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偶感二題

小酒井不木

文芸と早熟

 昔から天才と称せられた人には早熟のものが甚だ多かつた。そのうちでも所謂文学美術に携はる人に早熟のものが多かつた。それは理窟で考へても当然のことであつて、通常早熟といへば頭脳の早熟を意味するのであつて、必ずしも身体の早熟を伴つて居ないものを言ふのであるから、武術の方面に於ける早熟の人は比較的稀な訳である。八犬伝に書かれてある犬江新兵衞は九歳の時に五人の仇敵を相手にしてその内四人を生捕つたといふことであるが、これは小説の中の人物ではあるし、又、身体も異常な発達をして居たとしてもあるから、無理もないけれど、実際にはその数が甚だ少いのである。八犬伝にあらはれる八犬士は、いづれも文武両道に於ける早熟者であるから、馬琴も気になつたと見え、第二輯巻之五の終りに、次のやうな弁解の辞を書いて居る。
「作者云、予この巻を草するとき、或人側より閲して、難じて云、信乃荘助等、英智宏才ありといふとも、もと是黄口の孺子、その年いまだ十五に足らず。しかるに智弁甚だ卓し。絶て童子の気象なし。寓言といふとも甚だ過たり。蓋し小説は、よく人情をうがつをもて、見る人倦かず。今この二子の伝の如きは、情に悖るにあらずや。といへり。予答へていふ。しからず。蒲衣は八才にして、舜の師たり。睾子は五歳にして、禹を佐く。伯益五歳にして火を掌り、頂(※1)五歳にして、孔子の師たり。いにしへの聖賢、生れながらにして、明智惜才、億万人に傑出す。固より夙くさとるのなみゝゝ(※2)にはあらず。この他の神童又多かり。謝在杭嘗て集録して、一編の文采をなせり。今かぞへ挙るに遑あらず。五雑爼中において見るべし。八犬士の如きも、亦これに亜ぐもの歟。便ち是予が戯れにその列伝を作る所以也。」
 この弁解の言葉から察しても「文」の方面の早熟者は支那に甚だ多かつた訳である。西洋でもやはりこれと同じであつて、ダンテは九歳の時にベヤトリチエに詩を書いて送り、タツソは十歳で名文を作り、ゲーテは十歳になるかならぬかの時、七ヶ国の言葉である物語をかき、ウイーランドは七歳でラテン語を自由に書くことが出来、十六歳の時、「完全なる世界」といふ詩集を公にした。シルレルは十九歳の時に名作「群盗」を出し、バイロンは十二歳の頃から詩を作つた。ユーゴーも十五歳で「イルタメーヌ」を作り、ポープは十二歳で「ソリチユード」を書いた。
 日本でも早熟者はやはり文学者に多かつた。菅公が「月輝如晴雪、梅花似照星、可憐金鏡転、庭上玉芳馨」といふ詩を作つたのは十一歳、新井白石が大字を書き初めたのは三歳、伊藤仁齋が「大学」を読んで発奮したのは十一歳の時であつた。頼山陽は、六歳の時、母に向つて、「天は如何なるものですか」といふ質問をしたさうであるが、八九歳の頃から寝食を忘れて古今軍記を読んだといはれて居る。
 かういふ例をきくと、年をとつてから文筆に携はるものは頗る心細い感じがする。せめて自分も五六歳頃から立派な和歌でも作れるとよかつたといふ後悔が湧いて来るが、歳ばかりは後戻りすることが出来ぬから、泣寝入りするより仕方がなく、わづかに、晩熟の天才、例へばゴールドスミス、バアンズ、バルザツク、デユーマ(父)、ボツカチオ、スコツト、フローベルなどの伝記でも読んで、慰めるより外はないであらう。然し、何といつても年が若ければ前途も多いわけであるから、私はどしゝゝ(※3)年の若い探偵小説家の出ることを切に祈つてやまぬのである。

「医師の心もち」

 春日野緑氏は本誌前号の「雑感」の中に、「医師の心もち」と題して、拙作「恋愛曲線」の中の、「いま迄、兎や犬や羊の心臓を切り出すことに馴れて居た僕も、たとひ死体であるとはいへ、その女の蝋のやうに冷たく且白い皮膚に手を触れてメスをあてた時は一種異様の戦慄が、指先の神経から、全身の神経に伝播した。」といふ言葉について、医者ならば、メスを取り上げた時に既に冷たい心持ちになつて居るべきで、メスをあてた時には戦慄を感じないのが当然ではあるまいかといふやうな意味のことを、M氏の文章や、S氏の談話を引証して論じて居られる。全く、いつもそれ程の深い注意を持たいで文章を綴る私は、同氏の鋭い観察に驚くと同時に、大に考へさせられた。その結果この一文を草するに至つたのである。
 春日野氏は、私の文中の「戦慄」を、医師の人間味から来る戦慄と解釈せられたやうであるけれども、その実、人間味は間接であつて、直接の原因は、「始めて物を試みるときの恐怖と興奮」なのである。さうしてそれは私自身の実感に基いて書いたものである。大学の一年級のとき、始めて死体の解剖実習を行つたとき私たちは、メスを取り上げたけれど、誰一人真先に死体の皮膚にメスを当てるものがなかつた。教室の助手が来て、「遠慮して居てはいけません、かうやるですよ。」と、スーツと大腿の皮膚を切つたときは見たばかりで私の全身がぴくりとした。それから自分でメスを当てたときも、変な気持になつた。が、それが済んでからは何ともなくなり、二度目からは平気であつた。
 生理学教室ではじめて蛙を殺したときも一種の戦慄を覚えた。蛙を殺すころに馴れてから兎を始めて取り扱ひ、耳へ注射を行つたゞけにも一種の戦慄を感じた。英国の下宿で、料理につかふ兎を殺してくれと頼まれたとき、槌で兎の頭を打つたとき甚しい戦慄を感じた。今迄そんな殺し方を一度もしなかつたからである。又英国の実験室でモルモツトを殺すとき、私は内務省の許可を得て居なかつたのでKといふドクターに殺して貰つたが、Kは私にモルモツトの頭と胴とをしつかり握らせ、俯向きにして頸の下へビーカーを置き、それから西洋剃刀を仰向きにして、ぢよきぢよき頸を切つたときにももう少しで私はモルモツトを離してしまふくらゐ戦慄した。それ迄に私は何百といふくらゐモルモツトを殺したが、そんな殺し方を一度もしなかつたからである。又、始めて人間に薬剤の注射を試みたときも戦慄を覚えた。
 かくの如く、私はこれまで始めての試みには、いつも戦慄を覚えたのであつて、あの場合、人間の心臓を切り出して働かせるのは始めての試みだから、メスを当てた時に戦慄を覚えると書いてしまつたのである。無論この戦慄が「人間味」から来ることは争はれぬことであるが、度重なるとそれがなくなり、時には戦慄どころか、一種の興味をさへ感ずるものが無いでもない。さういふ特種な人間を私は「大衆文芸」第二号の拙作「三つの痣」に取り扱つて見たのである。
 死体解剖を度々やつて何の戦慄を感じない人でも、恐らく、最初の死体解剖には、多少の戦慄を覚えたころだらうと私は思つて居る。尤も、これは私以外の人には見られぬ現象かも知れないから、どなたかの経験を承り度いものである。

(※1)「士」+「ワ」+「石」+「木」(unicode:U+69D6)
(※2)原文圏点、踊り字は「く」。
(※3)原文の踊り字は「く」。

底本:『探偵趣味』大正15年2月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年3月24日 最終更新:2017年3月24日)