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私の病歴

 他人の病気の記録を読むといふことは、ある場合に非常に力づけられることがある。私の病気など、御話しにならぬくらゐ軽いものであるが、読者の中(うち)には私よりもまだ軽い人が沢山ありさうに思ふから、さういふ人にとつては私の病気の記録は多少の慰安になるかも知れない。で、私は附録として、かねて私が書いて置いた「咯血記」をそのまゝ発表することにした。私は「闘病術」の中で、可なりに「強がり」な言葉を吐いた。然し私が現在の状態にまで健康を恢復し、現在の心持になるまでには、可なりの苦心と修養とを要した。私も実は人一倍熱を恐怖し、咯血を恐怖して、体温表を作ることに熱心であつたのであるが、さういふことをして居ては、到底病を退治することはむづかしいと考へたので、追々に過去の非を改め、永久に病と闘ふ決心をしたのである。だから「咯血記」の中には、今から見れば、到るところに弱音がふかれてある。然し、この弱音が、これから病と闘はうとせられる読者には、幾分の慰安を与へるかも知れぬと思ふのである。
 私は大学を卒業して一年後の大正四年の冬に発病した。その時は右肺の後下方に病変があるとのことであつた。約一ヶ月間本郷の下宿で静臥して、片瀬の相陽館に移り、冬を越して春になると、森ヶ崎の温泉に暫く滞在し、再び相陽館に引き返して、妻の郷里の家に寄寓し、九月までにすつかり健康を恢復してしまつた。始め片瀬に居た頃には、痰に血が混つて出たことさへあつて、相当に悲観したが、本来病気そのものが軽かつたのと、生来の楽天的な気持が手伝つて病を退治することが出来たのである。勿論その時分には、闘病などといふやうなことは考へても見なかつた。
 九月から私は研究室で仕事をはじめたが、体重も以前よりは二貫目も余計になり、少しの苦痛も感じなかつた。翌年の一月に肋膜炎様の病気に罹つて約一ヶ月病臥したが、それもけろりとなほつてしまひ、その冬、外国留学の官命を受けて身体検査をしてもらつたが、検査して下さつた三浦先生も完全に治癒して居ることを認めて下さつた。
 欧洲戦争中であつたので、私は最初アメリカに渡り、ボルチモアで寒いゝゝ(※1)が、少しも健康を損じなかつた。大正七年の一月から三月まで、ボルチモアに滞在し、それからニユーヨークに移つて、コーネル医科大学の研究室で血清学の研究に従事し、その年の十月、例のインフルエンザの世界的流行の際、同病に冒され、続いて肋膜炎の軽いのに罹つたが、ぢきに恢復してしまつた。さうして大正八年の六月英国に渡つたが、その年の冬たうとう再発させてしまつたのである。その顛末を認(したゝ)めたのが、次に掲げる「咯血記」である。これは帰朝の途上、賀茂丸で書いたものであつて、文章が頗るまづいけれども、今の自分には或は書けないかもしれない。

咯血記

 大正八年の六月から私は倫敦のミツドルセツクス・ホスピタルに附属してゐるブランド・サツトン病理学研究所にブラウニング教授を師として血清学の研究に従事した。
 夏の倫敦の樹々(きゞ)の美しさは、紐育から来たばかりの私の眼には異常に深い印象を与へた。然し其の樹々(きゞ)の緑が追々色を失つて倫敦名物の霧があらはるゝ頃は空気も湿り勝で、薄暗いやうな陰鬱な気分に鎖(とざ)さるゝことが屡々であつた。そんな時でも研究室は私にとりての唯一の楽園であつた。一緒に仕事をしてゐた谷口君と共に随分夜遅くまでも働くことがあつた。其の頃友達に逢ふと私の顔色(がんしよく)のよくないことを告げられた。私も十一月頃には何となく疲れたやうな気がしないでもなかつたけれど私は私の性質として、私の思ふ儘に働かねば已むことが出来なかつた。で、私は或は研究室に或は図書館に通つた。
 十二月中頃に教授の転任と共に私たちはグラスゴーに移つた。私の仕事は大凡(おほよ)そ片付いたので一週間程して私は倫敦に帰り谷口君のみグラスゴーに止(とゞま)つた。倫敦に帰つた私は身体の疲憊を覚えたので、倉皇行李(さうくわうかうり)を纏めてブライトンに転居した。ブライトンは英吉利(イギリス)海峡に面した美(うるは)しい避寒地である。此処に来た目的は一つには身体に休息を与ふる為、一つには私が企てた英国医学史、ことに第十七世紀の英国医学に関する論文を認(したゝ)めるためであつた。
 一たい其の国の現今の医学の状況を知るには其の国の医史を充分心得なくては、とんだ間違つた観察をするのであつて、今まで英国医学の日本にあまり珍重せられないのは、英国医学史に通ずるものゝ少いためであるといつてよい。それ故、私は英国には英国固有の学風があり、而も其の学風は非常にジミ(※2)ではあるが、余程健実なものであり、而して其の学風の濫觴はフランシス・ベーコンに発して居ることを紹介し、現今に至るまで一貫して其の学風が行はれてゐることを説きたいと考へたのである。
 大正九年の春を私はブライトンに迎へた。久しく海気(かいき)に接しなかつた私の喜びは大きかつた。大正四年の冬、私は病を得て大正五年の春を妻と共に片瀬の海岸に迎へたことを思つて、今の身の寂しさを妻に書き送つた。ところが私の身体は日に日に健かではなくなつて来た。ブライトンは雨が随分多くて而も中々寒かつた。然し私は大きな行李に一杯携へて来た英国医史の参考書を繙きつゝ、瓦斯火(がすび)に煖められた室で、ともかくも緊張した気分につかつて居た。
 血液循環を発見したハーヴエーの伝記や其の大発見の径路、乃至はシデナムの精細な、流水の如き疾病の記述を読んで私は訳もなく嬉しかつた。文豪フイールヂングがシデナムの Treatise on the Gout and Dropsy を愛読したのも尤もだと思はれた。実際この記述の精確で粗漏のないことは、後の人の誰人の記述も及ばぬと思はれる。後年アヂソンが副腎疾患に伴ふ病状を記述した手腕と共に英国の医学者の観察力の如何に鋭いかを賞せざるを得ない。ストークにしろブライト(※3)にしろ、何れも英国の名医に共通した性分を持つてゐる。
