『紫陽花 大澤鉦一郎追想録』 大澤鉦一郎追想録刊行会 1月1日発行
その中でわたしが大澤さんのためになったと思う事は『新青年』に初めて挿絵を描かしたことですよ、私が東京へ行ったのは昭和4年ですからね。
その前、あれは大正の末の頃名古屋出身の小酒井不木と言う探偵小説作家がいてね、そこでわたしは書生をしていた。その頃探偵小説として日本で最初の長篇「疑問の黒枠」を先生が書かれることになったんですわ。先生も原稿が早い方ではないから、東京へ原稿を送って挿絵を頼んでいては時間がかかる、誰か名古屋で挿絵を描く者はいないかと聞かれたもんだから、「そりゃあります。どう言うものが出来るか知らないが、いやならやめりゃいいんだから」と小酒井さんのうちへ大澤さんに来て貰って相談をし、初めて挿絵を描かれたんです。それは非常に稚拙な感じの絵だったけれども、案外評判がよかったんですよ。投げた花瓶が途中に浮いている様なちょっと類のない様な絵があったけれども、やっぱり見る人があってね、十何回ずっと描き通したんです。それが大澤さんの挿絵の始めで、(この頃の名古屋新聞の挿絵の切り抜きを見ながら)こりゃその後ですわな。でまあ自信を得られたんですね。私が中間に立って、この名古屋新聞の小説の挿絵だの、三田澪人君のやっていた『短歌』と言う雑誌の表紙だのカットなどねえ、大変無理を言って描いて貰いました。
『幻影城』1巻1号 絃映社 2月1日発行
(前略)かつて大下宇陀児は「科学小説研究」と題する論文(日本文学講座第十四巻・大衆文学篇、昭和八年、改造社)の中で、「科学的事象を文学上の主なる材料もしくは主題として使用する場合に、その材料の取り扱い方いかんによっては、大体二つの型の科学小説を得る。」として、それぞれ仮に「純粋なる科学小説」および「不純なる科学小説(あるいは、準科学小説)」なる称号を与えた。(中略)後者には科学的事象を景品ないし刺身のツマとする怪奇小説、探偵小説、冒険小説の類が含まれるとし、日本においてもこの型の作品はかなり多く発表されているとして、小酒井不木、江戸川乱歩、甲賀三郎、大下宇陀児、海野十三、さらには直木三十五の名が挙げられている。
『幻影城』1巻1号 絃映社 2月1日発行
わが国における創作探偵小説の育ての親は森下雨村と小酒井不木両氏である。森下氏は「新青年」の創刊者で、自からも探偵小説を執筆したが、「新青年」の名編集長として語られることが多いが、小酒井氏は探偵小説の理論家であり、実作者であった。
(中略)
「科学的研究と探偵小説」は「新青年」大正十一年二月号に発表されたもので、探偵小説についての処女評論である。探偵小説の先駆者・小酒井不木の面目がうかがわれる。
「画家の罪?」は「苦楽」大正十四年三月号に発表された。小説の処女作と見られるが、氏自身は次作の「呪はれの家」を処女作としている。「画家の罪?」は西洋を舞台に日本人探偵が活躍する話であるが、西洋探偵譚などの読物と異なる創作もので、「呪はれの家」以後の日本を舞台とした創作ものへつながる作品といえる。作品の出来は決して良くないが、過渡期の作品として意義があるので再録した。
「死の接吻」は「大衆文芸」大正十五年五月号に発表された。数多い医学ミステリーもののなかでも、医学知識が遺憾なく発揮された傑作である。
『幻影城』1巻1号 絃映社 2月1日発行
→『日本探偵作家論』 権田萬治 幻影城 12月25日発行
→『日本探偵作家論』 権田萬治 悠思社 平成4年6月発行
→『日本推理作家協会賞受賞作全集30 日本探偵作家論』 権田萬治 双葉社 平成8年5月発行
小酒井不木の多くの探偵小説に見られる衝撃的ともいえる一種の残酷さの底には、このように研ぎすましたメスで人間の肉体を切り開いた経験を持つ医者のみが持つことのできる非情な科学者の目が隠されている。解剖や手術では人間の苦痛は忘れられ、ただ何物かを発見し、取り出すことだけが意味を持つ。
このようなユニークな残酷な視点とロマンチシズムの奇妙な交錯の中にこそ、いわば小酒井不木の探偵小説の本質が秘められているように私には思われる。冷たい科学者の目で凍結された残酷な夢。解剖台上の蒼ざめたロマンチシズム。限りない愛を心臓手術による死の実験によって歌い上げたともいうべき残酷な愛の歌「恋愛曲線」や、死の黒い影の覆う大都会で殺された夫にかわって奇妙な殺人を行う冷たい復讐劇「死の接吻」など氏の最高傑作とされる短編には妖しい死美人にも似た、恐怖と戦慄に満ちたふしぎなロマンチシズムが漂っている。
だが、人間的な苦悩と無関係に通俗的な意匠として残酷さが強調されるとき、氏の作品に一種の生理的不快感を感じるのもまたやむを得ない。(後略)
いささか我田引水のきらいがないではないが、氏の探偵小説の秀作の大半が氏の医学的知識に支えられたものであることを考えるとき、サザランド・スコットの〈医者と探偵の役割は、近接した平行線のようなものである〉という考え方が、小酒井不木の場合も見事に妥当するような気がしてならない。
(前略)もともと、小酒井不木は自分の探偵小説について死ぬまで余技の意識を捨て切れなかった人である。欧米の本格小説についての豊かな教養を身につけていた氏は、また、私小説や心境小説を主流とする日本のいわゆる純文壇にほとんど関心がなかった。それだけに、氏はいわゆる純文学に対して、まったくコンプレックスを持っていない。(後略)
『幻影城』 9月1日発行
小酒井不木もドーゼの「スミルノ博士の日記」を連載した際は、鳥井零水の別名を用い、渡辺温も渡辺裕名義で「雄弁」に書いている。
『幻影城』 9月1日発行
私はできることならば医学を専門にして、その余暇に推理評論を書きたいと夢みていた。そして学校は医学を志望したが、そのような志をもったのも、小酒井不木や木々高太郎など医学出身の推理作家の文章からだった。探偵小説を書くだけの自信はなかったが、読者にあまんじる気持もなく、その要求を多少でも満すために推理評論や推理随筆を書けないものかと思ったのだ。
『幻影城』 9月1日発行
『幻影城』 9月1日発行
→ 『幻の探偵作家を求めて』 鮎川哲也 晶文社 1985年10月10日発行
「懸賞応募作品が多いのは、編集者に知り合いが少ないものですから、こうした方法に依らざるを得なかったのです」
いままで尋訪してきた諸氏と同様に、本田緒生氏もまた作家づき合いがなかった。それは名古屋という地方都市の住人だったせいもあるだろうし、家庭における遠慮ということもあっただろう。
「存じている作家は小酒井先生ぐらいのものでしたね」
名古屋からは「新青年」の編集者となり長篇の実作もある岡戸武平氏が出ているのだけれど、この岡戸氏とも面識はなかったという。
『幻影城』 No.11 第1巻第11号 11月1日発行
→『日本推理小説史 第二巻』 東京創元社 1994(平成6)年11月30日発行
『日本探偵作家論』 権田萬治 幻影城 12月25日発行
→ 『幻影城』 2月号