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作家としての私

小酒井不木

 探偵小説を作るやうになつてからまだ一年半にしかならず、作家としての経験は頗る浅いが、濫作をするので皆さんの眼に触れることが多く、それがため皆さんの感想をきくことが出来て、得るところが非常に多かつた。
 はじめ私は、探偵小説といふものは、人間の好奇心を満足させる軽快なものであればよいと思ひ、作品を製造するにも、肩の凝らぬ態度でやつて居ればよからうと考へたのであるが、段々皆さんの御説をきくに従つて、そんな態度ではいかぬといふやうな気がし出したのである。ところがさて、作つて見ると自分ながら呆れるやうなものしか出来上らず、それが濫作をする為であることは自分にもわかつて居るけれど、今一歩進んで考へて見るに、たとひ寡作をしても、今よりよいものは到底出来さうにないのである。然し、せめて一生涯のうちに多少自分にも満足が出来、皆さんにも満足してもらへるやうな作品を生みたいといふことは一日も忘れたことがなく(、)(※1)たとひ病気のために、思ふ存分の苦心は出来ないにしても(、)(※2)身体に障らぬ程度の苦心はたえずして居るつもりである。
 私の作品にあらはれる異常なる冷たさは、私自身にも可なりに気になつて居る。さうして何とかして、その冷たさを除きたいと思つても、知らず識らずのうちに冷たいものとなつてしまひ、我ながら呆れざるを得ない。これはやはり自分の性格の然らしめるところであらうと思ふ。科学を修めた人間であるから冷たくなるだらうと想像する人があるかも知れぬけれど、本当の科学者は決して冷たいものではなく、冷たくつては碌な科学的研究は出来ぬものと私は信じて居るのである。
 私はよく他人の作品を読んで泣かされる。他人の美しい話をきいても思はず涙ぐむ事がある。それで居て、その次の瞬間すぐ冷静になることが出来る。冷静になることが出来るどころか、知らぬうちに冷静になつて居る。中学の四年級のとき、私の世界中で一ばん好きな父が死んで、私は悲しくてゝゝゝゝ(※3)ならなかつた。父が瞑目するなり、親戚のものたちは仏壇に燈明をあげて御経を合唱した。その時私もその合唱者の一人であつたが親戚の一人の読み方が変だつたので、私は度々失笑した。それを見て他のものたちは私が泣いて居るものと思ひ、気の毒さうな顔をしてじろゝゝ(※4)眺めるので、一層をかしかつた。かういふことは或は誰にでもあることかも知れぬが、私の其後の態度も万事この通りである。
 物語りを作る際にも、かういふ風にしたならば恐らく読者の感情を動かすことが出来るだらうと思ひながら、それが何だか馬鹿々々しいやうな気がして、つい、冷たく突きはなしてしまふのである。さうしてはいけないと思ひながらもさうせざるを得ぬといふ事は誠に情けない話である。かういふと何だか、自分が暖かい作品の書けぬことを弁解するやうになるから、深入りはしないが、要するに目下のところ暖かい作品は私には書けないのである。
 それにも拘はらず、他人の作品を読むに当つては、暖か味がないと満足出来ない。モーパツサンの作に「女の装飾」といふのがある。虚栄心の強い官吏の妻がある夜会に出席するため、よその奥さんのダイヤの頸飾りを借りて出席したところ、それを紛失したゝめ、借金して買つて返し、それから随分みぢめな生活をして借金を返済したが幾年かの後に、その奥さんにあふと、借りたダイヤの頸飾は実は模造品だつたといふ話であるが(、)(※5)菊池寛氏が文芸講座か何かで指摘して居たとほり、私にもこの小説は何だか残酷なやうな気がして不満であつた。それにも拘はらず、私が筆を執るとなると、やはり、この通りにしか書かないだらうと思つて、それを読んだとき、ひそかに苦笑を禁ずることが出来なかつた。
 甲賀さんの御書きになる本格小説や、牧さんの御書きになるユーモラスな小説を読むごとに(※6)分も何とかして、かういふものを書いて見たいと思ふのであるがとても自分の企て及ばないところだらうと思ふと、頗る心細い感じがするのである。

(※1)(※2)原文句読点なし。
(※3)(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)原文句読点なし。
(※6)原文ママ。「自」の誤植。

底本:『探偵趣味』大正15年7月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2017年3月24日 最終更新:2017年3月24日)