 この共通した性分には私はベーコンの大なる影響を疑ひ得ない。シデナムがベーコンの著書の愛読者であることを考へると、頗る面白いではないか。よしやベーコン自身は其の所説の実行に失敗したとはいへ、少くとも彼(か)のいふ所に道理はあつた。さうして英国医学の根本的精神をも醸成したのである。
 私は元来古い書物を漁ることが好きであつて、ブライトンに来てからもたえず土地の古本屋を訪れた。ある日デ・フオーの History of the plague を買つた。フイールヂングが The works of imagination may bare more absolute truth in them than histories, that we owe the fact that almost every child in England has heard of the great plague in London と賞讃したこの書は私の愛読書の一つとなつた。私はボツカチオのデカメロンを読んだ時如何に巧にペスト流行当時の惨状が書かれてあるかに驚嘆したのであるが、デ・フオーのこの書は尚更に凄惨の気を私の胸に充たしめた。私は今の医学者の疾病を記載する筆の如何に拙劣なるかを思はざるを得なかつた。有名なフランスの生理学者クロード・ベルナールが医者になる前に脚本を書いたことのあることを思ひ合すとき、もう少し今の医者に文学的素養のあつてほしいことを思つた。
 かうして私が私の書かうとするものゝために、種々の材料を読み漁つてゐる時分、私は毎朝咯痰の殖えて来るのを覚えた。時折は高い熱さへ出た。一月の末つかた用事があつて倫敦に出かけた日、雨のそぼふる陰鬱な寒い昼を私はあるレストランに葡萄酒の杯を傾けていゝ気持になつた。然し帰りがけの汽車の中では、常にない烈しい悪寒を覚え一二日静臥するのやむなきに至つた。私は私の持病の再発して来たことを自覚した。私は嘗て一度この病と戦つて来て居るので、そんなに悪くはなるまいと楽観して居たが、私が研究室で、乱暴に勉強したことなどを思い合せて私の企てた仕事は須らく放棄して、一意専心静養に心掛けるべく決心した。今から考へてみると、もう既に其の時は遅かつたのである。然し人力(じんりよく)の如何ともすることが出来ず、二月一杯好晴の日には陽の光に浴しつゝ海辺を散歩し(、)(※4)或はこの地に近いロツテンヂーンに化石を拾ひに行つたりして極めて安静な日送りをした。然し乍ら病勢は停止しなかつた。私にとりては無為に暮すことが、熱病に苦しむよりも苦痛であるから、その間私は主として探偵小説に読み耽つた。嘗て日本で読んだドイルのシヤーロツク・ホルムズはこの地で読むと尚更の感興を覚えた。其他オースチン・フリーマンのソーンダイク博士も主人公が法医学者であるが為に私の興味を惹いた。
 私は科学者が一つの問題を研究し、解決するのは探偵が一つの事件を解決すると同じ心持であると思ふ。私は勿論好奇心から読むのであるが、この点からでも探偵小説を愛読するのである。探偵が一つの事件を解決する真剣な心持が科学者にもなくてはならぬと私は考へたのである。
 二月の末に私は倫敦に帰つた。時に名物の霧が襲来してうら寒い日が多く、私の病気のよくなる筈がない。自分乍ら其の悪くなつて行くのに気附いて居たのであるが、如何ともすることが出来なかつた。
 三月の始めにグラスゴーの谷口君から不日倫敦に来る旨の通知があつた。それは同君が半年の労力の結晶を倫敦に開かれる病理学会の席上で報告するためである。三月の下旬谷口君は来た。何よりも先に私を訪ねてくれた谷口君の友情に咽んだ。同君は私の窶れた姿を見て少からず心配してくれた。
 丁度オツクスフオードとケンブリツヂ両大学の短艇競争が五年振りに行はれるといふ日であつた。自分はもう群集にまぢつて立騒ぐ元気もないので、谷口君と共に同君の学術報告を聞きに行つた。其処で恩師のブラウニング教授にも逢つた。谷口君の演説を無限の喜びを以て聞いた。其の日はポツリヽヽヽ(※5)雨が降つて居た。其場で谷口君と共に、これからグラスゴーで研究しようとする小児科の吉馴(よしなれ)君に逢ひ、其夜三人で晩餐を共にした。学術研究者が自分の仕事を纏めた喜びは丁度彫刻家が其の製作を完成したと同じ気持である。仕事の性量こそちがへ、其の喜びは限りない。ゲーテがフアウストを書き終つた時も、ヱールリツヒがサルヴアルサンを完成した時も、恐らくは同じ気持であつたに違ひない。私は谷口君の将来を祝福した。
 私は始めて肝油を試みた。オレンヂの搾り汁と合せて飲む時は少しも飲みにくいものではないことを知つた。けれども肝油も今の私の身を救ふことが出来なかつた。病は進んで行く傾向を示したが、予定通り私は巴里行きを決心した。
 私が荷物ヴイクトリア停車場に運ぶ前夜、咯痰の中に小さな血塊を発見した。私の病気が余程重くなつて来たことを自覚した。けれど、三月三十一日の美(うるは)しい倫敦の日和を跡にしてヴイクトリア停車場を出発した。
 船に弱い私は倫敦からドーヴアーに至る車内で Mothersill's sea sick remedy を呑んだ。嘗て太平洋を横断するときこの薬によつて船暈(ふなゑひ)を救はれたからである。然しこの日は珍しい静(しづか)な日で汽船には少しの動揺もなかつた。夜八時頃巴里に著(つ)(※6)くと、高等学校時代の同窓、名和君が迎へてくれた。そして大使館に近いオテル・アンテ ルナチ オナールに落ついた。
 名和君の案内で一通りの見物がすむと、私はルーヴル博物館に通ひ始めた。ダ・ヴンチの「モナ・リサ」や、ミレーの「晩鐘」など既に日本に居て親みのある画に接する楽しみは莫大であつた。ミロのヴイーナスもつくゞゝ(※7)と観た。ある時はまたロダンの博物館を訪ねてこの大天才の作品を多過ぎる程見ることが出来た。
 セーヌ河畔の古本屋台に古書や古画をあさるのも楽しいものゝ一つであつた。身体は益益悪くなつて行つたので夜は一切外出しなかつた。たゞ一度友と共にオペラに行つて荘厳な建築に驚かされた。ノートルダムの怪獣を仰ぎ其の内側に寂しい鉦(かね)の音を聞くのも其の時分私の心にふさはしいものゝ一つであつた。四月の巴里はまだうら寒い風が吹いて居た。雨も中々よく降つた。然し一雨毎にマロニヱの花の美(うるは)しさが増すやうに思はれた。
