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探偵小説の題材

 探偵小説は、たゞの小説とちがつて、その筋がうまくまとまつて居なければならぬだけ題材を見つけるのに随分骨が折れる。書きたくて書きたくてならなくても、所謂トリツクが考へられなくては何にもならぬから、そこに可なりの苦心を要するのである。
 けれども、他人の話をきいたり、又は書物を手当り次第読むと、案外容易にトリツクの見つかることがある。他人が何気なく話して居ることでも、少し注意して居ると、それが立派な題材になつたりする。書物では笑話とか一口噺などを書いたものの中に、すばらしい獲物を見つけることがある。
 だが、適当な題材が見つかつても、反対に、それをまとめるに困ることがある。いはゆる持ちあぐむことが度々ある。次の事実談も、久しい以前にある医学雑誌で読んで、探偵小説の題材としようと思ひながら、いまだにまとめ得ないものである。
 話しはちやうど時節に適したチフスのことである、T市H区の下宿にチフス患者が発生したので警察では、すべての下宿人の糞便を検査することになり、主婦に向つて、明日(みやうにち)、みんなの糞便を持つてくるやうにと命じた。
 主婦は考へた。若し鏡検の結果一人でも二人でも保菌者があつた日には、自然隔離されることになり、営業上打撃を受けるから、ひそかに自分の糞便をいくつかの罎へわけ、それに下宿人の名を一々書いて差出したのである。
 その日遅く警察の人々がやつて来て、主婦をはじめ、すべての下宿人が悉く保菌者であるから、直ちに営業を停止する旨を言ひ渡した。
 主婦は顔色をかへて驚き、直ちに糞便の替玉を差出したことを白状した。
 実に皮肉にも主婦その人が、立派な保菌者であつたのである。

底本:『ワールド』昭和2年9月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(最終更新:2017年11月3日)