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京都日出新聞

小酒井不木

 一作によつて世の中に認められたといふやうな処女作であれば、思ひ出話も相当に面白いかも知れぬが、私の処女作は、大学の時代に、一寸した意地と、参考書を買ふ金が欲しかつたために作られたものであるから、思ひ出話といふほどの話もなく、頗る平々凡々である。第一、作そのものが頗る平々凡々で、今読んだならば定めし閉口するであらうが、幸に、読まうと思つても読み得ないから、作の内容もどんなものだつたかはつきり思ひ出せず、まことに我慢がしよい訳である。
 私は継母に育てられたのであつて、大学の頃は母と私との二人ぎりの家族だつたので、母は私の大学にはひることを頗る反対した。田舎に母一人を置いて上京することは可なり心苦しかつたが、学資もなるべく自分で稼ぐやうにするからといつて、漸く母を納得させ上京したのであるから、上京早々参考書を買ふ金が欲しくなつて小説を作る気になつたのである。医科は各学年に可なり沢山の参考書がいるのであるが、私はなるべく先輩に借りることにしてどうしてもほしいと思ふ書物だけを買ふために一奮発したのである。
 小説はそれまで好きで読んだことがあるけれど、一度も書いたことはなかつた。然し、一旦決心すると、どうしても書き上げねば気がすまぬやうになり、九月に上京して、十月頃から構想に取りかゝり、十二月頃に、新聞の連載小説にするつもりで、「あら浪」と題し約三十回ばかりを書いてそれを京都に居る三高時代の友人に送り、京都の日出新聞に交渉してもらつたところ幸にも一回五十銭で買ふとの通知に接したので、その冬の休み中に全体即ち八十回を書き上げて送つたのである。
 何でも、書き出しは、須磨の警察署へ、一人の老爺(ぢゝい)が、ある男に頼まれたといつて一個の行李を届けたので、警察の人々が不審に思つて開いて見ると、行李の中には一人の男の絞殺死体がはひつて居たといふやうなことであつた。これで見ると、その頃から私には探偵小説趣味があつたやうに思ふ。結末は大したものではなかつたが、舞台が朝鮮になつたり内地になつたりして、一種の家庭悲劇といふやうなものであつた(。)(※1)一二回風俗壊乱的なところがあつたとかで、新聞社の人がその筋に呼び出されたといふやうなエピソードもあつた。
 大学の一年の第一学期は講義が一週に十八時間ぐらゐで頗るひまであつたから、そんな呑気なことが出来た訳であるが、その後、小説などを書いて居ては、学科の方がおろそかになると思つたので、ふつゝり筆を絶つてしまひ、学資の点は友人の御世話になつたり、恩師の家に書生に置いてもらつたりして、どうにか困難を切り抜けて行くことが出来たのである。
 それつきり文筆に従事しやうとは思はず大学を卒業して三年の後海外に留学して専門の学問に力を尽したが、パリーで病気になつてから、帰朝後も病臥の身となり、再びぽつゝゝ(※2)筆を取るに至つたのである。さうして、大正十四年四月号の「女性」に短篇探偵小説の処女作といふべきものを発表したのであるが、これについて書くべき事はあまりないのである。

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文の踊り字は「く」。

底本:『大衆文芸』大正15年6月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2017年3月24日 最終更新:2017年6月23日)