 凱旋門を中心として矢状に出て居る街頭の美(うるは)しさは、たとふるに物なき有様であつた。巴里へ来て四五日程経たある陰鬱な日に私は冷えゆく足を包んで何となくしめつぽい気持になつて、安楽椅子によりかゝつてゐる時、痰に紅いものが混つて出て来た。私は病がぐんぐん進んで行くことを知つた。食物を無理に多く摂り肝油を多量に服用しても、この病勢を防ぐことは出来なかつた。ある朝私がいつも寝る前に用意する石炭酸を入れたコツプが真紅(まつか)に染められたのを見たとき、自分は恐しい気持に襲はれた。然しこの血痰が一二日してやむと、私はまた友と共に或はパンテノンに文豪たちの墓をたづね或はルクサンブール公園を散歩したりした。
 然し血痰は再び出た。私は好きな葡萄酒をもやめることにした。然しそんなことは病勢に何の影響するところがなかつた。一日中室にのみ閉ぢこもることの苦痛な為に強ひて私は外出した。それが今から考へてみれば甚だ悪いのであつた。私はどうでも儘よといふやうな気持がないでもなかつた。行く所まで行きつかうといふやうな心持もあつた。然し近い将来に何事か自分の身に大破壊が来はせぬかといふ虞(おそ)れはたえずあつた。然しそれも何とか切り抜けられるだらうと楽天的な気になつてゐた。
 その頃私は同じホテルに止宿してゐるデリール氏夫人と親しく語るやうになつた。同夫人はパストール研究所に研究してゐたデリール氏の未亡人である。夫人はもう五十過ぎの老人であるが、科学者の気持を可なりよく了解し、文学や宗教に深い興味を持つた人であつた。同夫人は同じパストール研究所に研究してゐたメツチニコツフ氏の夫人、ヂユークロー氏の夫人と親交してゐた為め、故メツチニコツフ氏の噂など、私は大なる喜びを以て聴いた。生れは亜米利加であるが仏語にも堪能な人であつた。かのラフカヂオ・ハーンの全集を出版したマツクドーナルド氏と知己の関係上ハーンの噂も二人の会話に屡々出た。私はヂユークロー夫人の書いた「第二十世紀フランス作家」を同夫人から借りて読んだ。この書の中にはロマン・ローランを可なり手厳しく非難してあつた。
 私は又夫人の紹介によつて今パストール研究所にメツチニコツフ氏の跡を継いだベスントカ氏に其の研究室で面会した。飾り気のない同氏を私は忽ち好きになつた。同氏の室(へや)はメツチニコツフ氏の居た室(へや)で、こゝよりかの喰細胞説や不老長寿説が生み出されたかと思ふと至つて感興が深かつた。書棚の中には氏の著「人生論」の日本訳もあつた。又其の前にはメツチニコツフ氏夫人が手づから彫(きざ)んだ故メツチニコツフ氏の胸像が二個並べられてあつた。メツチニコツフ氏夫人は油絵にも極めて堪能であつた。近くまた La Vie de Elie Metchnikoff'' が同じ夫人の手で出版せられた。夫人は露西亜の貴族の娘で、金があり次第他人に施し尽して今は極めて貧しい生活をしてゐるとの事であつた。
 ベスレトカ氏は私に研究に着手しては如何かといつてくれた。然し私は私の健康を思ひ、心の中で泣きながら断つた。同氏の夫人が氏を了解することが出来ないで離縁となつたことを他から聞いて、私は同氏に蔭ながら心から同情した。
 私はデリール夫人と共にロダンの博物館を訪ふ筈であつたのが、追々私の健康が害(そこな)はれて行くので、つい其の約束を果すことが出来なかつた。
 四月の末つかた血痰は屡々私を驚かした。ある夜大連病院長の尾見博士と食卓で語つて居た時、はげしい咳嗽(せき)が私を襲つた。それは右の胸から音を立てゝ出るので、間違ひもなく咯血であることを自覚した。然し私は其の血を呑んで我慢した。其の翌日の昼食後デリール夫人と語つて居る時も同じ様な出血があつた。私は少し恐しくなつて室(へや)に帰つて静(しづか)に暮した。其の夜血痰は頻々と出るので其の翌日同宿の及能博士に相談したら「静(しづか)にして居なくては」との事に、断然当分の内室(へや)に閉ぢこもることに決心した。
 及能氏に処方して貰つた薬剤を服しつゝ、私は床の上に横はり勝になつてゐた。三四日過ぎてから血痰は出なくなつたが、なほ無理に静養に心懸けた。私は海岸なり瑞西(スエツル)へなり転地しようと思つたが、今となつては動くのは危険であることを知つて、名和君などとも相談して先づゝゝ(※8)ホテルに滞在することにした。
 かうしてゐる間に私はドストエフスキーの「罪と罰」を読んだ。私はある夜床(とこ)に横はりつゝ之を読んで居たが、何だか血でも咯(は)きさうな気になつたので中止したほど、この北欧の巨匠の筆の力に魅せられた。
 尾見博士と京大の島博士とは度々自分の病床を訪れて、色々の本を貸してくれたり又ある時は美(うるは)しい花を持つて来たりしてくれた。かういふ時の深切は一生涯忘れ得るものでない。私は常に常に感謝してゐる。
 それは丁度五月十三日の午後であつた。街には騒々しい自動車の音も懶(ものう)く、空も曇り勝であつたので、私は昼食後床(とこ)の上に横(よこたは)りつゝいつとはなしに微睡に落ちた。不図眼をさますと私は咽喉に液のたまつて居るのを覚え、それと同時に胸の奥がはしかゆい様な感じのするのに気附いた。其の瞬間私は「やられた」と思つた。床(とこ)の上に起きなほると果して胸はゴロヽヽ(※9)と音を立て、けたゝましい咳嗽(せき)の音となつた。私はとりあへず机のそばに寄り、机の上に新聞紙を敷いて其の上に赤いものを咯(は)いた。
 一分二分血は間断なく迸つた。凡そ百グラム程出たゞらう。私はとりあへず薬瓶を執つて薬をあふつた。異常な咳音(せきおと)をきいてかけつけた部屋番に私は紙上の血を見せる勇気はなかつた。併し幸に一時血は止つた。部屋番に用はないからと去らしめた後直ちにベツドに半身を起して寄りかゝつた。夕方まで失神したものゝ様にボンヤリとして静臥した。変を聞いてやつて来てくれた及能氏に咯血の顛末を語つた。同氏の表情は変つた。
 夕食にはたゞ少量のものを取り入れただけで、私はヂツト身動きもしないで半身の状態を続けた。どうなることであらう、今夜は果して眠れるであらうか。かう思つて私は常にない不安の念に駆られて了つた。
