(公開:2004年2月24日 最終更新:2004年2月24日)
メニューに戻る

講演「インターネットで読む小酒井不木」(原稿版)

2004年2月22日(日)13:30〜15:30
於、蟹江町産業文化会館3F会議室

 110分にわたってお話しさせて頂いた講演の内容を、当日用意していった原稿に基づきご紹介致します。発話と文章という違いは勿論ですが、その場での脚色、逸脱、修正、飛躍、追加、言い落とし、言い間違い等も色々とあるわけで、下記の文章が当日講演で話した内容を採録したもの、というものではありません。講演は講演、再現不能、一期一会、という事でご理解下さい。
 ともあれ、下記の資料は「もぐらもち先生は当日何を話そうと思っていたのか」を、その場に来られなかった方にお知り頂く為の資料と思って頂けましたら幸いです。殊更な註釈は省きました。


始めに

 大学生の頃に『日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集』(東京創元社)という本で始めて小酒井不木という作家を知り、その作品に興味を持って卒業論文を書きました。その後「奈落の井戸」という名前のウェブサイトを開設し、主に大学時代に調べ貯めていた小酒井不木に関わる様々なデータをインターネットを利用して公開しています。
 こうした自分自身の現在の活動と絡めて、本日のテーマは「インターネットで読む小酒井不木」としました。戦前の探偵小説作家と、現代人がほぼ日常的に利用しているテクノロジーである「インターネット」、この一見奇妙な組み合わせがどのように結びついているのか? 小酒井不木という人物をどう評価するか・どうやって評価するか、という問いへの、私なりの一つの答えとして、蟹江が生んだ小説家・小酒井不木がかつての読者たち、そして今の読者たちにどの位・どのような形で読まれてきたのか、そしてこれからどういう具合に読まれて行くか、をポイントにしながら話をしたいと思います。

小酒井不木の業績

 小酒井不木は明治23年生まれ、京都第三高等学校・東京帝国大学を経て海外留学、東北帝国大学教授の職を拝命というエリートコースを歩むが、持病の結核の悪化に伴い、大学教授・医学者としての活動からは遠ざかります。しかしその代わり文筆家として非常に精力的に活動、大正10年頃から亡くなる昭和4年まで、ほぼ10年ほどの間に『小酒井不木全集』全17巻とそれに収まりきらないほど膨大な数の小説・随筆を残しました。

 小酒井不木の業績、という話だとやはり最も影響が大きかったと言えるのは、探偵小説について、というところです。小酒井不木は早くから探偵小説の魅力に目覚め、積極的にその良さを一般に対してPRしてきた人です。医学者であった彼の目に映ったその魅力とは、一見繋がりのないような場面から事件の真相を見抜く「観察力」の魅力であり、意外性に富んだ結末を生み出す「想像力」の面白さでした。留学中に結核を悪化させて大正9年に帰国し、療養中であった不木が、新聞社から依頼され発表したのが「学者気質」という連載随筆です。その中の一項である「探偵小説」を読んだ森下雨村が不木に原稿執筆を依頼し、そこから『新青年』を中心とした探偵小説メディアでの活躍が始まります。「探偵小説」の項だけでなく不木は連載の中で何度か西洋の探偵小説から例を引いて「観察力」や「想像力」の意義というものに言及しています。そのように、医学博士としての博識と経験を持ち、なおかつ探偵小説への造詣も理解も深かった小酒井不木という人材は、黎明期における日本の探偵小説界において非常に頼もしい協力者でした。
 大正時代後半の頃の日本において、「探偵小説」は文学の一ジャンルとしても、商業的なマーケットとしてもまだ未成熟・未発達といえる状況でした。翻訳・翻案ではない、日本人による独自の創作探偵小説の出現が待望されていたのと同時に、探偵小説ジャンルを支える存在として、強い影響力を持った理解者・紹介者が必要とされていました。そうした需要は、例えば既成文壇から、探偵小説に造詣が深い人物として、馬場孤蝶・井上十吉などがいち早く『新青年』に起用され、執筆している事からもうかがえます。そうした時期に科学随筆という方面から登場して探偵小説への共感を大いにうかがわせる文章を発表していた小酒井不木は、探偵小説の擁護者・紹介者として格好の人材だったといえるでしょう。そうした森下雨村の期待に応え、不木は『新青年』誌上に数多くの随筆を発表して行きます。
 この時期に書かれた「毒及毒殺の研究」「殺人論」のような本格的な論考は勿論ですが、「血液の秘密」「仮死と犯罪の研究」「迷信と犯罪」のような、純然たる“犯罪学”とはいかないまでもその一歩手前、犯罪にまつわる蘊蓄や、犯罪とその周辺に関する科学知識を非常にわかりやすく、興味中心に仕立てた読み物は、既に探偵小説に興味を抱いていた読者層に対しては彼等の知識欲を満足させるものとして、そして、探偵小説というものにあまり親しんでいない読者層に対してはわかりやすく興味を刺激するのに役立ち、ジャンルの成熟・読者層の開拓に大いに貢献したと思われます。
 また、不木は自分自身が創作探偵小説の筆を執る事についてははじめそれほど積極的ではなく、随筆以外の活動としては「鳥井零水」というペンネームを使って翻訳探偵小説を発表していました。これもまた「紹介者」としての彼のスタンスを強調する一面として考えられるべきところだと思います。翻訳の面で最もよく知られる業績は、スウェーデンの作家、S・A・ドゥーゼを日本に紹介した事、そしてG・K・チェスタトンの『孔雀の樹』を翻訳して好評を博した事が挙げられるでしょう。

