36歳
【年譜】
十五年七月 長女夏江生る。
「子供の科学時代」(原田三夫『思い出の七十年』誠文堂新光社・昭和41年3月25日発行)
午後、小酒井不木が来た。かれは肺病がだいぶよくなっていたが、まだ放送は疲れるから出ないといった。不木は、パリでは語学ができると遊びが面白い。自分もそのために余り遊んだので病気になったといった。そこへ局の人が来て、私のあとに出演する吉田絃次郎先生が、来ておられるからお会いになりませんかといったので、二人は吉田のへやへ行つた。小酒井も吉田とは初対面であった。
「子供の科学時代」(原田三夫『思い出の七十年』誠文堂新光社・昭和41年3月25日発行)
放送後私は小酒井と上の兄をつれて、八高時代に悪友につれて行かれたことのある、七間町の古銭楼へ行き芸者をあげて飲んだ。その一人の若いのが、私は小酒井先生の愛読者だといったので、私は女中に白扇と硯を持ってこさせ、小酒井を促して一筆書かせ、黙ってその妓に扇をやった。妓が驚ろきかつ喜んだことはいうまでもない。小酒井は、いつも書く自作の俳句を書いた。
「年譜」(『村井三豆句集』・昭和54年3月22日発行)
大正十五年
初夏の頃、小酒井不木氏を知る。
「百千鳥」(『村井三豆句集』・昭和54年3月22日発行)
大正十五年
小酒井不木氏を中心に都会俳句と云ふを試む。
「大衆文芸往来」(『大衆文芸』 大正15年11月号)
□小酒井不木氏――名著「闘病術」の会を名古屋新聞主催にて開催盛大でした。
「大衆文芸往来」(『大衆文芸』 大正15年12月号)
□小酒井不木氏――名著「闘病術」の売行頗るよく、同氏はその質問の応答に忙殺されて居られます。
「深山の桜」(『新青年』大正15年5月号)
二月十七日、澄宮殿下伊勢御参拝の御途次、名古屋ホテル御一泊に際し、小酒井博士の御令息望君(御器所小学校二年生)は父上作の創作童話を放送して殿下の御旅情を慰め奉つた。本誌と縁故の深い小酒井博士が童話を作られ、それを坊ちやんが放送されたといふのは誠に目出度い話である。
「桐の花」(『新青年』大正15年5月号)
此頃中例の放送のために、可なり頭をつかつたので、こんなものが出来てしまつたのです。
三月十九日午後一時、 不木
「編輯後記」(『新青年』 大正15年4月号)
他の作品と違つて探偵小説の合作は特に興味が深い。江戸川氏の第一回を待ち焦れるものは、単に読者ばかりではあるまい。不木博士からの私信の一節に、「合作の件愈々決定、愉快に堪へません。国枝氏も大賛成、何でも私を困らせるために大に筋をこんがらかせるなどと申して来ました。」云々。それのみならよいが、「雨村大兄の加入は一段と私の心を躍らせました もうどんなことがあつてものがしません。あなたがはひらねば小生は結末を執筆せぬと宣告しておきませう。といつて、私を困らせるために筋をこんがらかされては困りますが――」
◆かうなつては雨村生ものつぴきならぬといふもの。諸君のお愛嬌に否が応でも仲間入りをしなければなるまいと頭を掻いてゐる。
「控力士を心頼みに」雨村生(『新青年』 大正15年11月号)
江戸川、平林、甲賀の三君と盛京亭の支那料理に舌鼓を打ちながら、合作物の相談をした時、人物や筋など一切取りきめずに、各自の思ふまゝにやらうではないか。江戸川君には頭をたのみ、小酒井君には最後を頼むことにしよう。その後はといふことになつて、國枝君は名古屋にゐるから、便利上小酒井君の前、即ち第五回を押しつけよう。さて、それでは二、三、四を誰がどう受持つかとなると二回は亂歩君の後だから、少々骨が折れよう、三回はまアどうでもよいとして、四回は峠だから又骨が折れるにきまつてゐる。骨の折れるところは玄人に委すべしだと、二回を平林君に、三回は本格派の頭目甲賀君に押しつけて、内々楽な役割を受持つた心算(つもり)でゐたのだ。
「編輯局より」(『新青年』 大正15年6月号)
◆四月十二日夜十一時、父に伴して上野を立ち、善光寺に詣で中央線にて名古屋に出で、西下する父を送り、十四日の朝東京に帰つた。