 もし出血が身体の外表にあるならば、忽ち止血することが出来るが、何分内部のことであり、それは明かに右肺の下方からであることが本人にわかつてゐても、何ともすることが出来ない。而も外表なれば絶対安静も可能であるが、何分肺は一刻として休息しないからたゞもう出来得る限り静かにして、自然の成行(なりゆき)に任せるより外はないといふことを自覚した私は、ことによつたら今度はまいつて了ふかもしれぬと覚悟した。
 外傷性の出血ならばよしや一時多量の血液を失つても、比較的短い時間に回復が出来る。之に反して私の場合では、たとひ血を咯(は)いても一方破壊の力は之が為は阻止せらるゝものではなくて益々その魔の手を揮はしむる助けとなるを思ふと、私の今の身体が何だか呪ひたくもあつた。医学がかゝる場合、如何に権威のないものであるかを今更ながら泌々(しみゞゝ)と感ずると同時に、自然の防禦力に頼る心は益々大きくなつて来た。何とはなしに父の遺訓などが思ひ出された。「困つた時には念仏を申せ」といつた父の言葉が、ありゝゝ(※10)と耳の底に浮んで来た。私は心から南無阿弥陀仏を唱へた。
 父の在世の時分には、よく私の田舎の家で僧侶を聘して説教の座本(ざもと)をしたのであつた。時折やつて来る坊さんにNといふ顔の青白い人があつた。別に説教が秀でゝ巧みであるといふではないが、頗る気立てのよい人であつた。
 何でも村で丁度祭礼のある時分、即ち秋の彼岸が過ぎて間もない時のことであつた。丁度N氏が私の家(うち)で説教を終へて、私と座敷で物語りをしつゝあつた時、私は宮の祭りの騒ぎを見に行かうではありませんかとN氏を誘つた。何でもあまり晴れては居ない日で、N氏の顔は常より蒼白く見えた。丁度私が先へ立つて出かけやうとすると、N氏はけたゝましい咳嗽(せき)をしたかと思ふと、どす黒い血の塊を口一ぱいに自分の前にある煙草盆の灰ふきの中に咯(は)きこんだ。すると其の余沫は附近の畳の上に彼処此処(かしこここ)に転々と散つた。私はぞつとした。そしてN氏の顔を見た時、N氏は物凄い笑みを洩して私をみつめて居た。而もN氏は私と共に祭見物に出かけやうとする様子が見えたので、私は慌てゝ之を制した。そして絶対に安静にせねばならぬ旨を告げると、N氏は「さうですか」といつた儘、其の寂しい顔にやはり一種の物凄い笑(ゑみ)を浮べて居た。不図私が眼をさますと私自身の胸に異常のあるのを覚えた。私は何時の間にか睡(ねむ)つて居たのだ。さうしてN氏のことは一場(ぢやう)の夢でN氏の咯血は自分自身の咯血であつた。はつと気がつくと果して咯血が始つて、コツプに約七〇瓦(グラム)余をはいた。時計を見たら丁度午前三時であつた。もう私は眠ることが出来なかつた。枕頭(まくらもと)の電燈の弱い光は一層室内を陰鬱ならしめた。世間は今熟睡の最中である。この時程夜の明けるの早からむことを祈つたことは嘗てなかつた。
 私は枕頭(まくらもと)のコツプの血を部屋番や、食事を運ぶ給仕女に見せたくはなかつたので、静かに床(とこ)を離れて、隣りの洗面所に行つてコツプの内容を捨てた。半ば凝固して血は容易に流れ落ちないので、私は指でつゝき崩して之を落した。鏡に映つた私の顔は電燈の光の下(もと)にまさしく重病人の容貌を示していた。
 愈よ私には病気と戦ふ時が来たのだ。私は病気が一定の頂点に達する迄は、何物も之を阻(さまた)げることの出来ぬものであることを信じて居た。然し、この度の病気が何処を頂点とするのであるかを思ふとき、不安の念は益々深くなつて来た。
 朝食に与へられた二個の卵と牛乳とを私は無理に取つた。朝食後銀行へ行つて貰ふ筈の尾見博士が来てくれた。私が昨日(さくじつ)の午後以来のことを語つた時、又もや胸の奥が擽(くすぐ)つたくなつた。血を吐く間同博士に室外へ出て貰つた。その時の血液の量は三十瓦(グラム)程であつた。
 私がこの頃中室(へや)に籠つて居た間、たえず話しに来て慰めてくれたデリール夫人が来てくれた。然し私は「今日(こんにち)は貴女と御話しすることが出来ない」と手を振つた。夫人は悲しさうに室(へや)を去つた。其のあとで私は又々大咯血をした。
 床(とこ)に半身を起し、柄のついたコツプを左手にさゝへて、胸の奥から突き出されて来る血を辛うじて受けとめた。血は鼻の孔からも迸り出た。泡沫は壁にも床(とこ)の上にも飛んだ。見るゝゝ(※11)百五十瓦(グラム)余を充すコツプに血は其の表面までたまつた。私は紅い塊をヂツと見つめ乍ら、今に貧血の為に気を失ふのではあるまいかと思つてゐると、反対に精神は冴えて来た。血の出るにもやはり限りがある。引きりなしに出たならば助からぬ訳だが、其処に又、自然の妙がある。たとひ大なる血管が破裂したにしろ、必ず終止がなくてはならないと私は考へた。然し其の破裂の恢復する前に、私は斃れるかも知れない。
 従来私は兎やモルモツトの血を随分採つたので、血を見ての恐怖心は少なかつた。今迄動物を苦しめた罰(ばち)で自分が血を咯(は)くのかもしれないと考へたりした。死の手はどんな工合に私を攻撃して来るのであらうかとも考へた。死そのものに対する心は定まつたにしても、其の死に到るまでのこれからの出来事を思ふと何となく、不安の念がいやまさつて行く。
 正午に及能氏が来て塩を頬張るべくすゝめてくれた。然し多量の塩は私の胃の粘膜を刺戟して、牛乳と共に吐いて了つた。島博士も見舞に来てくれた。尾見博士はコツプよりもこの方がよいといつて陶器製の大なる水さしを呉れた。
 午後又同じやうな咯血があつた。島博士の来合せてゐる時であつた。「咯(は)き給へ、咯(は)き給へ」といつてくれた。さうだ、若し私が医学を修めたものでなかつたら、私は私の咯(は)く血を毒血(どくち)と考へ、之を咯(は)き出すことによつて身体を清浄にし得ると考へたでもあらう。然し私はさう考へる余裕を持ち合せなかつた。失つた血を恢復するに要する日時を思つてゾツとした。
 病勢の険悪なるを知り、及能氏は尾見博士と相談してくれた。さうしてこの地の医師ブラン氏を招くことゝした。明日午前に行くとの事であつた。この医者は及能氏の知人であるが為に何かと都合がよいと思つた。