 他方医学者としては、専攻は生理学及び衛生学で、都市衛生に関する研究として帰国後「英国ノ公衆衛生学及ビ医事統計学」(「中外医事新報」 大正11年1月5日号)というレポート式の論考などを発表しています。帰国後の主立った活動としては、自宅の隣に研究施設を建てて医学生達の面倒を見る、という形で指導者的立場を果たしていました。

 小酒井不木という人物の業績を考える上で見落とせないのは、彼を取り巻く人の輪、彼自身が人と人との交わりにおいて果たした重要な役割というものです。
 特に探偵小説の「紹介者」・小酒井不木の業績という点では、江戸川乱歩という才能を世に出す事に尽力しました。森下雨村から乱歩のデビュー作「二銭銅貨」への批評を依頼された不木は、まさに言葉を尽くしてこれを絶賛します。そして乱歩が一躍日本の探偵小説界をリードする小説家となった後、スランプに苦しみ、何度も執筆を放棄しようとするのを押しとどめ、時に励まし、時には休養を勧めて、何とか作品を発表させようと本当に親身になって支え続けます。あくまでも私見ですが、合作集団「耽綺社」結成も、どことなく「書けなくなった」乱歩の才能を惜しんだ不木が、合作の中でそれを生かしてもらいたいと思って申し出たような節がないでもありません。小酒井不木は割と早くから個人の才能だけに頼った探偵小説ジャンルの「行き詰まり」を憂慮していたようで、作家同士の合作や連作といった試みに積極的に賛成し、その可能性を広げる方向で考えていた人でした。小酒井不木、国枝史郎、江戸川乱歩、土師清二、長谷川伸の五人でスタートした耽綺社は、純粋な意味での合作集団として各出版社からの注文に応じるというスタイルで注目を集めましたが、そこには「行き詰まり」打破・探偵小説活性化・大衆文学活性化というような理想とは別に、友人乱歩を何とか援助したい小酒井不木の友情が隠れているように思われます。『探偵小説四十年』での乱歩の回想を読むと、耽綺社参加にはある種の打算・「不純」さがあったというような自嘲の印象を受けますが、乱歩自身の自意識においてはともかく、不木にとっては彼がそうしてくれる事を望んで状況を調えたようなところがある、といえます。
 また、これも探偵小説「紹介者」として、という事になりますが、当時勃興してきた「大衆文芸」運動に積極的に呼応し、大衆作家が作る同人「二十一日会」に参加、広範な読者層に探偵小説をアピールする事に勤めています。また不木は「キング」に代表される大部数のいわゆる通俗雑誌にも積極的に執筆、自らの地歩を確立する為というよりむしろ、探偵小説流行の土台を作るのに大いに役立つ活動を見せました。

