江戸川亂歩氏は「中央公論」三月号に、氏の作「一人二役」「屋根裏の散歩者」などに取り扱はれてあることが、実際にもあつたことを述べ、どんなに人間の想像力が奔放で、荒唐無稽なことを書いても、結局事実を出でないのではないかといふ意味のことを述べて居られる。実際、小説家の考へ出したことゝ事実とは、よく暗合するものである。オースチン・フリーマンの小説 The Cat's Eye の序文にも、その中に取り扱はれた事件と同じことが実際に突発し、かういふ暗合は昔から有り勝のことであると書かれて居る。まつたくその通りで、若し根気よく調べて見たら、随分、小説と事実とが暗合することであらうと思ふ。本田緒生氏が前号の本誌で、同氏の近作と牧氏の近作との内容が偶然暗合したことを述べて居られるが、事実と小説とが暗合する以上小説と小説の暗合するのも無理のない話で、結局江戸川氏の言葉の如く、人間の考へることは、事実を出ないからであらう。
ところが、昔から、「事実は小説よりも奇なり」といはれて居る。さうしてこの言葉は真実である。これは別の場所でも論じたことであるが、小説では作者の理性が働いて、想像そのものが多少制限を受けるためにあまりに馬鹿々々しいことは書き得ないのに反し、事実ではその馬鹿々々しいことが平気で行はれるからである。ウイリアム・ルキユーが、例のアンベール夫人の犯罪について紹介する際、若し空の金庫を据えつけ、中に沢山の御金がはひつて居るやうに見せかけて、それで巨万の金を詐取したといふことを小説に書いたなら、誰も、一笑に附して相手にしないであらうと言つて居る如く、実際には、そのやうな馬鹿々々しいことが平気で行はれて居るのである。私が嘗て某雑誌にアメリカの一囚人が、毛糸を唾でしめして、それに土塵をつけてやすり(※1)となし、それで檻房の鉄格子を三ヶ年に渡つて断ち切つて脱獄した事実談を書いたら、一読者から、私が創作した話ではないかとたづねて来たが、創作ならばそんなありさうもない事は考へ出さぬ筈である。だから、人間が想像して理性の許す範囲で小説を書いた日には、その内容は決して事実以上に出ることはむづかしく、従つて事実と小説とが暗合し、小説と小説とが暗合し易い道理である。
小説の中に「偶然の一致」を取り入れる際、私たちは、あまりに偶然すぎはしないか、これでは真実性に乏しいではないかと迷ふことがあるけれど、事実では、到底想像も及ばぬやうな偶然の一致が行はれるのである。ボーウン・ローランドの In Court and Out of Court の中に、二三の偶然の一致が述べられ、たとへば英国で一しよになつた人同士が偶然トルコで出逢つた話などが紹介されてあるが、偶然同じ電車の中で十数年逢はなかつた友達に逢ふといふやうな経験を、私自身も二三度したことがある。だから偶然の一致などを、小説の中に可なり大胆な程度に取り扱つても(、)(※2)それは許されねばならぬことかとも思ふ。
(※1)原文圏点。
(※2)原文句読点なし。
底本:『探偵趣味』大正15年4月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2017年3月24日 最終更新:2017年3月24日)