変な人間が恋をすると、変な結末に終り易い。然したとひ変な人間の恋といへども、恋そのものは決して変ではなく、変でない人の恋と同じであるけれども、結末が変であれば、まあ「変な恋」といつてもよいであらう。
アメリカ合衆国にニユーヨークといふ所がある。かういふと読者は人を馬鹿にするなといはれるかも知れぬが、ロンドンといふ町がカナダにもあるから、間ちがひのないやうに一寸ことはつたゞけである。さて、そのニユーヨークといふところには、ずゐぶん変な人間が沢山住んで居て、可なりに変な職業を営んで暮して居る。例へば他人の持つて居る金を口先一つで自分のものにするといふやうな人間が沢山居るのである。さういふ人間は今に限らず、むかしから、ニユーヨークが主要産地であつたさうで、従つてニユーヨークでは変な人間によつて、変な恋の行はれた例しは決してこれまで少くはなかつたのである。で、私はそのうちの一例を左に紹介しやうと思ふのである。
今から凡そ五六十年前のことゝ思つて頂きたい。ニユーヨークのマンハツタン銀行のまん向へに、ジヨン・グレーヂーといふダイヤモンド商があつた。その頃この男は世界でも有数の宝石商で、年々何十万、何百万円の取引をして、どんな高価な宝石でも、売る人さへあればどしどし買ひ込むのであつた。
実際グレーヂーの家へ来る客は、宝石を買ふ人よりも売る人の方が大部を占めて居た。而もその客は、顔に変な笑ひを浮べ、変なものの言ひ方をして、変な手附きで金を貰つて行くのであつた。さうして、その買値は、時価よりもうんと安かつたけれども、売り手は別に不足をいはず、唯々諾々として、彼のつける値段に満足した。
言葉を換へて言ふならば、それ等の客は、緑の林白の浪、手つとり早く言ふならば即ち宝石泥棒であつた。従つて、グレーヂーは申すまでもなく、けいづかひ(※1)であつたのである。全くその当時、彼は世界第一のけいづかひだと評判されて居た。けいづかひの評判が立つて、そのやうに堂々商売して行くのは、一寸おかしく思はれるが、警察では証拠を握ることが出来なかつたので、どうにも致し方がなかつたのである。
彼はいつも黒い鞄の中に二万円以上の宝石を入れて携へて居た。彼は宝石鑑定家としては第一流の人間であつて、他の宝石商からも鑑定に招かれたが、彼の鑑定した宝石が、時を経て彼の手中にころげこむことは、決して稀でなかつた。警察の見積りによると、彼の一生涯に取り扱つた宝石は一千万円以上の高に上つたといふことである。
彼は脊(せい)の短いがつしりした体格の男で、強固な意志が眉宇の間に窺はれ、ニユーヨークの暗黒界に於ける一大勢力であつた。彼が一たび口走れば、どんな犯罪者も囹圄の人とならねばならなかつたのであるから、全く無理もない話である。然し彼はある時、強盗たちに携へて居た鞄を狙はれて、さんゞゝ(※2)な目に逢ひ、それ以後心臓を悪くして、いつ何時たほれるかも知れぬ身体となつたのである。
まさか心臓が悪くなつたからといふ訳でもあるまいが、この変な男がある女を恋するやうになつたのである。さうして、お前とならばどこまでも、ナイヤガラはあまり近過ぎるから、華厳の滝へでも飛びこむか、或は松屋呉服店の頂上から飛び降りてもかまはないといふ程にのぼせ込んだのであつた。
女はニユーヨークのある富豪の若い未亡人であつた。若い未亡人は兎角金が要るものであると見えて、彼女も困つた末に大切な宝石を手ばなすとて、グレーヂーの店をたづねたのである。それが二人の相識る機会となり、グレーヂーは女と宝石とにぞつこん惚れこんで、彼女の宝石をどしゝゝ(※3)買ひ込んだのである。
然し、宝石はどこの家にも無数にある訳ではない。売つてしまへばなくなるのは当然のことであつて、たうとう二人は変な計画をたてたのである。即ち彼は彼女に宝石を盗むことを教へ、彼女の持つて来た宝石をどしゝゝ(※4)買ふのであつた。その頃富豪の会合の席上で、宝石が度度紛失したが、たうとうその原因は知れないですんだ。
男の恋はだんゝゝ(※5)深くなつて行つた。女は始めはまんざらにくいとも思はなかつたが、秘密を知られて居ると、何だか空おそろしいやうになつて、男をきらふやうになつた。然し、もはやどうすることも出来なかつた。さうして、だんゝゝ(※6)深みへはひつて行くより外はなかつた。仕方がないから、女も、男を非常に愛して居るやうに見せかけたのである。