小酒井不木はどう読まれて来たか

 小酒井不木の商業誌デビューは明治44年に京都『日出新聞』に売り込んだ連載小説「あら浪」です。これは一度も単行本になっていません。本人も学費の不足を補う為に書いた小説で、勉強に集中する為に以後執筆活動はしなかった、と回想しているように、本格的な文筆活動というには少々外れたところにある作品です。処女出版は大正4年、25歳の時に書き下ろしで出版した『生命神秘論』でした。ペンネーム「小酒井不木」は使っておらず、本名の「小酒井光次」で発表されています。当時彼は帝大大学院の学生で、永井潜教授(生理学)に師事していました。『生命神秘論』版元の洛陽堂は永井潜の『生命論』なども出版しており、永井の推薦もあって出版が決まったのだろうと推測出来ます。しかしその後、大正10年までの約6年間に渡って小酒井光次の著書は公にされません。これは大学での研究中心の生活、海外留学の決定、留学先での結核の療養といった状況が重なった為と思われます。但し、雑誌などには屡々堅めの内容の随筆を寄稿していました。
 再び精力的に執筆出来る状況になったのは、彼がいわゆるアカデミズムの世界の第一線からドロップアウトする事になってからでした。大正9年にフランスから帰国した彼は結局1年間の休暇期間を経ても結核が治らず、任地に赴く事が出来ぬまま東北帝国大学教授の職を辞しました。そして、彼は活路を執筆業に見出すのです。
 一番大きなきっかけになったのは、先に述べた『東京日々新聞』連載の「学者気質」でした。森下雨村の目にとまった、というに止まらず、『生命神秘論』の頃から既に不木の文才を高く評価していた長尾折三(医学者・ジャーナリスト)なども連載を読んで感激し、その日読んだ随筆の感想を不木に書き送っています。新聞連載という行為が、小酒井不木を知る者には病気からの復活と映ったのかもしれません、その後彼の元には知人から原稿執筆の依頼が殺到するようになります。大正11年以降、どの位の量を執筆していたのか今だ明らかではありませんが、作品数にして年間60〜80編以上は書いていたのではないかと推測されます。この分量は病人どころか、常人でも到底真似の出来るものではありません。

 雑誌への露出の多さがそのまま作家としての人気・知名度に表れているようで、大正13年から亡くなる昭和4年まで、小酒井不木の著書は大体年に5冊以上というハイペースで刊行されています。はじめは医学・犯罪にまつわる随筆(『科学探偵』『西洋医談』など)、翻訳探偵小説(『スミルノ博士の日記』『夜の冒険』など)が中心ですが、すぐに創作探偵小説集(『死の接吻』『恋愛曲線』など)が刊行されるようになります。
 これらは書き下ろしではなく雑誌に掲載された作品を纏めた本ですが、書き下ろしで出版されたものに、大正15年春陽堂から刊行された『闘病術』があります。これは大正15年8月に初版が発行され、翌年4月に132版を重ねるという驚異的なベストセラーになりました。刷り部数の問題もそうですが、数多い小酒井不木の著書の中でも、読者の反応という点に関して、この『闘病術』ほど反響が大きかった例はありません。読者からの質問や感想の手紙が殺到し、その回答編とも言うべき『闘病問答』が発売されました。
 仕事量が増えて多忙を極め、助手を置くようになったのは大体この時期です。大正14年暮、不木と同じように結核を患って一時休職し、再就職先を探していた岡戸武平が、『闘病術』執筆のアシスタント(実態は代作者)として雇われ、その後不木が亡くなるまで助手として働く事になりました。原稿の清書などのほか、ねんげ句会結成に際しての事務仕事なども岡戸の仕事だったようです。昭和2年以降は体調のすぐれない時期が多かったらしい小酒井不木が、それでもコンスタントに大量の原稿依頼を消化出来た蔭には、こうした助手の存在がありました。

 昭和4年4月1日、肺炎の為小酒井不木は亡くなりますが、小酒井不木全集の刊行がスタートしたのは翌5月の事です。当初全8巻の予定で改造社が刊行を始めましたが、反響が大きく、結局全17巻で完結しました。なお、この全集が刊行されている最中の昭和4年から5年にかけて、春陽堂や平凡社などが刊行した探偵小説全集の内の1巻として小酒井不木集が編まれるなど、言い方は悪いですが人気作家・小酒井不木の死に便乗した形の本が多数出版されています。そんな中注目されるのは昭和10年に江戸川乱歩が編纂した作品集『闘争』で、これはちょうど小酒井不木の七回忌にあたる年に出版されていて、メモリアル、という意味合いが他に比べると遙かに強い本だと言えます。
 戦前では、文庫や再刊などもあり、少なくとも探偵小説に関する限り大体の時期で小酒井不木の著作が読めた、といえます。昭和16年〜20年あたりに新刊が無いのは、読者から忘れられ始めた、というような事ではなく、太平洋戦争が偵小説全体に及ぼした影響によるものでしょう。

