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桐の花

小酒井不木

 恋が時として一種の遊戯であることは、新石器時代でも現代でも、又、ペルーでも日本でも変りません。
 恋する若い男女は、動(やゝ)もすると、恋の単調に厭いて悪戯を始めます。さうしてその悪戯のために、余計に心をじらすのは、女よりも男の方です。
 春雄と千惠子との恋は、もうそろゝゝ(※1)、悪戯を始めてもよい程熟して居ました。春雄は木彫に秀でた前途有望の芸術家、千惠子は旧家に生れながら、新時代の空気に円満に育つた「才媛」です。
 ある日、春雄は千惠子に宛てて恐ろしい手紙を送りました。それは長い手紙でした。最近自分の心に変化が起つて、芸術のために今迄の恋を捨てねばならなくなつた経過をこまゞゝ(※2)と認めた、いはゞ千惠子に対する絶交の文でありました。然し春雄はその手紙の最後に、
「といふ創作を私は昨日読みました。このやうな手紙を受取つた女はどんなに悲しむことでせう。それに較べると、私たちは何といふ幸福でありませう。」
 と書き加へました。
 悪戯です。千惠子を驚かしてやらうと、春雄が考へに考へた悪戯だつたのです。
 春雄は千惠子がどんな返事を呉れるであらうかと、あまりに好奇心を燃したためか、その夜風邪をひきました。晩春から初夏にかけて、芸術家の罹り易いインフルエンザに冒されて発熱したのです。
 ところが、いつもならば遅くも三日目には返事が来るのに、五日目になつても千惠子よりは何の便りもありませんでした。さあ大変です。
 若しや千惠子は手紙の途中まで読んで悲歎にくれて居るのではあるまいか。
 かう思ふと、春雄は千惠子の傍へ走つて行きたくなりましたが、何分、熱が高いので、どうにも仕様がありませんでした。それといつて手紙を書くのも何となく変な気がしたので、彼は泣きたいやうな気持になつて、寝床の上で煩悶しました。
 あんな悪戯をせねばよかつた。
 と、今更、後悔しても及びません。彼は寝床の上で虎のやうに唸り初めました。黙つて居ては胸が張り裂けさうに思へたからです。
 ところが虎のやうに唸つたためか、七日目の朝、熱が下りました。起きて見ると、まだ頭が重くてふらゝゝ(※3)しました。けれど、じつとしては居られないから、千惠子の家を訪ねようと思つて身仕度を始めると、待ちに待つた千惠子の返事が、書留郵便で参りました。
 書留郵便!
 春雄はぞつ(※4)としました。妙な予感が起つたからです。彼は、顫へる手をもつて封を切り、細かい字で書き埋められた十数枚のレター・ペーパーを開くと、中からぽたりと落ちるものがありました。拾つて見ると、それは紫の色あせた桐の花です。
 春雄は、はつ(※5)としました。
 桐――切り――縁切り。
と連想したからです。桐の花は絶対に恋と相容れません。春雄は、金槌で頭をなぐられたやうな思ひをして、読んで行きますと、其処には、まつたく寝耳に水の大事件が書かれてありました。
 実は、父が最近、株で失敗して、ある若い実業家から多額の借金をしました。それがため、父に懇願され、父を救ふために、その実業家と結婚することにしました。今までのことはどうか夢とあきらめて下さい、私は生ける屍となつて嫁して行きます。
 といふ意味でありました。ところが、最後の行を読み終つても、創作だとも、嘘だとも何とも書いてはありませんでした。それのみならず、先日の御手紙が、創作でなくて、むしろ本当であつてほしかつたとさへ書き添へてありました。さうして、これが、あなたに宛てる最後の手紙であるから、紀念(※6)のために、桐の花を送りますとも書かれてありました。
 春雄は、高熱に悩むやうな思ひをして再び繰返して手紙の隅から隅へ眼をとほしましたが、全体を嘘であると解釈すべき如何なる文句も見つかりませんでした。各(おのゝゝ)のペーパーを、或は裏返したり、或は透(すか)したり、はてはその桐の花を破つて検べて見ましても、希望をつなぐに足る記号も紙片も発見されませんでした。
 決して真実ではない。やつぱり悪戯だ。
 と、考へても、悪戯にしてはあまりに念が入り過ぎて居ると思ひました。彼は恰も大池の中へ吸ひ込まれて行くやうな遺瀬ない感じを起しました。さうして、彼女を金銭で買はうとする若い実業家に対して、はげしい嫉妬と憤りとを感じました。
 若し本当だつたら、千惠子を殺して自分も死なう!
 病後とはいへ、恐ろしいことを考へ出したものです。彼は千惠子から来た手紙をポケツトに捩ぢこみ、くわつ(※7)と逆上して製作室に赴き、木彫(きぼり)用の小刀を取り出して、それを風呂敷にぐるゝゝ(※8)巻き、右手につかんで、狂人(きちがひ)のやうに走り出しました。