たうとう、男はもう我慢がし切れなくなつて、二人で駆落しやうと言ひ出した。恋のためなら駆落ちなどする必要はなかりさうであるけれども、一つには、彼のけいづかひたる証拠がだんゝゝ(※7)警察の手に重なつて、身辺が頗る危ふくなつたからである。女はもとより彼と駆落などは毛頭もなく、せつぱつまつて遂に恐ろしい計画を胸に抱き、深夜に男の家をたづねたのである。グレーヂーはそのとき、家にあるだけの宝石を荷造りして女が来れば手に手を取つて逃げ出すつもりであつた。
二人は逢つた。その時、彼女はマツフの中に怖ろしい毒薬の瓶をたづさへて居た。彼女は愈よ出発するに当つて首途(かどで)を祝ふために祝盃をあげようではないかと言ひ出し、自ら立つて戸棚から一個(※8)の盃と白葡萄酒の罐(びん)(※9)を持つて来た。グレーヂーが葡萄酒の栓を抜いたとき、
「まあ、わたしとしたことが、たつた一つしか盃を持つて来ないなんて。ねえ、あなた、ちよいと、もう一つ取つて来て下さい。」
と、彼女は平気を装つて言つた。
グレーヂーが盃を取りに行くと、その間に彼女は手早く毒薬の瓶から盃の中へ毒液を滴(た)らした。さうして、グレーヂーが戻つたとき、彼女はその盃へ黄色の葡萄酒をなみゝゝ(※10)と注(つ)いだ。
「さあ、これをお上りなさい。」と彼女はやさしく言つた。
グレーヂーは嬉しがり、「有難う、それぢあ、二人でこの盃を飲まうよ。恋の酒だもの。」かういつて、彼はその眼に恋の焔を漲らせながら先づ盃を彼女の口もとに持つて行つた。
彼女はぎよつ(※11)とした。
「いけないゝゝゝゝ(※12)。」と彼女は思はず叫んだ。
「私は別の盃でのむのよ。注(つ)いで頂戴。」と声ふるはせて言つた。
「何故?」と、グレーヂーの眼には始めて疑惑の色が浮んだ。
「わたしがあなたの盃についであげたのだから、あなたはわたしの盃につぐのよ。」
と、彼女の答はしどろもどろであつた。
それからグレーヂーは不快な顔をしながら静かに盃を唇のそばに持つて行つた。さうして、彼女の様子を見まもつた。盃が唇に触れたとき彼女の顔包(いろ)(※13)がさつと変つた。グレーヂーは忽ち彼女の恐ろしい計画を見破つた。さうして、いきなり盃を床の上に投げつけた。
「俺を殺すつもりだつたな。よし、殺すなら殺せ、俺も貴様を殺してやらう。」
かう言つて彼は立ち上つて彼女の腕をぎゆツとつかんだ。
「あれーつ」と叫んで彼女が死物狂ひで振りはなすと、彼女の片袖がグレーヂーの手に残つた。グレーヂーは彼女を追ひかけた。あはや彼女が彼の手で捕へられんとしたとき、グレーヂーの眼は急に光を失つて、全身をぐたりとさせ、そばの椅子の上にたふれかゝつたのである。さうして彼女は虎口をのがれて逃げ出すことが出来た。
翌日グレーヂーの死体が発見された。警官は彼の手に女の片袖が握られて居ることゝ、床の上に盃が割れて居ることゝ、机の上に注(つ)ぎかけの盃のあることによつて、大凡(おほよそ)その場の状景を察したが、死体解剖の結果、中毒の徴候は発見されないで、死因は心臓痲痺だとわかつた。彼の弱い心臓は激情のために遂に破綻を来したのである。さうして警察では相手の女に対して、何の手続も取らなかつた。
話し終つて見れば彼の恋の結末はそんなに変でもなささうである。むしろ私の頭が変なのかもしれない。
(※1)原文圏点。
(※2)原文の踊り字は「ぐ」。
(※3)(※4)(※5)(※6)(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)原文圏点。
(※9)原文ママ。
(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)原文圏点。
(※12)原文の踊り字は「く」。
(※13)原文ママ。
底本:『大衆文芸』大正15年7月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2017年6月23日 最終更新:2017年6月23日)