 私が英国にゐる時分懇意にして居た看護婦が、其の頃巴里見物に来たいといふ事であつたのを、私が先日来の消息をこの大惨劇の起る前に書き送つたら、看護の為に行かうといつて来て、明日の晩に到着することゝなつて居た。
 夜にかけて又咯血があつた。其の夜遅くまで尾見博士は私の傍(そば)について居てくれた。夜番の男も時々見廻つてくれて、不安な夜も出血の為に多少ボーツとして、兎も角明けて了つた。午前ブラン氏が来て診察してくれた。及能氏と相談してモルヒネを注射することになり、及能氏はすぐ一筒を注射してくれた。ブラン氏が診察を終へて、及能氏の室(へや)で今後の処置について相談して居るとき又一度大なる咯血があつた。部屋番を呼んで二人に来(※12)貰つた。然し何ともする術のありやうがない。
 午後モルヒネの為にボンヤリした気持になつて居る時、マツソンといふ男が吸角をかけに来てくれた。胸の前後に十数個の吸角をあてゝ血を外方に吸ひ寄せようとするのである。その時大使館の蘆田書記官が見舞に来てくれた。私は薬剤の為、何となく朦朧とした気持で同氏の深切なる申出を聞いた。私は心から感謝した。
 夜の九時に看護婦は来た。帳場で重患であると聞き又部屋番からは「もう長くはあるまい」と聞いて、薄暗い電燈の光の下(もと)に横はつた私の顔がこの世のものとも見えぬ姿で一瞬間はガツカリする程驚いたと、あとで看護婦は語つてゐた。
 実際及能氏自身も、どうなるか不安であつたさうである。私の為に非常に心配してくれて、同氏の友人は同氏に忠告する程、私の為に神経質になつて居てくれたさうである。実際今迄に約二リツトルばかりの血を咯(は)いて、この先どうなるかわからず、脈搏の段々弱り行くのを触れた及能氏は若しやのことを気づかつて、私の親友名和君が丁度十二日に独逸に出発したのに警告の電報をさへ発してくれたさうである。
 モルヒネのためであつたか、其の晩は不思議に事なく暮れた。然し翌日からは高い熱が私を見舞つた。恐らくは肺の中へ出た血液を吸収すべき吸収熱であるかもしれない、又は本来の病気のためかも知れない。手足は何となく水分を失つて、柔かく弛んで触れる。かくして絶対安静の幕は開かれたのである。気力も体力も衰へた身は悄然として白色の敷布に包まれた。この身が勝つか、病が勝つか。静かな床の上には自然の力と病気の力との不断の闘争が始つた。
 モルヒネの注射とヱメチンの注射と内服薬としてはモルヒネ剤とカルシウム剤との混合物を取り、右胸の前後に氷嚢を置き、時折吸角を当てること、談話を絶対に禁ずることなどが、差し当りの処置であつた。食物は初めミルクの外何物も与へられなかつた。
 濃厚な血痰が引き続いて出た。但し咯血はなくなつた。時折胸がはしがゆくなる時は私は呼吸の出来ぬ程、強く胸を抑へて貰つた。看護婦を呼ぶ合図として、私は舌鼓を用ひた。医者は毎日来てくれた。さうしてヘモスチールを飲むことも勧められた。これは貧血にした馬の血精である。十瓦(グラム)の血清をおいしく私は飲んだ。こんな時には私は縞蛇の生肝(いきぎも)でも何でも取ることが出来たであらう。
 外には引き切りなしに自動車の音が聞えてゐた。窓より見る街頭の樹の緑は日一日と濃厚になつて行つた。白雲の形を見つめたり、小鳥の囀りを聞いたりして、私は考へるともなしに色々のとり止めない念に耽つてゐた。私は今生死の境を彷徨して居るのである。モルヒネが今、私の胸に休息を与へてゐるので、其のモルヒネの力が及ばなくなつたら私は再度死に瀕せねばならぬのだ。
 モルヒネの与ふる快感を私は生れて始めて経験した。不安の念は之によつて完全に除かれて了つた。私は毎夜何の懸命(けねん)(※13)もなく眠りに就くことが出来た。私はことによるとモルフイニズムにかゝるかもしれないと思つた。こんな時には一層のことモルフイニズムにかゝつて一生涯をユーフオリーの中に過して見ようかとも思つたりした。然しモルヒネを取つてから二三日目に私は左の脚、ことに其の膝関節(しつくわんせつ)に痛いやうでもあり、又つツぱつたやうでもある、一種異様の感じを覚え始めた。私は或は脚を屈したり伸したり其の位置を変へてみたりした。然しその厭な気持は去らなかつた。或時は脚を切つて捨てたいとも思つた。或はモルヒネのために之を感ずるのかもしれぬと思つた。然しその感じも一日ばかりして去つた。モルヒネの為に起さるゝ便秘は灌腸によつて調節された。
 日一日に血痰は少なくなるやうであつた。熱も三十八度位に降下した。少しづゝ気持もよくなるとミルクの外にスープも許された。又果物の汁も試みた。然し身体は益々其の重量を減ずるばかりであつた。咯血してから十日ばかりの後には先づ先づ一命はとりとめたと自分に感じた。まだ自分は死ぬのではないと信じ始めた。然し絶対安静(無念無想)の境地に入るには、あまりに自分は罪が深いかもしれない。恐らくまだ浮世の苦しみが足らぬのであらうと思つた。
 然しこんなに痩せ衰へた身体が、果して恢復するだらうかと考へた時、何となく心細い感じがした。自分はもう廃物となつたのかもしれない。この儘病床から離れ得ず一張一弛の病勢のうちに遂には身体の全勢力を消耗してしまふのかもしれぬ。かう考へると如何にも生の味気なさを覚えた。私はまだなすべき仕事を沢山に持つてゐる。私はそれ等の仕事を完成せねばならない。若し神が私の死を阻(さまた)げてくれたのならば、神は更に私をして再度床(とこ)を離れしめ働かしむるであらうと信じ始めた。
 嘗て同じ病を得て湘南の地に遊んだとき、私は健康の如何に尊いものなるかを知つた。其の念は今益々膨張せしめられた。私は私の企てた仕事を完成するまへに、この健康を取り返へさねばならない。従つて私は人一倍の仕事をせねばならぬ。何も奮闘だ、心静かに待たう。来(きた)るべき日を待たうと決心した。
 其頃丁度東北大学の藤田教授が私を訪ねてくれることになつて居た。無論同氏は私の病気のことは知らなかつた。そして私のホテルに来て同氏は少からず驚いたのであつた。氏は近く帰朝するとのことに、私は氏に私の家族を訪ねて状況を語つて貰ふこと及び送金して貰ふことを依頼した。然し同時に私は妻に委細を書き送つた。
