インデックスに戻る

懐しき帝国文庫

小酒井不木

 過去二ケ年に足らぬ年月の間に、所謂円本と称して出版された全集ものは実に幾十種の多きに上つた、如何に書物が安く買へるから、と言つても、読書子の購買力には限りがあるから、追々近頃は読書子の間に、円本に対する倦怠の色が見えはじめた。然るにこの時にあたつて、突如『帝国文庫』の予約大募集が発表されるや読書界は俄かに色めき渡つた。いはゞ円本に対する倦怠の色が、名残なく去られた観がある、それは何故であらうか。いふ迄もなく、凡そ、現今わが日本で活躍して居る中年以上の知識階級の人で博文館の『帝国文庫』の恩恵を蒙らない人は恐らく一人も無いくらゐだからである。
 私は中学の三年生のときから中学を卒業するまで、太平記と浄瑠璃とを熱読したが、いづれも、あのどつしりとした感じのある帝国文庫本であつた。中学を卒業して八犬伝に凝り、その後日本文学には遠ざかつて居たが、大学卒業後病気を得、静養を余儀なくされたとき、私の病床における唯一の慰安者は、帝国文庫本の八犬伝であつた。それから、騒動実記、大岡政談に耽り、急に犯罪文学に興味を持ちはじめ、次で探偵小説に心を惹かれるに至つたが私を文学の畠に惹き入れる機縁となつたものは帝国文庫であるといつてもよい。
 明治維新以来、西洋文物の輸入とともに、珍らしさのあまり、いはゆる西洋崇拝の念を生じ、日本文化の研究は一時怠り勝の有様であつた。ところが、西洋の事情を一とほり知ると、こんどは何となく物足らぬ感じを起し、再び日本固有の文化が恋しくなる。今の日本は、いはゞこの反動の時代にあつて、人々の日本文学研究熱は実に猛烈な勢ひである。それと同時に、古にあこがれる心が旺盛となり、過去の時代を描いた小説、即ちいはゆる大衆文芸は、読書界を風靡して居る状態である。
 この時にあたり、帝国文庫の予約出版が発表せられたのは、古人の言葉をかりて言へば「有難しといふもなかゝゝ(※1)愚かなり」である。大衆文芸が主として江戸時代を取り扱ふのは、江戸時代の文化が、現代人の心に言ふに言へぬ楽しみを与へるためであつて、従つて江戸時代の文化の研究は、わが日本人の心理を理解する上にも必要欠くべからざるものであるが、今回博文館の発表した帝国文庫第一期廿五冊が殆んど悉く江戸時代の文学であるのは、編輯者の用意周到なるを知ることが出来ると同時に読書子にとつて、重宝此上もないことがわかるであらう。
 円本といふ言葉は、最近製造されたものであるが、帝国文庫こそは、明治時代の円本であつたのだ。帝国文庫はいはゞ円本の元祖である。この円本の最先陣が、昭和時代の円本の後陣にあらはれたのは、日本文化史上から見ても、誠に意義の深いものがある。
 西鶴、門左衛門、京傳、馬琴、種彦の名は日本文学史上不朽の名であつて、日本人たるものは、是非とも一通り彼等の作物に眼をとほして置くべきである、今回発表の帝国文庫には、これ等の作者のいはゞ、代表的作物を網羅して居るばかりでなく、容易に手に入り難い珍本が数多く含まれて居る、昨年の春、私は、必要があつて、帝国文庫の西鶴全集二冊に、四十五円の大金を投ぜねばならなかつた。これは異例ではあるかも知れぬが、もつて、帝国文庫の価値を知ることが出来よう。
 一旦のがした機会は永久に来るものではない。価値ある書物の予約をはづしたほど、後に至つて悔ゆることの大きいものはないのである。私は大方の読書子に、この機会を逸さぬやうにしてほしいと、敢て筆を執つたのである。

(※1)原文の踊り字は「く」。

底本:『帝国文庫(第六篇)近世説美少年録』附録「帝国文庫月報 第二号」(博文館)・昭和3年6月15日発行

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1928(昭和3)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2010年11月29日 最終更新:2010年11月29日)