 戦後すぐ、カストリ系の出版物を中心にして爆発的に復活した探偵小説――その一員に小酒井不木も加わっています。そしてその後も小酒井不木の作品自体はわりと途切れる事なく、何らかの書籍に収められ、読むことが出来るようになっています。

【参考 小酒井不木作品収録状況(昭和21年〜平成16年まで)】
(16回) 闘争
(14回) 恋愛曲線
(9回) メヂューサの首
(8回) 人工心臓 手術
(7回) 愚人の毒
(6回) 呪はれの家 痴人の復讐 死体蝋燭 
(5回) 死の接吻 紅色ダイヤ
(4回) 好色破邪顕正 安死術 印象 謎の咬傷 直接証拠 髭の謎 暗夜の格闘 白痴の智慧 塵埃は語る 「二銭銅貨」を読む
(3回) 疑問の黒枠 新案探偵法 汽車の切符 遺伝 三つの痣 ラムール 頭蓋骨の秘密 紫外線 玉振時計の秘密
(2回) 按摩 大雷雨夜の殺人 稀有の犯罪 画家の罪? 屍を 犬神 肉腫 初往診 秘密の相似 暴風雨の夜 猫と村正 通夜の人々 「心理試験」序 当選作所感 新年劈頭の感想(新年号読後感) 名古屋スケッチ
(1回) 三つの証拠 一匹の蚤 犬の幻想 跳ね出す死人 紅蜘蛛の怪異 機械人間 自殺か他殺か 記憶抹殺術 黄色の街 二つの死体 別人の血液 外務大臣の死 二重人格者 体格検査 被尾行者 烏を飼う女 抱きつく瀕死者 雪の夜の惨劇 難題 虚実の証拠 心臓の呵責 桐の花 卒倒 血友病 血の盃 狂女と犬 鼻に基く殺人 卑怯な毒殺 ある自殺者の手記 見得ぬ顔 夜の冒険 ジェンナー伝 国際射的大競技 段梯子の恐怖 緑柱石の宝冠 五階の窓 空中紳士 南方の秘宝 意外な告白 残されたる一人 白頭の巨人 犯罪文学研究 殺人論 探偵小説 合作長篇を中心とする探偵作家座談会 国枝史郎氏の人物と作品 歴史的探偵小説の興味 ポオとルヴェル ヂュパンとカリング 「マリー・ロオジェ事件」の研究 恐ろしき贈物 誤った鑑定 怪談綺談 変な恋 タナトプシス 錬金詐欺 「夜鳥」礼讃 秘蔵の皿 餅二題 近松巣林子とシェイクスピア 「マクベス」の研究 毒と迷信

 これらの大半は探偵小説全集等も含めたアンソロジーに収められたものです。小酒井不木の著書、という体裁のものは戦後すぐに出た『紅色ダイヤ』『疑問の黒枠』(昭和21年)『死の接吻』(昭和22年)以降は、平成3年の『犯罪文学研究』『殺人論』を待たねばなりませんでした。
 昭和20年代以降、30年代、40年代、50年代あたりの読者の殆どは、探偵小説全集に収められた傑作選の様な形か、あるいはアンソロジーに収められた一編の作品によって小酒井不木作品に触れる機会が多かった。ということは、どちらかといえば限られた作品によって“探偵小説作家・小酒井不木”のイメージを組み立てるしかなかった、という事でもあります。資料のように「闘争」「恋愛曲線」の収録回数が圧倒的に多く、小酒井不木の作品といえば「恋愛曲線」や「闘争」と見なされる現在の一般的な評価は、確かにこの二作品が彼の作品の中で優れた部類に入るという文字通りの意味もありますが、加えて、他の作品との比較がそれほど為される事もなく、既に定評のある作品として繰り返し紹介される状況が生んだ、硬直化したイメージによるものとも言えます。
 ただし、「恋愛曲線」「人工心臓」への注目に関して云えば、戦後になって始まった小酒井不木評価の新しい流れとして、「日本のSF」という別の価値観によるアプローチがある事を考えに入れなくてはなりません。昭和35年、柴野拓美が「日本SF史雑論」の中で小酒井不木を評価したのを皮切りに、石川喬司編『世界SF全集』(昭和46年)に「恋愛曲線」が、『日本SF古典集成』(昭和52年)には「人工心臓」が録られ、横田順彌は自著『日本SFこてん古典』などで、日本におけるSF小説の流れの中にこの二作品を置いて高い評価を加えました。