 四月の末のことであつた。巴里に滞留して居たKといふ陸軍少佐が齲歯(むしば)を抜いてから肺炎を発し一週間たゝずして亡くなつた。ホテルの同志のものが集(あつま)つて弔辞の話などが出た時、友人の名和君は私に向つて戯れに、君が死んだら僕が弔辞を書くよと笑つた。それから間もなく私はこの大病にかゝつた。名和君の言葉が自分の運命を予言したやうに心細く感じた。
 妻には極めて簡単に報告した。尤も長い手紙を書く元気はなく、又許されても居なかつた。私はとても無事に帰朝することなどは不可能だと思つた。覚悟をする様にと戒めて置いた。死んで行く身よりも、跡に残るものゝ苦痛の大なることを思つても、今の場合私はさう書くより外はなかつたのである。
 医師は船のあり次第日本に帰へるのが最上の策だといつた。然し船は今日(こんにち)申込んで今日(こんにち)取れるものでもなく、殊にその頃は船客が輻湊して、半年も前に申込んでやつと取れる程度のものであることを聞いてゐた。又外国船で自分一人傷けられた身体を運ぶのも如何にも心細かつた。それは兎も角先づ脚が立つ様にならなければならない。僅かな牛乳やスープを取つてゐては、一たい何時(いつ)になつたら少しづゝ歩けるやうになるかと心細い感じがした。
 痰に紅い色が尠くなると、私は私の好きな果物をたべた。果物は私の唯一の味方である。バナナ、桃、イチゴ、アンズ、それ等の旨い汁を私は心から喜んだ。ある時は少し便が柔らかくなり過ぎる程取つたりした。然しその果物といへども立どころに私の健康を恢復することの出来るものでない。
 丁度五月二十三日頃だと思つた。私は看護婦に支へられてベツトのわきに立つて見た。私は一分間も自分を支へることが出来ないのに少からず驚いた。鏡に映つた顔の色の、われながら憐れなる有様よ。どうして、どうして、恢復の望を託すべき寸毫の表情も持つて居ない様な気がした。脚の筋肉はつツぱつた様で自分の身体とも思へなかつた。
 然し五月の末頃から私は終日床(とこ)に横はるの倦怠を消すべく少しづゝ読書し始めた。然しどの書を読んでも長く続ける元気がない。そしてとりとめのない空想に耽つたり、或はたまゝゝ(※14)筆を取つて感じたことをノートに書いたりした。それも長く続く筈がなかつた。
 五月の末には私は看護婦に支へられつゝ、室内を歩いてみるまでになつた。便所へも辛うじて行くことが出来た。然しそれは今から考へて見ると少し早過ぎたのである。言ひ換れば少し無理をしたのである。
 六月に入つて四五日目のある朝、少しばかりの血が迸り出た。然し少量ではあつたが私の驚きは極めて大きかつた。再び無理にも絶対安静をせねばならぬこと、この出血が或は死に導く緒(いとぐち)であるかもしれぬことを思つて少なからず落胆した。取敢へず氷で胸を冷しにかゝつたのであるが、私の心の中(うち)は少なからず騒いで居た。及能氏が来てくれて話しして居るときにも少量迸り出た。ブラン氏も早速駆つけて来てくれたが、別になす術とてはなく、たゞ成行きに任すより外なかつた。出血は少量ではあるが、翌日も其の翌日も続いた。少し血圧を高めるやうな動作、たとへば放尿の際にも少量の出血があつた。それ故小便すらもなるべくこらへる様になり、ある時は小便がしたくなつて尿器を当てゝから余程の時間出て来ないことさへあつた。
 倫敦から来て居た看護婦が家事の都合で、帰へらねばならなかつたので、この地の看護婦を雇ふことになつた。この女の注射の仕方が上手でないので、度々ヱメチンの皮内注射をされて、その都度痛い思ひをすると同時に、余程たつてから瘢痕が残つたりした。あゝまた流動食だ。ある日私の取り入れる食物のカロリー量を計算して見たら七百カロリーばかりよりなかつた。これではやつと身体を維持するに足る位のものだ。私は暗黒な方面を考へずには居られなかつた。
 熱は依然として午後になるも高い。熱の高くなる時に感ずる不快の感は、咯血をする時の気持に比すれば何でもなかつた。この度の小咯血ははじめ四五日毎にあつて、後二日目位に出てかれこれ十日あまりに跨つた。然し前の様な大咯血はなかつた。
 巴里の夏は幸にして暑くならなかつた。それでも私の消費した氷の量は夥しかつた。ことに血の出るときなど又は少し話して咳嗽(せき)の出るときなど、氷は何より楽(たのし)みであつた。病人と氷、さうだ、凡て氷は大病の時の唯一の良薬である。
 然し二度目の変動も兎も角また治まつた。日一日私の食物の量は増された。脚などの痩せ細つたこと! 生れて始めて大患を異郷の地でする心持は哀れなものであつた。私は寝ながら万年筆を執つて感想を書いたり、歌を作つたりした。とても六ヶ敷い哲学的の考察などの出来る筈がない、が唯一の楽しみは倫敦から送つて貰つた探偵小説を読むことであつた。
 島教授は日に一度は必ず見舞つてくれた。旅に病む者にとつてのこの深切は如何程大きいかしれない。なつかしい人の顔を見るだけでも、どれ程の楽しみかしれない。それと同時にデリール夫人も必ず毎日病床を見舞つてくれた。薔薇やスヰートピーの花が同夫人の手で病室から絶えたことはなかつた。感じ易くなつてゐる私の神経は少し緊張した話にも涙を誘つた。
 六月中旬デリール夫人の発起で故メツチニコツフ氏夫人、故デユークロー氏夫人のために茶(チー)のパーチーがこのホテルで催された。予てから私も招かれて居たが、どうしてなかなかそれに出席し得るどころではなかつた。丁度当日デリール夫人の紹介で上記の二夫人が私の病室を見舞つてくれた。私は限りなき喜びを感じた。内気な飾らないメツチニコツフ氏夫人、勝気な鋭い眼光をしたヂユークロー氏夫人、私は故メツチニコツフ氏を予てから敬慕して居たが、その夫人と逢ふことは私の大なる満足であつた。ヂユークロー氏夫人は今のパストール研究所長のルー氏の例を引いて私を慰めてくれた。
 あのきかぬ気のルー氏が三十年来、時々咯血で苦しんで居ることは兼(かね)てよりデリール夫人に聞いて知つて居た。さうだ、自分も此後の摂養によつては長らく生きることが出来るであらう。同病相憐むと昔の人は云つた。かうした例を聞くと、其の度毎に力づくのが病む者の心理である。
