二月十七日、澄宮殿下伊勢御参拝の御途次、名古屋ホテル御一泊に際し、小酒井博士の御令息望君(御器所小学校二年生)は父上作の創作童話を放送して殿下の御旅情を慰め奉つた。本誌と縁故の深い小酒井博士が童話を作られ、それを坊ちやんが放送されたといふのは誠に目出度い話である。こゝにその童話を掲げて御紹介する事とした。
春が来ました。美しい春が来ました。
うらゝかな陽は、野にも山にも照りわたつて、象や、熊や、狐や、猿や、兎の住んでゐる森にも、楽しい春が訪れました。
菜の花が黄ろく咲き、れんげ草が紫色に咲きみだれてゐる広い野原には、かあいゝ雲雀が空高く舞ひ上がつて、ピーゝゝ(※1)と鳴いてゐました。
この日、お猿さんは、いつものんきさうに朝早くから、樹から樹、枝から枝へと飛びまはつてゐましたが、突然、西の山の方を見て、「オヤツ」と叫びました。
「何かしらん」と、よくゝゝ(※2)ながめてみると、それは珍らしくも深山(しんざん)の奥に住んでゐる雉子(きじ)さんでありました。
「お猿さん、お猿さん」と雉子は汗をふきながら、猿に向つて言ひました。
「雉子さん、今日(こんち)は。何の用ですか」と、猿はいひながら、雉子の顔をしげゝゝ(※3)とながめました。
「お猿さん、象さんたちは、お家にゐますか。実はねえ、お山の奥の大きな桜が咲いたことを知らせに来たのです。皆さん一しよに見に行きませんか」
猿は喜んでみんなに話しました。象も、熊も、狐も、兎も、皆喜んで、「それでは、出かけよう」といつて、身仕度をはじめました。
やがて、みんなは、雉子に案内させて広い野原を、非常に元気よく足なみそろへて、歌ひながら進んで行きました。
すると、むかふに藤の吊橋が見えて、谷川の音が聞えて来ました。そこで雉子は言ひました。
「皆さん、お山へ着きました。さあゝゝ(※4)これからが上り道です」
猿はにはかに元気づいて、案内役の雉子を飛び越し、木に登つたり坂を駆けたりして、どんどん進んで行きました。
松や杉や檜や百合などが、珍らしい客を迎へて、通りすぎてゆく一人一人に、おぢぎをいたしました。
象は大きな身体をして、のたりゝゝゝ(※5)と歩いてゆきました。熊は真黒な顔をして黙つて歩いてゆくし、兎はピヨンヽヽヽ(※6)と飛んでゆきました。
しかし、山の中程へ行くと、みんなは疲れてしまつて、口々に、
「休まうぢやないかい」といひだしました。
すると案内役の雉子は、象に向つて、
「象さん、お前さんも疲れましたか」とたづねました。象は大きな鼻をうごかしながら、
「なあに、これしきのこと」と、平気な顔をして言ひました。
その時狐は象に向つて「夫(それ)ではみんなを乗せてくれませんか」といひました。象は知らぬ顔をしてニコヽヽ(※7)しましたのでみんなはかまふことなく、象の背中に乗つてしまひました。
けれども、象は不平もいはずに相変らずのたりのたりと歩いて行きました。
ところが、ぢつとしてゐることのきらひな熊さんは、四方が見たさに、象の背中で、あちら、こちらと歩かうとしました。そのため兎や狐は落ちさうになつて困つてしまひました。
ただ猿だけは身が軽いので、象の牙に登つたり、尻尾につかまつたりして、ふざけて居りました。
たうとうみんなは桜の木の下に着きました。
見ると、その桜は、大へんに大きな樹で、花が一ぱいについてをりました。沢山の蝶々がひらひらと花のまはりを舞つて居ました。
「美しいねえ」と兎が言ひました。
「大きな樹だねえ」と猿が言ひました。
「よく咲いたなあ」と狐が言ひました。
「まつ白だなあ」と熊が言ひました。
「かあいゝ花だなあ」と象が言ひました。
その時、風が吹いて、花のにほひが、みんなを喜ばせました。すると、猿は、まつ先に、持つて居たおべん当の包を開いて、
「さあゝゝ(※8)、一しよにおべん当をたべませう」といひました。食べ終るといまゝでの疲れが出たのか、一人横になり、二人横になつて、たうとう、みんなが草の上に寝てしまひました。
象さんはじめみんなのものが寝ついた時、何処からともなく美しい乙女の姿をした五人の花の精があらはれて、うれしさうにみんなのまはりを飛びまはりました。
「本当に嬉しいねえ」と一人の花の精が言ひました。
「誰も訪ねてくれなかつたのにかうして見に来てくれたのですもの」二人目の花の精がいひました。
あとの三人の花の精も同じやうに喜んで「それでは、みんなで、桜の舞をまつてやりませう」といつて、手をつないで踊りはじめました。
かうして、いつまでも、花の精はみんなの寝てゐる間、踊りつづけました。その時、お陽さまはてうどお山のてつぺんに来てにこにこ笑つて、やさしい光りをお送りなさいました。(をはり)
(※1)(※2)(※3)(※4)(※5)(※6)(※7)(※8)原文の踊り字は「く」。
底本:『新青年』大正15年5月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木小説作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(小説の部)」
(リニューアル公開:2017年4月14日 最終更新:2017年4月14日)