(中略)気忙しい旅ではあつたが、愉快でもあつた。老人に満足を与へたことが一つ、今一つは名古屋で小酒井、国枝氏等の会合に出会ひ、名古屋新聞の稲川、鈴木両氏予て知合の潮山氏等にお目にかゝれたことである。
「噂の聞き書き」(『新青年』 大正15年5月号)
江戸川乱歩氏、先頃東京へ引越しの途中、小酒井博士訪問のため名古屋で下車し、駅の待合室へ入つて袴をとつて帯をしめ直したと想像したまへ。すると傍のベンチに一人の若い男がぼんやりと腰かけてゐたが、亂歩君何かに気をとられてわき見をしながら身仕度をして、さて出かけようとすると、そこにゐた男の姿が忽然として消えてゐる。それどころか、確かに今、ベンチの上へ置いた財布がない! サア大変とばかり、早速交番へ訴へ出た。
『で、その男は一体どんな人相風体でしたね?』
と、警官に聞かれたが、亂歩君気にとめなかつたので、残念ながら少しも覚えてゐず、ぐつと答弁に詰つてしまひ、
『サア‥‥それが‥‥。でもこの辺には掏摸の常習者がゐるんでせう?』
と奇抜な逆問に、今度はお巡査(まはり)さんが眼をパチクリ。――この悲喜劇の幕は、小酒井博士に財布ぐるみ旅費を拝借して東上となつたさうだが、掏摸もし彼を明智小五郎の作者と知らば、恐らく冷汗三斗の思ひがしたであらうか、それとも痛快を叫んだであらうか。
「お化人形」江戸川生(『探偵趣味』 大正15年7月号)
□半年ぶりで大阪、神戸、名古屋と廻つて来ました。用事といへば大阪放送局から招かれたのですが、その方はまあきつかけみたいなもので、重に横溝正史さんと神戸の元町をぶらついたりなんかした訳です。
(中略)
帰りには例によつて名古屋の小酒井さんへ御機嫌伺ひにお寄りしました。本田緒生さんは御商売の手が抜けず、潮山長三さんと三人で、鳥屋を御馳走になり、それから、もう夜の十時頃でしたが、國枝史郎さんの所へ押しかけました。國枝さんでも更らに御馳走に預り、そこへ名古屋新聞の稲川さんも来合せて、大いに話がはづみ、お暇したのは一時を過ぎて居りました。
「桐下亭小宴―木下杢太郎氏邸にて―」坂田行雄(『名古屋新聞』 大正15年6月4日)
松波院長 桂城 松波寅吉
医学士 茂竹 那須太郎
医大教授 元季 石田元季
医学博士 浩甫 蔦谷貞之
医学博士 不木 小酒井光次
医学博士 桐下亭 木下杢太郎
「諸家消息」(『探偵趣味』 大正15年7月号)
小酒井不木氏
近頃御健康とみに勝れ、七月早早御夫人に御目出度の由。同人一同前以て祝意を表します。
「父不木の思い出」(『別冊・幻影城No.16 小酒井不木』昭和53年3月1日発行)
岡戸氏は始終わが家に出入りされ、私も随分遊び相手になってもらったし、大正十五年に生れた妹は、よくお守りをしてもらった。妹を抱いて、煙草の煙を輪に吹き出して、あやしていた氏の姿が、今も眼底に焼きついている。
「陪審制度宣伝劇」(『新青年』大正15年11月号)
会費が五十銭であつたためか、各回とも大入満員で、総計一万五千人余の入場者があつたことは、興行上大成功であつたが、劇そのものは、考へれば考へるほど破綻の多いものである。
『喜多村緑郎日記』大正十五年八月十五日
晴。朝七時頃、林氏の手代、丸淵琴治君が来た。
模擬裁判――陪審員、宣伝――をやるので僕に出てもらひたいといふのだ。脚本は小酒井が書くと云ふ。事件を二幕ほど取あつかつて、やらうと云ふのである。
『喜多村緑郎日記』大正十五年八月廿二日
小酒井に会見す。寸楽で会合する、潮山長三君をホテルへつれて来て語る。
『喜多村緑郎日記』大正十五年八月廿三日
昨日は小酒井氏に会つて、脚本について突込んで質問をすると、結局、プランを立てて潮山と云ふ弟子のやうな男に書かせたと云ふ訳であつた。その為に、山田弁護士に今度の本によつて、鼎の軽重を問はないでくれと伝へて貰ひたいと云つたわけだ。
末広座で朝の十時から、稽古にかゝる。
弁護士連、小酒井、潮山、その他関係者も皆そのけいこ振りを見物してゐた。
