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古書蒐集熱

 関東大震災の後、古書の相場が騰貴してから、一時的現象であると思ひの外、昨今はいはゞ加速度的に昂騰しつゝある。これは恐らく古書蒐集熱が盛んになつたゝめであらう。西洋文化心酔の夢がさめて、日本文化研究熱が反動的に高まつた結果は、古書蒐集熱をも促がし、私どものやうな貧書生には、ほしい書物も買へない位の、むしろ法外の値段になつて、書物がどうやら完全に骨董品の仲間入りをしてしまつたやうである。
 けれども、今更この傾向を如何ともすることが出来ない。消滅しこそすれ、殖えることのない古書の値段は、誰が何と言つて攻撃しようとも、ますゝゝ(※1)高くなるばかりであらう。だから欲しい書物が出たら、借金してゞも買つて置かなければ、再びめぐりあふ機会は極めて稀であらう。
 それに、書物といふものは、高いといつても、よく考へて見ればそれほど高いものではない。一度び購入して、これを大切に保存すれば子々孫々を益し楽しませることが出来る(※2)古書蒐集家の中には、珍らしい書物であれば何でも集める人と、自分の研究なり趣味なりの範囲に属するものを集める人とあつて、私などはその後者に属するものであるが、だんだん全種類のものが揃つて来て、いはゞ欠罅(ギヤツプ)が埋つて行く興味は何ともいへぬほど深いものである。そのギヤツプを埋めるためには、時価の二倍でも三倍でも、惜し気なく出すことが出来るものである。まつたく、一冊づゝでは高過ぎると思はれる書物でも、あるシリーズの一員として存在するときは、決して高くないのであつて、かく思ふのは、あながち私一人に限つた変態的な気持ではないであらう。
 すべての文書的研究が、原本に依らねばならぬことは今更言ふ迄もなく、従つて、自分の研究に属する範囲のものは、大金を投じてゞも買つて置く気になるものである。書物はその時代の文化の反映であつて、原本に接するときはその装幀なり紙質なりから、いはゞその時代の空気にも接し得られる心地がして、研究上大に利するところがある。それにつけても不安に思ふのは、現今の書物に応用される紙質が長い保存に堪へ得るや否やといふことである。古書を開いて第一に受ける感興は、日本紙のねばり強さから来るのであつて、かの浮世絵の鑑賞の際にも紙質を度外視することの出来ぬと等しく、古書鑑賞にも紙質は重大な要素となると思ふからである。
 高いと云つても日本の古書はそれほど高いものでもないやうである。西鶴の一代男が一万円を呼ぶのも遠くないと言はれてゐるが、シエクスピアの初版本などゝ比べると御話しにならぬほど廉い。尤もかうした比較をするのも野暮の骨頂であるが、書肆に提灯を持つわけでないけれど、値段の高いことを責めるのもやはり野暮であるといふべきであらう。だが買ふ方から言へば、廉いに越したことはない。投資的蒐集家ならぬ読書研究子としても、これだけは書物の神様に祈願して置きたいところである。

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)句読点原文ママ。

底本:『和本』 昭和3年6月20日発行

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1928(昭和3)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2022年8月28日 最終更新:2022年8月28日)