モリス・ルヴエルは不思議に「新青年」と縁故が深い。大正十二年八月の「ルヴエル号」を始めとして、彼のコント中の傑作は主として「新青年」によつて日本の読書界へ紹介されたといつていゝだらう。だから日本に於て最もよく彼を理解し、最も多く彼を愛読してゐるのは、わが「新青年」の読者諸君である筈だ。
アーノルド・ベネツトは英吉利の作家は短篇小説に於ては、決して世界の何国(どこ)の作家にも劣らぬといつたが、短篇を圧搾したやうな所謂コントに於ては、やはり仏蘭西の作家が傑出してゐるやうに想ふ。その中でもルヴエルの特異な、宝石の断面のやうに光つてゐるコントは、確かに第一流の班に列すべきもので且つ永久に文芸史上に輝くであらう。
快活なスポーツマンとしてあらゆる戸外の遊戯に興味をもつた彼は、或る年の冬にスケートで大怪我をして以来スポーツが出来なくなつたので、瑞西の方で静養旁々魚釣りなどをやつて僅かに鬱を散じてゐるが、大戦勃発と同時に療養所を飛びだして、敢然軍籍に入つた。彼の父親はアルサス出身の軍人だつたので、その訓■(くんとう)(※1)をうけた彼は、猛烈な愛国者であつたのだ。それで彼はモロツコ民兵第二聯隊に属し、最前線に立つて奮戦した。が、それがために病後の彼は著しく疲弊したので、已むなく後方勤務に廻つて、軍医として野戦病院に働いた。かういふ点から考へると、彼の作に現はれてゐる男性的な匂ひは、たしかに彼の敢為な性格から来てゐるやうに思ふ。
凱旋後は専ら長篇創作に没頭したが、売れつ子になると共に多作を余義(※2)なくされた形跡がある。で、戦争中無理に体を使つたのと、その多作のためにすつかり健康を損ねたらしい。
ルヴエルは決してその晩年に書いたやうな通俗長篇だけで満足の出来さうな男ではない。もつと魂ひを打ちこんで書きたいものを持つてゐた筈だ。それで我等は、多分これから彼がライフワークに取りかゝるだらうと期待してゐたのに、突然訃報を聞いては、ルヴエル党の諸君と共に痛惜の感に堪へない。
彼の作の価値については屡々述べたから、こゝには省略してこの機会に、彼の創作の原名と発行所をご紹介しよう。
Les oiseaux de nuit. 〔夜鳥〕コント集。巴里 Flammarion 発行
Mado on la guerre a Paris. 〔マド―戦時の巴里〕コント集。(同上発行)
Mado on les mille joies du menege. 〔マド―家庭の楽しみ〕コント集(同上発行)
Les portes de l'enfer. 〔地獄の門〕コント集。(発行所不詳)
Les morts etranges. 〔奇怪な死〕中篇集。巴里 Ferenczi 発行
Crises 〔危機〕―英訳コント集(倫敦 Philpot 発行)
以下は長篇、すべて Flammarion 発行。
La cite de Voleurs 〔資賊の市〕
L'ombre 〔暗影〕
L'ile saus nom. 〔無名島〕
Vivre pour la Patrie 〔祖国のために〕
Le manteau d' Arlequin 〔道化者のマント〕
Lepouvante 〔恐怖〕
Lady Harrington 〔レデイ・ハリントン〕
L'alonette 〔雲雀〕―戯曲。
(※1)■は草冠に「重」。「薫陶」あるいは「訓導」の誤植か。
(※2)原文ママ。
底本:『新青年』大正15年9月号
【参考リスト】 → 「M・ルヴェル」
(公開:2005年4月2日 / 最終更新:2009年10月31日)