『茅原華山と同時代人』 茅原健 不二出版 1月31日発行
→ 初出:『多摩文化ニュース』 1977〜78年(掲載号未確認)
『新青年』の創刊者森下雨村とともに、日本の探偵小説の育ての親といわれている小酒井不木が『内観』に登場する。探偵小説は書いていない。が、大正十三年十二月の第二十一号から第二十八号まで「闘病術」を書き、第二十九号から「脈博を数へつつ」を十二回(大正十二年七月 第四十号まで)書いた。この「脈博を数へつつ」は、後に『学者気質』(大正十五年六月 春陽堂)のなかに「病間随筆」として収められている。細いことだが、「病間随筆」では十一篇収められていて、「ヴアイオリン」(第四十号)の一篇は落ちている。
その後、「読書余談」(大正十二年八月 第四十一号)と題して書き出した随筆を、連載第十一回から「タナトプシス」と改題して、昭和四年四月の第一一〇号まで六十三回の連載をした。小酒井はこの連載の後死去した。小酒井不木の死生観をテーマにしたこの「タナトプシス」は、昭和三年六月に「内観社」から出版されている。
小酒井の全集が死後、改造社から全十八(※)巻で出版されているので、彼の全貌は知れるが、戦後は、探偵小説専門誌『幻影城』(昭和五十三年二月 創刊号)でとりあげられた以後彼の名前はあまりみない。
(※)原文ママ。
『日本推理小説辞典』 中島河太郎 東京堂出版 9月30日発行
(前略)中でも「毒及び毒殺の研究」(大11)、「殺人論」(大12)、「犯罪文学研究」(大14)は、平明な医学的研究に探偵小説の豊富な知識が援用され、勃興期の探偵文壇に大きな刺激を与えた。
『日本推理小説辞典』 中島河太郎 東京堂出版 9月30日発行
『幻の探偵作家を求めて』 鮎川哲也 晶文社 10月10日発行
→ 初出:『幻影城』 1975年9月号
『幻の探偵作家を求めて』 鮎川哲也 晶文社 10月10日発行
→ 初出:『幻影城』 1976年3月号
『幻の探偵作家を求めて』 鮎川哲也 晶文社 10月10日発行
→ 初出:『幻影城』 No.44 1978(昭和53)年7月1日発行
森下雨村さんと私 米田三星
(中略)
昭和五年の秋、私は医学校の三年生だった。卒業試験までは間があって、暇は有り過ぎるし、金は無さ過ぎるし、仕方なしに下宿の二階でごろごろしていた私は、読み飽きた円本の小酒井不木集の頁をまさぐっている中に、思いついて不木ばりのへんてこな文章をものした。六、七十枚のものだったが、題だけは「生きている皮膚」と乙に気取ったものだった。書き上ると活字にしたくなるのが人情、と言っても不木さんに見てもらうのは気がひける。と言うのは面識はないが、不木さんの著書「闘病術」に就いての私の質問に、多忙な不木さんが数枚に亘る叮嚀な教示を下さったことがあるし、それに不木さん自身が御自身の筆のもつ体臭(?)に少しうんざりしていらっしゃるのじゃないか――理由もなくそんな気がしていたので、エピゴーネンのコピー等嘔気を催されるのが関の山だろう。
『郷土文化』 40巻2号 12月18日発行