 平成に入ると小酒井不木の著書が再び書店に並ぶ機会が増えました。国書刊行会は『殺人論』『犯罪文学研究』の復刊と共に「探偵クラブ」シリーズの中の一冊に小酒井不木を加え、博文館新社が出した『叢書新青年』のシリーズには小酒井不木の単行本未収録テキストを中心とした作品集が加えられています。また、平成6年には耽綺社の作品が春陽堂から初めて文庫化され、平成14年にはちくま文庫から『小酒井不木集』が刊行されて小酒井不木の主要短篇が再びまとまって読み得る状況になったりと、それまで数十年アンソロジー中心で硬直気味であった小酒井不木の評価を多面的に、多様な素材を元にして成し得るようになってきました。
 しかし、それでも『小酒井不木全集』全17巻及びそれに収めきれなかった数多の作品のごく一部が読み易くなったに過ぎないのです。ではこれから先、今読めないような類の小酒井不木作品が出る可能性はあるでしょうか。小酒井不木の場合、日本探偵小説界の黎明期におけるステータスが確立されているので、いわゆる探偵小説全集、探偵小説アンソロジーなどの常連として名を連ねる事はこれからもあるでしょう。しかしそれは結局、同じような作品の紹介を繰り返すだけになる可能性が非常に高い。そのようなマンネリ化した作家像を突き崩すべく、冒険的な方法として例えば小酒井不木全集を唱う本が出る可能性はあるでしょうか? 例えば不木の医学随筆など、表面的に見てしまうと、古くさくて今では使えない知識で書かれたようなものも少なくないので、出版に際しては非常に神経を使うところだと思いますし、出す事になったとして、人気など度外視した資料的価値が第一義の本作りをすればそれこそ大変に高価な、図書館にしか置かれない類の本になってしまうような気がします。気軽な気持ちで小酒井不木研究を志したり、小酒井不木作品をもっと読みたいと思った人がいたとしても、今のままでは結局古本屋と図書館を地道に利用するしかなく、時間や金銭的な負担が増え、余程思い入れの強い人で無い限り、別なところに興味を移して去ってゆく事になりかねません。そうなると不木研究や不木再評価どころか、読者層を拡げるという事すら難しく、結局は定評ある作品の繰り返しでせめて名前を残すしかない、という状況が想像されます。
 やはり作家の再評価が進む事を期待する上で、その著作がどれだけ手に取りやすい状況にあるか、というのは非常に大切です。そこで次に「インターネットで読む小酒井不木」という話に移ります。

インターネットで読む小酒井不木

 実際に「奈落の井戸」にアクセスして頂きます。「翻刻ライブラリ」というコーナーが作ってあり、小説随筆日記書簡雑録などジャンル別に分けてありますが、今回は「あら浪」の第一話を御覧頂きます。
 新聞連載の一回目なので分量は非常に少ないですが、それでもパソコンの画面で読むのは少々苦しいかもしれません。むしろ読みたい時に読みたい所を紙にプリントアウトしてから読む方が楽です。余談ですが、私はこうしたテキストを読む時には、ブラウザ上でそのまま読むのではなく、テキスト部分だけをコピーして別のテキストエディタに貼り付けてから読んでいます。フォントの種類やサイズの変更、横書きから縦書きへの変更なども、ワープロやテキストエディタで行う方がずっと簡単に出来ますので、非常に読みやすくなります。電子出版という事が盛んにいわれ、エキスパンドブックなどのように専用のビューアを利用して読む形式の電子書籍も登場していますが、このようにインターネット上のテキストデータをブラウザなりテキストエディタなりで読む事でまかなうのも一種の電子書籍(形式)といえるかと思います。

