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探偵小説の行くべき道

 「探偵小説も、もう翻訳の時代ではない。」といふことをよく耳にする。いかにもその通りで、日本の創作探偵小説に面白いものがあれば、誰でも外国ものはあとまはしにするにちがひない。けれども、残念ながら、創作探偵小説は、いはゞ、これからであつて、ことに長篇探偵小説に至つては、漸く一歩を踏み出したところだといつてもよいのである。
 以前にはよく、日本人の生活状態は探偵小説の題材となるに適して居ないなどと言はれたものであるが、もう今はそんなことを言つて居る時でない。ビルヂングや、自動車や、ピストルばかりが、探偵小説の要素ではなく、日本の家屋や、寺院や、神社などは、見方によつては却つてすぐれた探偵小説材料となり得ると思ふ。
 短篇探偵小説が行き詰り易いこと、又この行き詰りを打破するには長篇探偵小説へ発展すべきことなどを私は、「新潮」四月号に述べて置いたが、然らば、長篇探偵小説の行くべき道は何であるかといふに、これは中々む(※1)かしい問題であると思ふ。
 ドイルのシヤーロツク・ホームズ物、ルブランのルパン物が、だんゝゝ(※2)厭きられて来たことは争はれない事実である。これには、色色の理由があるであらうけれ共、シヤーロツク・ホームズとか、ルパンのやうな、一種の異常人が活動するといふそのことが、却つてその原因の一つでないかと考へて見なければならぬ。ポオのヂユパンに示された「探偵」の型は、従来の探偵小説家が好んで踏襲したところであるが、優れた才能をもつた「探偵」が、一つ一つの手がゝりから、みごとに事件を解決して行く有様は、快は即ち快であるけれど、幾つも読むと、鼻につく恐れがありはすまいかと思ふ。
 そこで私は、今後の長篇探偵小説では、一つのミステリーを、その事件に関係したすべての人物が有意識又は無意識に解決して行くといつたやうな形式をもつたものが喜ばれやしないかと思ふ。先日私は、涙香の「鉄仮面」を引つ張り出して読んで見たが、あの中に特別な探偵が出ないで、鉄仮面の正体を、みんなが苦心して探索して居るところに、言ふに言へぬ興味を感じた。さうして、今後の探偵小説は、ボアゴベに逆戻りして、この意気で行くべきではないかと思つたのである。
 最近探偵小説の映画化といふことが、やかましく言ひ出され、又実行されるやうになつた。然しドイルのものや、ルブランのものは映画になると、探偵小説で読むやうな味が出にくいといはれて居る(。)(※3)尤も、探偵小説なるものは、それ自身独立したものであるから、原作の味が出なくつても、その映画に特殊の味があればそれでよい訳であるけれども、探偵小説を映画化して、探偵小説の味がそのまゝ出るといつたやうなものも、作者の努力次第で書き得ると思ふ。さうして、さういふやうな探偵小説は、やはり、鉄仮面式のものでなくてはならぬだらうと思ふのである。
 私が今、「新青年」に連載しつゝある長篇探偵小説「疑問の黒枠」は一つのミステリーを、作中の人物がみんなで解決するやう(※4)、併せて映画化に便利ならしめたいと思つて筆を執つたのであるが、どうもやはり、従来のいはば伝統的な書き方に支配され易く、果して自分の最初の考へ通りのものが出来上るかどうかは、その表題の如く疑問である。けれども第二の長篇に筆を染める場合にはやはり、同じ考へのもとに進んで行きたいと思ふのである。
 かうは言ふものの、実をいふと私自身、探偵小説の行くべき道をどうしたらよいか、まだ迷つて居るのであつて、若しどなたかに適当な道を教へてもらふことが出来れば幸甚の至りである。

(※1)原文ママ。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文ママ。

底本:『読売新聞』昭和2年4月9日

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2019年11月9日 最終更新:2019年11月9日)