 出血もなくなり元気も恢復すると同時に、普通の食事も許されるやうになつた。外国で病んだものゝ痛切に感ずることは西洋食の口に合はぬことである。嘗て亜米利加で流行性感冒に罹つたとき、食慾には別段異常はなかつたのであるが、友によつて運ばれる日本弁当を毎夜待ちこがれたものであつた。もう彼れ此れ二年半あまり西洋食に馴れて居るにも拘らず少し熱のある時などには、たゞもう日本食が思ひ出されて仕様がなかつた。米の味(、)(※15)味噌の香(にほひ)、さうしたものが欲しかつた。あるときは酢もみなどのあつさりしたものもほしいと思つた。せめて醤油の味でもと思つて倫敦から取り寄せてビフステーキなどにかけて食べたのである。少しいやなにほひのある羊の肉などは絶対に口にする勇気がなかつた。せいゞゝ(※16)あつさりした魚肉かビフステーキか、犢(こうし)の肉位を無理に口に押し込んだのである。日本人はやはり日本で病むのが一番よい。たゞ命の綱ともたのむものは果物ばかりである。これはどこで食べても本来の味があるから嬉しい。人間が果物ばかりで生きて行ける工夫はないかしらと考へたりした。
 私が二度目の咯血で苦しんで居る時分友人の好本(よしもと)君がグラスゴーに居る谷口君のことづけを伝へ旁々(かたゞゝ)見舞つてくれた。其の時の私は到底回復の出来さうもない顔つきをしてゐたさうである。同君が瑞西(スヰツル)へ行くといふので瑞西(スヰツル)の友人に伝言をして貰つたが、それらの友人からは色々厚い同情をこめた手紙をくれた。七月のはじめに巴里に帰つた好本君は私が余程回復して居るのを喜んでくれた。そして同君が一週間程滞在して居る間に、私はベツドをはなれ、洋服を着(つけ)てホテル内を散歩し、ついで好本君と共に街路に出て見るまでになつた。過去を顧みるとまるで夢のやうである。
 二ヶ月の間に巴里の景色も大ぶ変遷した。もゆるやうな緑がもうはや黄ばみかけてゐた。マロニエの花を盛り飾つた木にも衰頽の色は満ちて居た。自分は今衰頽のどん底にあるのだ。然し街頭の樹々には一陽来復の時節がある。自分にもこの時節がなくてはならない。
 少しの運動によつても呼吸と脈搏の数(すう)は異様に殖えて来る。従来歩くことの好きな私は脚に疲労は感じないが呼吸の促迫には非常に困つた。生れて始めての経験である。徳川時代に生れたらためし斬にされる位の身体であらう。それでも樹蔭(こかげ)のベンチに腰かけて芝生の色と紅白の花を眺めることの出来るやうになつたことは蔽ひ切れぬ喜びを私に与へた。
 予ての医師の勧告によつて愈よ私はボルドーを去る六十余哩(まいる)の大西洋岸のアルカシヨンに転地することにした。咯血の幕は煙霞療養の幕に移る訳である。
   大正九年十月      賀茂丸にて   不木生


 以上の「咯血記」を読まれた方は、その後私がどういふ径路をとつて、現在の状態に立ち至つたかを知りたく思はれるであらう。それ故私のその後の経過を簡単に書き加へることにした。
 パリーから夜汽車で看護婦と共にアルカシヨンに運ばれた私は、直ちに、あるホテルに落ついて、それから毎日海岸に出ては新鮮な空気を吸つた。朝の咯痰は五十グラム以上にのぼり、かなりに息切れがはげしかつた。然し、ベツドに横はつて居ては所詮歩けなくなるだらうと思つて私は、つとめて散歩するやうにした。初夏の、焼きつける陽の光をあびて、時には二十町ぐらゐあるところまで、小山の道を歩いたこともあつた。さうして、兎にも角にも二ヶ月暮して、九月の下旬にパリーに引きかへし、マルセーユから賀茂丸に乗りこんで帰朝の途についたのである。賀茂丸の船医から、結核患者に汽船は悪いといふことをきかされて、可なりに気味が悪かつたが、幸ひに船中一度も発熱も咯血もしないで大正九年十一月六日、無事神戸に上陸した。然し友人たちは私の顔色のよくないことを認めて、しきりに静養することをすゝめたので、一先づ妻の止宿して居た名古屋の家(うち)に落つき(、)(※17)十二月の始めに上京し、都合によつては仙台へ行かうと思つたのであるが、碓居先生に診察してもらつた結果、右肺全部が冒されて居るから、仙台の大学へ挨拶に行くことも断然やめて、郷里の田舎で静養したまへとのことであつた。で、そのまゝ引き返して妻子と共に妻の家に寄寓することになつたのである。
 ところが一月頃になると、寒さがきびしくなつて、時々血痰が出るばかりでなく発熱さへしたので、私は症状の悪化したことを悟つた。然し如何ともすることが出来ずそのまゝ床(とこ)に就き勝(がち)にして居ると、二月の半ばに、右肺及び左肺に激烈な疼痛を覚え、三十九度以上の熱を発した。ことによると粟粒結核にでもなつたのではないかと思つて、名古屋から松波先生に来て頂いて診てもらふと、インフルエンザ肺炎であるから、酸素吸入の用意をして置けとの事であつた。インフルエンザ肺炎になれば、軽い結核でも重(おもく)なるといふやうなことを耳にして居たので、少なからず悲観したが、出来るだけ闘つて見ようと思つて居ると、二月二十四日の晩突然心臓衰弱を来して危篤に陥つた。神戸や東京の友人その他に電報を発したので、神戸の親友田村博士は、死んだことだらうと思つて駆けつけて来てくれた。然し私は看護婦を指揮してカンフル注射をなさしめ、酸素吸入をし、なほ松波先生に食塩水注射をしてもらふと、幸ひに心臓の衰弱は恢復して小康を得(え)三月上旬にはインフルエンザ肺炎は去つた。ところが結核の熱は相変らず続いて、身体の衰弱が甚だしかつたから、病床をはなれることが出来ず、仰臥して四月に入つたが、四月の下旬になつて、突然、パリーの時ほどの咯血が始まつた。咯血は四五日続いたが、再び恢復することが出来た。けれど、仰臥の癖がついてしまつて、起き上るのも怖いやうになり、それに、友人や先輩が絶対安静をしきりに勧めるので、はからずも床(とこ)の上で暮すやうなことになつてしまつた。然し私は、何と言はれても読書を廃することは出来なかつた。又、何となく、物を書いて見たい慾望に駆られた。で、私は六月になつて、「学者気質(かたぎ)」なる随筆を毎日一章づつ、鉛筆で手帳に書きこむことにしたのである。別に何処へ発表するといふあてもなかつたのであるが、八月の末になつて、偶然東京日々新聞社の久保田氏から、私が東北大学に在職中であると思つて、三十回ばかりの読物を書かないかといふ手紙が来た。そこで、私は「学者気質」のことを言つてやると、早速掲載するといふ返事が来たので、私は床(とこ)の上に起き上り、妻に手伝つてもらつて清書したのである。