「奈落の井戸」で小酒井不木の作品テキストを翻刻公開している理由として、作家・小酒井不木の紹介として一番シンプルで効果的な方法は作品をそのまま読んで貰う事だ、と思ったというのがあります。ここで重要なのは前述の通り、既に定評のある作品・既に別の本で手に取る事の出来る作品を紹介する、という事ではなく、非常に手に入りにくい、または、ある意味(特に商業的な意味で)面白くないので復刊されないでいる作品を中心に、とにかくあればあるだけの文章をいつでも手に取れるような形にしておく、という事です。
 著作権が切れている、という事と、インターネットの普及によって個人が手軽にサイトを持ち情報発信出来るようになったという二つの面があるからこそ、今こうして「奈落の井戸」では小酒井不木の書いた雑多な文章までが読めるようになっています。「カフエーと女給」(「騒人」昭和2年10月号)のようなアンケート回答や、他人の著書への序文といった文章は、殆ど本に収められる事はありません。ですが小酒井不木という作家を知る、という意味では、決して他の小説随筆に比して軽んじてよいというものではないのです。面白くないといえば面白くない、これだけの為に金銭的な負担を強いて本を出すというのは難しいこうした文章こそ、無料で、読みたい時に気軽にアクセスすれば読めるようにしておかなくてはならないものです。
 実際「小酒井不木研究サイト」などと自称していますが、現在の活動は、小酒井不木の著作、小酒井不木に関する情報の収集と公開に全力を挙げていて、分析や論評に関しては全くと言っていい程力を入れていません。分析や解釈は私よりももっとそういう方面で優れた才能を持つ研究者が大勢いますので、小酒井不木再評価、という事に則して言うならば、私は素材を提供する側で、評価をするのは彼等の方で構わないと考えているからでもあります。

 もう一つ、インターネットというメディアを通じて情報を発信する利点として、即時的な更新・双方向的な情報発信が出来る、というメリットが挙げられます。受信者からのリアクションがダイレクトに発信者に返ってきて、その結果がまた発信される――安易な連想では電子掲示板などを利用した情報交換がありますが、例えそうしたコンテンツを持たないとしても、受信者側からの何らかの意見を受け取った時にそれがすぐサイトの情報に反映されるとしたら、それもやはり十分「双方向」的なメディアの有り様に沿っていると見なしてよいと考えます。「奈落の井戸」には掲示板も何もありませんが、電子メールなどでよく情報を頂きます。そうした時、情報の追加や訂正、記述の誤りの修正などが実に簡単に出来るわけです。一度書籍の形にしてしまうと簡単には訂正・増補も出来ない年譜データ著作リストも、現在のような形で公開しているうちは、いつでもすぐに最新の情報に更新出来ます。実際、小酒井不木のように著作が厖大で、まだその全貌が明らかでない作家の著作リストを作成するにあたっては、現在のような形式は非常に便利です。制作者が現在どこまで調べを進めているのかが閲覧者にもすぐわかりますので、情報の漏れや間違いを指摘しやすいでしょうし、実際に多くの方々からメールでのご指摘や資料送付といった形でお手伝い頂きました。このように多くの協力者が現れる、というのはインターネットというメディアがまさに開かれたもので、より多くの人の目に触れる可能性がある、という事とも関係している事です。研究の成果、といえる程大袈裟な物ではありませんが、こうして公開された状態で日々情報が追加訂正されてゆくリストを眺める、というのはなかなか面白い事だと思います。しかし毎日訂正、というのはいくら何でもいただけないので、気を付けなくてはいけませんが。

 小説や随筆などのほか、同時代批評リストなどのデータが全てhtml文書化され、ウェブ上で閲覧出来るという事は、何等特別なソフトは必要なく、ウェブブラウザさえ起動出来る環境であれば、いつ・どこからでも全てのデータが閲覧出来るという事です。おまけにインターネット検索サービスを利用すれば(漏れがない、とは言えませんが)欲しい情報が一度に纏めて検索出来る、という事でもあります。(例、トップページ下段「Googleサイト内検索」)調べ物をする上で、何冊も何冊も心当たりの本をめくってキーワードに該当する記述があるかどうかを調べるのではなく、そうした手作業だと時間のかかるリファレンス作業を検索サービスが代わりにやってくれる、という事のメリットの大きさはすぐにご理解頂けると思います。さらに先程、作業の中でテキストをコピーして別のアプリケーションに持って行く、という手順をご紹介しましたが、小説の本文なり、同時代批評の文章の一部なりをコピーして、例えば論文を書いている途中の、引用テキストの入力の手間を省く、という場合にも利用して頂けると思います。自分の論を纏める作業の途中で億劫な、引用文章の書き写し作業を減らす事が出来る、というメリットもそこにはあります。実際、手元には小酒井不木の本が一冊もないが「奈落の井戸」で作品を読んで資料を集めて論文を書いた、というような剛の者が出て来てくれたら楽しいな、と思っています。
 但し、現在のところ、こうした形でインターネット上に公開されている文書については正確さの保証や信頼度の問題であまり積極的に引用等に利用されているとは思われませんので、今後、どのようにしたらより信頼性の高いテキストとして利用して貰えるか、という所に課題があります。今はまだあくまでも私的に楽しむ為のテキストの域にあるとお考え頂いた方がよいでしょう。

