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テーマを盗む

小酒井不木

 芸術家でも科学者でもテーマがなくなると非常に煩悶し出して来る。煩悶した結果、インスピレーシヨンでも起れば結構であるが、さうは問屋が卸さない。どうしたらよいかと四苦八苦をした末、ついうつかり他人のテーマを盗むといふやうな不心得まで起つて来やうといふものである。
 科学者など比較的清廉潔白に研究して居りさうであるけれども、中には、知名の人で他人のテーマを盗む人がないでもない。これは私がアメリカで研究して居た時分に、研究室主任であつたコーカ氏から聞いた話であるが、同氏が嘗て、ドイツのコツセル教授の許で研究して居たとき、教授から与へられたテーマをまんまと盗まれたさうである。あるときコーカ氏は、鶏卵が孵化して雛となる際、鶏卵中の一物質チロジンが、どれほど消費されるかといふテーマを教授から貰つた。氏が一生懸命にその仕事を行つて居ると、ある日、Aといふ有名な生理学者が、ぶらりとコツセル教授の教室に訪ねて来て、コーカ氏に向つて、今、何を研究して居るかとたづねた。正直なコーカ氏は、何気なくテーマの内容を物語ると、A氏は何喰はぬ顔をして立ち去つた。
 ところがそれから一ヶ月ほど過ぎると、ある医学雑誌にA氏の論文が発表され、それを読んだコーカ氏は脳天を斧で打ち砕かれたほどびつくりした。といふのは、その論文の内容が、鶏卵が孵化して雛となる際、鶏卵中の一物質グルタミンが、どれ程消費されるかといふ研究であつたからである。チロジンとグルタミンとの相違はあつても、「鶏卵が孵化する際の物質の変化」といふのが、テーマの眼目であるから、コーカ氏の研究はもはや何の興味もなくなつた訳であつて、遂にコーカ氏は、その研究を中絶するのやむなきに至つた。
 Aといふ人は、かの有名な姙娠診断法を発見して世界的の名声を博して居る人であるが、私はこの話をきいてから、すつかり、A氏を尊敬する念がなくなつてしまつた。事情をきいて見ると、何でもA氏は、他の教室にスパイを派遣して研究生たらしめ、その教室で行はれて居る研究を内偵せしめて報告させ、いゝテーマがあると、教室員全体が昼夜兼行で仕事をして、一足先に発表するといふやうな手段さへ講じて居るといふことである。
 戦前のドイツの各教室では自分の教室で行はれて居る研究は絶対秘密にするやう、教授が各教室員に厳訓したさうであるが、これでは学問研究といふ事は、まるで戦争のやうなものであつて、実に油断もスキもならぬ訳である。
 然し、よく考へて見れば、よいテーマはそんなに容易に見つかるものではないから、煩悶した結果は、さうした心の誘惑に陥るのであらう。あさましいことではあるが、致し方のない現象であるといはねばなるまい。
 文芸の方でも恐らくこれに似たやうな現象は少くはないであらう。私はその実例を知らぬからこゝに書くことが出来ぬけれども、いつなんどきさういふ心の誘惑にかゝらぬとも限らないから注意する必要があると思ふ。ドイツでは教授がよいテーマを高価で売るさうであるから、文芸の方でも、テーマを売買するやうにした方がいゝかも知れない。
 この意味に於て私は編輯者の巨勢さんに、テーマ売り出しを続けてほしいと思ふのである。

底本:『探偵趣味』大正15年6月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年3月24日 最終更新:2017年3月24日)