俳優は、山田九州男、芳野、その他、金子新八とか云ふ地廻りの女形など聞いた事もない連中で、素人芝居といつた方が当を得てゐる。日活の方の小泉嘉助、とか云ふのと、女優が来ると云ふがまだいなかつた。可成手きびしい稽古をやつた。九時迄かゝる。
山田弁護士の招待で、栄ちやんも一緒に、小酒井、潮山も同伴で、「八幡」へ行く。
「陪審劇『パレツト・ナイフ』」(『探偵趣味』大正15年10月号)
陪審制度宣伝の為に、わが小酒井不木氏が三幕六場の劇を書下して去る八月二十六日より四日間、喜多村緑郎一座によつて、名古屋で公開された。連日満員続きで、大変な好成績であつたとか。
『喜多村緑郎日記』大正十五年八月廿八日
栄ちやんと、松井君とで共済で飯を食つて芝居へいつて、皆にいとま乞ひをして、小酒井氏の来て居たのを誘つて、精養軒へ招待した、栄ちやん、松井にも来てもらつた。
小酒井氏を送つてそこで長い間雑談をして、また、「鶴木」と云ふうちへ栄ちやんにつれられていつて、そこから午前三時二十分の列車で立つて来た。
(岡戸武平 『不木・乱歩・私』 昭和49年7月)
出版社は春陽堂に決定しており、著者は共著とするという約束もあったが、出版社の申入れで「医学博士 小酒井不木」とすることになった。そのかわり序文の最後に次の言葉が入っている。
「この書を著はすにあたって、友人岡戸武平氏の多大な助力を仰いだことを附言して、同氏に感謝の意を表したいと思ふ。
大正十五年八月 小酒井不木」
私は不服に思うどころか、むしろ光栄に思った。それにこの本が意外な反響を呼んで、矢つぎ早の再版となり(今昭和二年四月十日発行の分を見ると百三十三版とある)私も面目をほどこしたが、先生も満更でない表情であった。そこで印税は半分わけという最初の約束であったが、
「どうだね、月々三十円出すから、これからも僕の仕事を手伝ってくれないか」
という話で、私にとっても定給となれば生活が安定するのでよろこんで承諾した。それから私の北丸屋(先生の住所)通いがはじまった。
『喜多村緑郎日記』大正十五年九月三日
小酒井氏から丁寧な挨拶状が来る。寺田からも小酒井の所を知らせて来る。
「大阪京都名古屋を歩いて」森下雨村(『新青年』 大正15年11月号)
帰京、十一月号の、計画をたてて、また京都へ向ひ、比叡山へ上つたり、桃山に参拝したり、その間に山下利三郎君を訪問して、滞在数日、岐阜を経て、名古屋に着いたのが九月七日。何はあれ、早速小酒井氏に電話を掛ると、京都からの手紙を見て同人相集つて晩飯を食ふ手筈になつてゐるとのこと。直ちに自動車を飛して御器所に博士を訪ひ、潮山長三君も一緒に、途中名古屋新聞の稲川君を誘ひ、料亭蜂龍に出掛けると國枝史郎君既に坐にあり、本田緒生君も見えて、十一時過ぎまで会談した。
翌日は所用に夕方までかゝり、ぐつたりして横になつてゐると、わざゝゝ小酒井博士の来訪に接し、一月号からの長篇創作のお話など承つてゐる中に稲川君も見え、たうとう又十一時まで快談して、汽車に乗つたのが同四十分であつた。
「編輯後記」(『大衆文芸』 大正15年12月号)
□小生は十月十日頃名古屋の同人國枝、小酒井両氏を訪問いたしました。御両人共病弱で而も諸方より依頼の原稿が殺倒してゐました。病躯をひつさげて創作に従事して居らるゝその雄々しい態度には打たれて帰りました。「文人文に倒る」といふ気慨がうかゞはれて、両氏のためにその健闘を切に祈つて居ります。
「誤謬の値段」(小酒井不木 『紙魚』 昭和2年1月号)
最近私は小説集「恋愛曲線」を公にしたが、その中に「拾遺御伽婢子」のルビが「おとぎひし」となつて居るのには聊か閉口した。随分気をつけて校正させたつもりであるのに、尚ほその他にも一二間違ひがあつて、従来私は誤植には余り鋭敏でなかつたけれども、小説集だけは間違ひのないやうにしたいと思つて、校正に骨を折つた為特に誤植が気になつたのである。
(公開:2007年2月19日 最終更新:2023年6月10日)