人間のやる仕事である以上、誤謬は何事にも免れないけれ共、書物の誤植はその著者にとつて、可なりに不快なものである、不快どころか時としては、正に致命的と云つてよいやうな誤植に、出ツ会すもので、たつた一つの誤植の為に書物を改版したいと思ふやうな場合が無いでもない。
最近私は小説集「恋愛曲線」を公にしたが、その中に「拾遺御伽婢子」のルビが「おとぎひし（※1）」となつて居るのには聊か閉口した。随分気をつけて校正させたつもりであるのに、尚ほその他にも一二間違ひがあつて、従来私は誤植には余り鋭敏でなかつたけれども、小説集だけは間違ひのないやうにしたいと思つて、校正に骨を折つた為特に誤植が気になつたのである。
夏目漱石氏の「文学論」の初版は誤植が、確か一小冊子として正誤表の作られる程沢山あつて、同氏は誤植の多いことだけでも、後世に名が残つてよい書物だと云はれたことがあつた、それ程沢山誤植があれば寧ろ諦めがつき易いかも知れない。前回に紹介したアイザツク・ヂスレリーの随筆中にも「たつた一つの誤植でも著者の文学的感情にとつては短刀でぐさ（※2）と胸を刺された思ひをなさしむるものだ」と書かれてあるが、詩の文句などに誤りがあつてはさう云ふ感じのするのも無理はない。
ところが著者にとつてそれ程痛い思ひをさせる誤植も、後世の好事家にとつてこの上もない喜びを与へるのだから世の中は不思議である。日本では誤謬が果してそれ程喜ばれるかどうかを私は知らないが、西洋のクラシツクになると誤謬のある初版などは可なりの高値を呼んで居る。
殊にかの聖書は少しの間違があつてもならぬのであるから、誤謬のある聖書は驚くべき高値を呼んで居る。尤も誤謬があると気付けば聖書のこと故書物を破棄して仕舞ふことになつてゐるから残つてゐるものは珍書であるに違ひない。
大英博物舘にあるこの種の聖書で最も有名なのは、「爾姦淫すべからず」とある代りに、否定の言葉なる not が抜けて「爾よろしく姦淫すべし」となつて居る。其の当時大僧正はその出版者に対して未曾有の苛酷な罰を与へたので有名であり、従つてその値段はとてもお話にならぬ程高いと云はれてゐる。
これに似た誤謬の聖書として有名なのは独逸の「馬鹿者聖書」である。それは出版屋の細君が故意に誤謬を造つたものであつて、ある晩彼女はひそかに印刷所へ忍んで行つて、創世記の第三章十六節に「彼は爾の主（ Herr ）たるべし」とあるところを、 He の二つの活字を Na と置き換へ、 Narr （馬鹿者）とした。従つてその文章は、「彼は爾の馬鹿者たるべし」となつた。これが為、斯の細君は死刑に処せられた。この聖書の値段は矢張り途方もないものとなつた。
同じく一七一七年のクラレンドン版の聖書は、ヴイネガア・バイブル（御酢の聖書）と呼ばれてゐる。それは路加伝の第二十章の表題に parable of the Vineyard （葡萄園の譬喩）とあるべきのを parable of the Vinegar （御酢の譬喩）となつて居て、これも矢張りすばらしい値段で売買されてゐる。
現今の英国欽定の聖書は、もしその中に誤謬を発見したならばいくらやらの賞金を与へると云ふやうな規則になつてゐる程、完全と云つてよいものであつて、従来の聖書にも誤謬はあつてはならぬとされて居たから誤謬のある聖書が高値を呼ぶのは無理もないことだが、その他の誤謬ある書物が、同様の高値を呼ぶかどうかは頗る怪しいものである。
けれ共一方から云へば、初版本には誤謬の多いのが普通であるから初版本が一般に二版以後のものよりも比較にならぬ程高価で売買されてゐるところを見ると、初版本の値段は、誤謬の値段だと云つても、敢て過言でないかも知れない。
誤謬とは聊か趣きを異にしてゐるけれ共、アメリカの小説家シオドーア・ノドライサアの「シスター・キヤリ」の初版本はかの地では非常に珍重されてゐる。それはドライサアが、出版屋と出版を契約して、後者が当に活版に組まうとしてゐた時、出版屋の細君がその原稿を読んで、中に婦人の悪口が云つてあるのを大いに憤慨し、この出版罷りならぬと、亭主に命じたからである。アメリカでは婦人の命令は、国王の命令よりも尊重されてゐるから出版屋は大いに恐縮したが、それかと云つて著者に契約書を取交した以上、出版しない訳には行かず幸ひに書物の大きさや、装幀や、出版部数などの協定がしてなつ（※3）たので人目の立たぬやうな小さなものを作り上げた。それが今部数の少い為に非常な高値で売買されてゐるのである。
（※1）（※2）原文圏点。
（※3）原文ママ。「か」が欠落。
底本：『紙魚』昭和2年1月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆集成（昭和2年）」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録（随筆の部）」
（最終更新：2005年8月11日）