 「学者気質」は九月上旬から東日、大毎両新聞に掲載されたが、その頃から妻が発熱して松波先生に診てもらふと、腸チブスとの事であつたので、すぐ様入院させ、私は無理に起き上つて、妻の弟と二人で暮した。その間私は読書をしたり、執筆したりしたが、十一月に入つて少量の咯血をしたので再び床(とこ)につくことになり、翌年の四月まで、看護婦を雇ひ、冬の寒いうちを病床の中(うち)で過すの余儀なきに至つた。
 そのころ、私は雑誌「内観」に「闘病術」なる題目で、仰臥しながら毎月(げつ)筆を執つたのであるが、その内容は、今の闘病術とはよほどちがつたものであつた。安静といふことを唯一の肺病療養法であるやうに書いたものである。実際その頃は自分が安静を行ひつゝあつたのであるし、安静にして居ても、別にその日の生活に困る訳でもなかつたから、安きに就いたのに外ならなかつた。
 其頃には妻もチブスから恢復して帰り、自分も床(とこ)の上に起き上るやうになつた。私の恩師永井潜先生は、私の病気を心配して大阪の精常院長別所彰善先生を紹介するから、是非診て貰つてはどうかといふ手紙を下さつたので、私は恩師の御深切に咽びつゝ、別所先生の診察を請うた。別所先生は私が「内観」に発表した「闘病術」を読んで居られて、頗る物足りなく感ぜられたことを話され、積極的な迎苦的な養生を切に勧められた。そのとき私ははじめて、私の知己を見出したやうな気がしたのである。私の友人たちは、私の文章が新聞紙に発表されたのを読んで、まだ執筆するのは早いではないか、もつと静かにして居なくてはならないといふ手紙を送つて来て、頗る不愉快な思(おもひ)をさせられて居た矢先であるから、別所先生の所説は私の心にぴつたりはまることが出来、その時から私は、今の「闘病術」に考へ及ぶに至つたのである。
 別所先生は「精常」といふことを説かれるのであるが、精は精力主義の精、常は常識の常であつて、何事も常識によつて判断しつゝ精力主義で病に処するといふ意味で、この「精常」の教(をしへ)によつて、難病から救はれた患者は無数にある。詰り、私も精常の教(をしへ)によつて救はれた一人であるといつてよい。私は茲に別所先生に切に感謝の意を表する次第である。
 大正十一年の六月頃から私は床(とこ)を離れて、好きな読書と執筆に携つた。さうして漸次体重を増加して行つた。然し朝の咯痰は依然として多かつた。時々血痰が出たけれども一度も臥床しなかつた。体温はもう決してはからなかつた、時々、別所先生が診察に来て下さつて病気が軽快して行くことを認めて喜んで下さつた。
 その年も暮れて大正十二年となり、八月には有馬温泉へ行くつもりであつたが、子供が病気して愛知医大病院へ入つたので、私は名古屋へ一二度見舞ひに出た。それ程私の健康は恢復したのである。有馬行きは自然御流れになり九月に入つた。一日(じつ)には関東大地震があり、二三日後大東京の惨状が報ぜられてびつくりした。五日には雷雨があつてむしあつい日であつたが、その日子供が腸をいためたので、灌腸をしてやるとて子供をだき上げると、その途端に胸がはしがゆくなつて、なまぬるいものが咽喉(のど)にこみ上げて来た。いふ迄もなく(かく)(※18)血である。
 全く何の予感も変調もなく咯血は起つた。その日は十グラムぐらゐ咯(は)いただけであるが、翌々日突然大咯血が起つた。それは文字通りの大咯血であつた。一度に約半リツトルぐらゐ咯(は)いた。さうしたことが、凡そ四五度続いた。さすがに、私は閉口してしまつた。色々薬剤を試みたけれどさつぱり駄目であつた。然し私は、自分の意識さへしつかりして居たならば、決して瞑目するものではないと信じて居たので、フランスの時よりも気が楽であつた。関東の大震災で苦難を受けた人のことを思へば自分の体内に起つた地震ぐらゐ何でもないと思つた。医師は、これだけの大咯血によく心臓がたへたものだと驚嘆した。
 約十日間血痰が出て九月中旬に血痰はとまつた。医師は流動食をすゝめたけれども、私は一日も早く起き上りたいと思つたので、つとめて固形食をとつた。さうして十月の二十日頃には床(とこ)から起き上つて書見するまでになつたのである。
 夏頃から、名古屋の東郊御器所に自分の設計した家が建築されつゝあつて、その頃漸く竣功したので、私は十月二十九日に新宅に移住し、それより今日(こんにち)まで約二ヶ年半余り、一度も原病のために床(とこ)に就くことなしに暮して来たのである。
 朝の咯痰は相変らず止まない。聴診器できいてもらふと、右肺全体に可なりにはげしい病変があるらしいが、自分の生活にはさしたる支障を感じないで、好きな読書と執筆とに日を送つて居るのである。
 これから以後、死ぬまで私は難病と闘はねばならぬと覚悟をして居る。私の「闘病術」は以上の病歴の間に思索して得た結果であるが、今後、ながい間闘つた後には、今の「闘病術」を更に書きかへねばならぬ時節が来るかも知れない。
 それ故私は読者に向つて、決して私の言を鵜呑みにしないで、静かに考へた後、実行するに価(あたひ)すると思はれたことがあつたならば実行してほしいと思ふのである。

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文圏点。
(※3)原文ママ。
(※4)原文句読点なし。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文ママ。
(※7)原文の踊り字は「ぐ」。
(※8)(※9)(※10)(※11)原文の踊り字は「く」。
(※12)(※13)原文ママ。
(※14)原文の踊り字は「く」。
(※15)原文句読点なし。
(※16)原文の踊り字は「ぐ」。
(※17)原文句読点なし。
(※18)原文ママ。

底本:『闘病術』(春陽堂)大正15年8月28日発行

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2020年4月1日 最終更新:2020年4月1日)