インデックスに戻る

小酒井不木

 雑誌「内観」に「タナトプシス」を掲載しはじめてから、四年以上の歳月を経過した。月に一回、四百字詰原稿用紙で凡そ七枚づゝ書いて来たのであるが、それが積つて三百六七十枚となつた。けれども、まだ「タナトプシス」は決して終結したのではなく、終結どころか、その幾十分の一を書いたに過ぎない。
 ところが先日「内観」の編輯者から、「タナトプシス」も一段落ついたやうであるから、纏めて単行本にしてはどうかとの慫慂があつた。この不意な申し出にはじめは少しく躊躇したが、書物になるといふことはたしかに嬉しいものであるから、発行者さへ迷惑でなければ、御随意になさつて下さいと返事したのである。で、いよゝゝ(※1)上梓の運びとなつた。
 そもゝゝ(※2)この原稿には、深い思ひ出がある。大正十年の秋、私が郷里で病躯を養ひつゝあつた時、富豪安田翁が暗殺され、次で時の首相原敬氏が暗殺された。重病のために死といふものを考へつゝあつた私は、この二つの暗殺に深い感動を受けて、「タナトプシス」を書かうと思ひ、筆を執りはじめたのである。けれども、その後事情があつて、原稿は中絶したまゝになつて居た。
 大正十二年九月、関東の大震災当時、私は大咯血をやつて生死の境を彷徨し、再び死といふものに多少の考を費した。幸に恢復して名古屋に移住するに及んで、私は先年の中絶した稿を書き続けようと思つたのである。さうしていよゝゝ(※3)それを実行し、その後今日に至るまで、「タナトプシス」は縷々として続いて居るのである。
 読者はそれ故以上の由来を知つて、はじめの部分を読んで頂きたい。それと同時に、読者は本稿が毎月一章づゝ書かれたものであることを記憶して頂きたいと思ふ。さもなくては、中に書かれてあることの了解に苦しまねばならぬやうなことがあるからである。
 単行本にすることではあるし、その後、材料も豊富に集つて居るから、大に補つて見ようかと思つたが、さういふことをすると、月々に書いた特色がすつかり消されてしまつて、却つて面白くないから、発表当時のまゝ、少しの添削をも施さないで発行することに決したのである。
 だから、時には眼ざわりになる重複があつたり、意見の矛盾さへあるかも知れないけれど、大たいに於て、著者の「死生観」が相当にはつきりあらはれて居るつもりである。尤も四年前と今とでは、考に相違があり、相違があればこそ人間に生甲斐があるのだから、前後相整はぬことそれ自身が、死生観に於ける一つのテーマを与へて居るといへば言ひ得るのである。
 終りにのぞみ、本書出版に際し多大の援助を与へられた茅原退二郎兄に、切に感謝する次第である。
 昭和参年五月 小酒井不木

(※1)(※2)(※3)原文の踊り字は「く」。

底本:『タナトプシス』(内観社・昭和3年6月8日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1928(昭和3)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(最終更新:2015年2月12日)