おわりに

 小酒井不木がもし結核を患っていなければ……恐らく東北帝大教授として順調に研究を進め、英米で最もよく知られた日本人生理学者・衛生学者の一人になっていた事と思います。筆が立つので著書や著作の数は例え立場がそうなっていても変わらなかったかもしれませんが、探偵小説を書いていたかどうかはわかりません。しかし少なくとも、今日在るような形で、「探偵小説作家」と呼び称されるような人ではなくなっていたでしょう。多分、小酒井不木というペンネームではなく、小酒井光次博士として、医学史の一ページを飾る有名人になったのではないかと思います。
 彼が亡くなった時、彼を知る医学者の友人の多くが「医学界の損失」を嘆きました。その「損失」とは彼の死という事実を指す言葉ではなく、与えられた短い生涯を探偵小説に没頭して生きた彼の生き方を批判し、惜しむ言葉です。その裏には例え40年しかない生涯でも、医学に没頭していれば素晴らしい成果を遺せた筈の人だった、という思いが見受けられます。彼の貴重な才能と限られた時間を探偵小説などという余技の為に……という恨みにも似た感情が医学畑の人々の中には強くあったようです。しかし、彼が遺した膨大な著作は本当に只の余技、余り価値のない時間の浪費だったのでしょうか。医学界からすれば無価値な雑文、日本の探偵小説界からすればかけがえのない財産、というそれぞれの言い分はもっともです。しかし、私はまずそういうジャンルそれぞれに対する不木の貢献という事以上に、一人の人間がその短い生涯の間にこれだけの分量の仕事を遺していったという事実に素直な驚きと感動を覚えています。
「学者気質」を書いたという事実を見て、大正10年には不木は随筆の連載を書く事が出来るまでに恢復していた、と解釈するのはやや間違っています。そのほんの数ヶ月前、彼は大喀血をしており、当時の彼は死と隣り合わせの時期を過ごしていました。「学者気質」は病床の徒然に、どこに発表するあてもなく手帳に鉛筆で書き連ねたもの、と不木は後に当時の様子を回想しており、同時に、「いつ死ぬともわからぬ身体であつたから、可なりに真面目な気持で書き上げたつもりである」(大正15年刊『学者気質』序文)と言っています。この「いつ死ぬともわからぬ」という感情は、恐らくそれ以降、流行作家となって超人的に仕事をこなすようになってからも、常に彼が心のどこかに抱き続けていた思いではなかったかと考えます。不木は、病気に合わせて病人らしい暮らしをするのではなく、病気を忘れる程何かに打ち込んで生きる、という意味での「闘病術」を提唱し、実践し続けた人でした。そして、多作を批判されてもなお「かうしてドンゝゝ書いてゐる内には、屑も多いだらうが、一つ位後世に残る作品が生まれるかも知れぬ。それでいゝと思ふのです。」と言い、「紙の墓を残す」と言った人でした。
 私はそんな風に小酒井不木が紙の上に遺した膨大な言葉を、今度は全てウェブ上に遺してゆきたいと思います。小酒井不木がやって来た仕事のボリュームを体感したくて彼の文章を写しているようなものかもしれません。分析でも解釈でもない、極めて単純な意味での追体験、とでもいうような方法論で作家に触れるこのやり方を果たして本当に「研究」と呼んでいいのかどうか自信はありません。しかし私個人はそれを意識した上で活動を実践しているつもりです。そして、インターネット上に置かれた彼の言葉は、時間も場所も問わず、今までに届くきっかけが無かった読者の元へもいつか届くものと夢想しています。それがもたらす結果は、大勢の未知の読者の獲得ではなく、たった一人の「好きだ」と言ってくれる読者との出会いでしかないかも知れません。しかしその誰かが、私にはない全く新しい感性で小酒井不木の作品を読んでその意味を汲み取り、作品に新たな価値を吹き込んでくれるとしたら――もしたった一つでもそういう出会いがあるとしたら、一人の作家の偉大な仕事を忘れない為に、個人の力で出来る最良の事だと信じてウェブサイトを開設している人間として、これに過ぎる喜びはありません。