 千惠子の家についた時、春雄は始めて、全身に汗のにじみ出て居ることを知りました。彼は玄関の前に立つて手巾(はんけち)で額を拭ひ、暫らく呼吸を静めてからベルを押しました。すると意外にも千惠子があらはれて、さもゝゝ(※9)家へあがつて貰つては困るかのやうに、手真似で、奥庭の方へ行けと指図しました。
 春雄は絶望のために、よろけるやうに庭の中へはいりました。麗かな日に照された滴るやうな新緑も、春雄の心を少しも喜ばせないのでした。晩春に競ひ咲く、色彩の濃い各種の花を、彼はむしり取つて捨てたいやうな思ひになりました。
 庭の中央に芝生があつて、其処に一本の太い桐の木が生えて空高く茂つて居ました。あちらこちらに紫の花が散つて、快い香(か)を漂はせて居ましたが、春雄は手紙の中の桐の花が、此処で拾はれたのかと思ふと頻りに悲しくなりました。彼は憑かれた人のやうに桐の幹に凭れて、風呂敷で巻いた小刀を持つたまゝ、腕拱みをして眼を閉ぢました。
 すると芝生の上に足音が聞えて千惠子が近づいて来ました。
『春雄さん、手紙見て?』
 春雄はうなづきました。元気が消滅して物が言へないのです。千惠子はにつこり笑つて言ひました。
『待つて居たのよ。』
『え?』と春雄はにはかに元気づきました。
『手紙持つてて?』
 春雄はポケツトから取り出しました。
『では、これを御覧なさい。』
 かう言つて一本の封書を差出しました。受取つて見ると、封筒の表面には「正誤表」と書かれてありました。
『これは、その手紙の正誤表なの。合せて御覧になる必要があるわ。』
『あーつ!』と春雄は声を搾り出しました。さうして千惠子を見ると、今にも吹き出さんばかりにして、手巾(はんけち)で口を押へて居ました。
『やつぱり嘘だつたんですね? あゝ! でもあんまりひどい!』
『ほゝゝ(※10)、苦しかつた? けれど、あなたもあんまりよ。わたし途中であの手紙を破らうと思つたの。ところがしまひにあれでせう。嬉しいよりもにくらしくなつたわ。それから、どうやつて復讐しようかと色々考へ、つい返事が遅れたのよ。』
『正誤表とはよくも考へましたね。僕はくわつ(※11)となつて、若し本当だつたら千惠さんを殺して僕も死なうと、これこの通り小刀を持つて来ました。』といつて、春雄は風呂敷を解きにかゝりました。
『まあ、怖い。』と千惠子は春雄の手元を見つめました。
 ところが春雄は突然、
『おやつ!』と叫びました。
 見ると風呂敷の中から出たものは小刀ではなくて、木彫(もくてう)用の小形の鋸でありました。
『ほゝゝゝゝ。』
『はゝゝゝゝ。』
 二人は一斉に笑ひました。
『まあ、鋸で無理心中するつもりでしたの?」と千惠子はからかひました。
 春雄は頭を掻いて言ひました。
『偶然といふものは人間よりもよつぽど皮肉な悪戯をするものですねえ。』
『本当!』といつてから、千惠子は暫らくの間黙つて、悲しさうな表情をして、仰向いて桐の花を見つめました。春雄は心配になつて、
『おや、どうかしましたか。』とたづねました。
『わたし今、その鋸の使ひ道を考へたのよ。』
『えゝ?』
『貸して頂戴!』
 彼女は鋸を受取り、芝生の上に跪いて、いきなり桐の根元を伐りにかゝりました。
 春雄は驚きました。
『何をするんです、千惠さん!』
といつて、止めようとすると、千惠子は手を休めて春雄を見上げました。
『この木は私と同い年なの!』
『え?』
『昨日始めて母からきいたのよ。ですから桐の花を手紙の中に封じたの。もう伐つてもいゝわ。』
『何故?』
 春雄には意味がわかりませんでした。
『この木で箪笥を作るのですつて。もうかれこれ、私たちの結婚の準備をしなければならぬから、明日にでも切らせると母は言つて居たのよ。』
 春雄の顔はうれしさうに輝きました。
『それぢや僕が伐る。』
 かういつて彼も跪きました。やがて、幹が搖れて桐の花がはらゝゝ(※12)と散りました。
 が、果してこの小形の鋸で、この大きな桐の木が伐れるでせうか?
 皆さん、恋はやつぱり悪戯です。(完)

森下大兄
 この小説を書き上げてから、破つてしまはふと思ひました。それは探偵小説になつて居ないからです。けれど、破つてしまつては、私が、編輯者をあざむいたことになりますから、一応御目にかけますが、「新青年」へは出して(※13)頂きたくありません。少くとも、創作探偵小説欄へは出す資格がないと思ひます。此頃中例の放送のために、可なり頭をつかつたので、こんなものが出来てしまつたのです。書く前までは、何だか物になりさうな材料だと思ひましたが、書きかけて見て、泣きたくなる程、困難となつて来ました。昨夜は殆んど徹夜する位でした。
 どうも相済みません。もう〆切もぎりゝゝ(※14)ですから、残念ながら、六月号(※15)で、必ずこの失敗を補はせて頂きます。読者へ広告して下さつた関係上、どうしても、何か載せねばならぬとの思召でしたら、これを創作欄へは出さないで、小品として、六号活字(※16)で、載せて下さいませんか。さうすれば幾分でも、責を塞ぐことが出来るかと思ひます。これが私の切なる願ひです。
 兎に角一応お読み下さつて、小品としても価値がないと思召でしたら、破つて捨てゝ下さい。本当に御期待にそむいて申訳ありません。
 三月十九日午後一時、 不木

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文の踊り字は「ぐ」。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)(※5)原文圏点。
(※6)原文ママ。
(※7)原文圏点。
(※8)(※9)(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)原文圏点。
(※12)原文の踊り字は「く」。
(※13)句読点原文ママ。
(※14)原文の踊り字は「く」。
(※15)原文圏点。

底本:『新青年』大正15年5月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」

(リニューアル公開:2017年4月14日 最終更新:2017年4月14日)