粋であってほしいという期待を持ってるのとおんなじでね。おれみたいなバカなことするなよ、という期待はしょっちゅう持ってるでしょ。
中島 やはり一つの期待といいますか、理想といいますかね。
横溝 と同時にエゴだわね。小酒井さんなら小酒井さんのエゴだわ。自分は娯楽もん書いても乱歩には書かしたくないというのは一つのエゴだわね。しかしやっぱり乱歩にそれだけの理想を持ってる。ぼくは高木君にそれだけの理想を持っていた、とこういうこってしょうね。

中島 小酒井さんも名古屋に行っきりですから、上京の途中お会いになったというくらいですね。
横溝 しかし乱歩さんが放浪癖があってさ、あっちこっち行くでしょ。で追っかけて行くもんだから、小酒井さんのとこで落ち合おうと約束したりして。だから小酒井先生にはわりとお目にかかってるよ。