別にこれ迄苦労といふ程の苦労をしなかつたのは、かへすゞゝゝ(※1)も遺憾である。病気のため過去十年間度々生死の境に彷徨したことを苦労の中へ入れゝば入れられぬことはないが、病気で苦しむぐらゐのことは、そんなに大したものではない。病気で苦しむことを一人前の苦労をして居るやうに語るのは、いはゞ病人の一種の示威運動である。さうして、さういふさびしい示威運動を行つて居る間は病気は決してなほるものでない。精神的の苦しみだつて、苦労をしつゝある間に、それを人に語ることは、あんまり感心しない。だが、苦労してしまつたあげくの思ひ出ばなしは、一寸面白いもので、この点、読者の課題は頗る気がきいて居ると思ふ。
私にも、一寸した精神的の苦労があつた。生れ落ちから(※2)義母の手に育ち、十六歳の時父に死なれ、その後母と二人ぎりの生活をしたが、その間に変な苦労をした。まつたく変な苦労である。私の家(うち)は田舎で、僅かではあるが田地を持つて居て、高等の学校へ行くぐらゐの資産はあつたのだが、母は私が中学を卒業すると、もう上の学校へはやらぬといひ出した。その時母は六十歳であつた。理由としては自分が年をくつて居るし、田舎に居れば学問などはいらぬといふのであつた。中学の校長H先生が母を口説いてくれたけれど、母はきかなかつた。で、H先生と相談して母に内密に第三高等学校へ入学願書を出すことにし、入学願書に添へて出す金五円の受験料はH先生が取替へて下さつた。
愈よ試験を受けに京都へ行かねばならなくなつた。折角中学を優等で卒業したものだから、京都へ遊び半分受験にやつてくれ、試験が受かつたとて行きはしないからといつて、やつと京都へ旅立つ許しを得た。試験には合格した。で、折角試験に合格したものだから、せめて高等学校へだけ三年間通はせてくれ、さうすれば人前へ出ても恥かしくないからといつて、漸く母を口説き落して、三年間京都で暮した。
愈よ三高を出た。さあ、今度は大学の段である。母は東京へは決してやらぬといひ出した。高等学校へ行くとき何といつた、高等学校だけでやめると言つたではないか、三年間自分は随分不便をしのんで来た、この上四年も五年も大学へ行かれてたまるものかといひ出した。私は困つた。二人ぎりだから、争つても仲裁者がなし、何とか円満に解決する道はないかと考(かんがへ)をめぐらした。母は寂しいといふよりも、金を使ふのが余計に気になるらしかつたので、大学でも一月十円ぐらゐあれば暮して行けるからといつて、色々嘆願したら、たうとうそれならばといつて許してくれた。
いつも、「お前のために、たんせいして貯金して置いてやるのだ」といつて、銀行の通帳など、みんな私の名にして置きながら、その通帳から金の減るのが非常に苦しかつたらしい。で、私も学資金は一月十円の割で貰つたゞけである。これでは無論参考書一冊買ふことが出来ない。仕方がないから、新聞小説を書いたり、お金持の友人の家(うち)に寄食させて貰つたり、大学のN先生の家(うち)に書生に置いて頂いたりして、難関をきりぬけた。
母は私の卒業試験最中に脳溢血にかゝり、試験を終つて帰郷した翌日逝去し、苦心してためた金をすつかり残して置いてくれた。尤もそのうちの大部分は、地方の銀行の破綻のために水泡に帰したのであつて、母はこの銀行の破綻のために、よほど心をいためたらしく、そのため死を早めたのかも知れない。なにしろ、その金があれば、ゆうに二人分の大学の学資に充てることが出来た程だから。
然し、私は決して無駄な苦労をしたとは思はない。若し母が生みの母であつて、私のいふまゝに学資をくれて居たら、或はどんな不逞なことをたくみ出したかも知れないからである。さうして、年を経るに従つて、ますゝゝ(※3)、母に感謝する念がまさつて来る。ことに、晩年、づつと寂しい思ひをして、もう私が卒業といふときに死んで行つたかと思ふと、いぢらしくて仕様がない。
母はよく田舎ものが学問すると、放蕩をするか病気に罹るかゞ落ち(※4)だといつた。さうしてこの予言は不思議にも実現して、私はみごとに病気にかゝつた。母が生きて居たら、どんなに屡(しばし)ば「それ見たことか」と言つたことであらう。母の位牌の前に立つとき、いつもそれを思つて私は恥かしさのために心で苦笑するのである。
(※1)原文の踊り字は「ぐ」。
(※2)原文ママ。
(※3)原文の踊り字は「く」。
(※4)原文圏点。
底本:『大衆文芸』大正15年9月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(リニューアル公開:2017年3月24日 最終更新:2017年11月3日)