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女、花

小酒井不木

 ニユーヨークに留学して居たとき、私はある外科病院の病理学部主任コーカ氏と共に、血清学の研究に従事した。病理学部といふのは、入院患者の血液や尿を検査するところであつて、コーカ氏はミス・ケリーといふ若い女の助手を使つて仕事をして居た。この女は非常に顔が美しかつたが、少し脊(せい)が大き過ぎて気の毒だつた。何となれば、その頃ニユーヨークでは中加減の脊(せい)の女が好まれて居たからである。然しミス・ケリーは少しもそれを後悔することなく、非常に愉快さうに仕事をして居た。彼女ぐらゐの年輩の女は、大てい男の友達を持つて居るものであるが、彼女には別に男の友達はなかつたやうである。男の友達があるならば、その男は病理学部だらうが、何処だらうが必ず訪ねて来て一しよに散歩すべく誘ひ出す筈であるのに、一度もさうしたところを見なかつたからである。彼女は何とかといふ高等の学校を卒業して、俸給も一週何十弗やらを貰つて居たから、可なりに学識があつた。さうして一方では極めて快活で、私は彼女から、「スマイルス」その他の俗謡を教はつた。「ゼヤ、アール、スマイルス……」とうたひ出すと、今でも私の心はニユーヨークへ飛んで行く。
 ある日彼女は、ある女患者の尿の残渣を顕微鏡で検査して居たが、突然私を招いて、
「ドクター・コサカイ、妙なものが見えるから一寸来て下さい。今までこんな珍らしいものを見たことがない。」
と、さもゝゝ(※1)大発見をしたやうに言ふのであつた。
 私は仕事の手をやめて、彼女の差出した顕微鏡をのぞいた。さうして、一目でそれが何物であるかを知つた。
 然し、私は一寸返答に困つた。するとミス・ケリーは、傍から、頻りに、それが何であるかをきかせてくれと言つた。私は非常に困つた。で、とりあへず、
「この女患者はいつ入院したのですか?」
とたづねた。
「今日で四日目よ、足に腫物(はれもの)が出来て手術を受けることになつて居るのよ。」
「さう。」といつたきり、私はなほも、てれ(※2)隠しに顕微鏡をのぞいて、どう答へてよいかを思案した。ありのまゝを告げれば、顔をあからめ合はねばならぬし、それかといつて黙つて居ては彼女が怒るだらうし、今更また何だか知らないとも言へぬし、本当に弱つてしまつた。
 さうしたところへ、コーカ氏が都合よくはひつて来た。私は渡りに舟と喜んで、早速コーカ氏を招き、ミス・ケリーが、この顕微鏡下に見えるものが何であるか知りたがつて居るから、聞かせてあげてくれと告げた。コーカ氏は何気なく、つかゞゝ(※3)と近寄つて顕微鏡をのぞいた。無論氏も直ちにそれが何であるかを知つた。さうして顔をあげるや否や、私の顔を見て、にこりと笑つた。それを見て居たミス・ケリーは、コーカ氏に向ひ、
「ドクター・コーカ、それは何ですか、早くきかせて下さい。よう!」
とたのんだ。コーカ氏も頗る困つたらしかつた。で、私は「その女患者は入院してから、四日目になるさうだが、随分長く尿の中にあらはれるものではありませんか」といつた。
「そうですねえ、長い間存在するものですねえ。」とコーカ氏も感嘆したが、ミス・ケリーに向つて答へやうとはしなかつた。
 ミス・ケリーは私たち二人の会話をじれつたさうにきいて居たが、そのうちにパツと顔を紅くしたかと思ふと、逃げ出すやうにして室を去つた。あまりの咄嗟なことであつたから、彼女が、その疑問のものの正体を察して、顔を紅らめたのか、又は、私たちが、ちつとも教へてやらぬのを憤慨して顔を紅くしたのかわからなかつたが、私とコーカ氏とは、彼女が去つてから顔を見合はせて笑つた。
 もはや読者諸君は御察しのことであらうと思ふが、顕微鏡下に見えた疑問のものは一口に言ふと、おたまじやくし(※4)の形に似たもので、凡そ二十疋ほど見えたのであるが(、)(※5)勿論動いては居なかつた。
 このことからでも、私は彼女が比較的にうぶ(※6)であることを知つたのである。

 ある時私はミス・ケリーに日本製の造花のタンポポを持つて行つてやつた。あまりに実物そつくりに出来て居たので、タンポポの花など失礼だとは思つたけれど、彼女に見せたのである。一たい、アメリカではタンポポは最も下等な花の一つにされて居て、うちの中へ持つて来るさへ嫌ふものが多かつた。
 ミス・ケリーは大(おほい)に喜んで、そのタンポポの花を、小さな花瓶の中に挿し、而も水を入れて、コーカ氏の机の上に置いた。つまり、コーカ氏を驚かしてやらうと思つたのである。
 やがて、コーカ氏がはひつて来た。さうして机の上のタンポポを見るなり、奇妙な表情をして私たち二人の顔をながめ、
「どなたの御厚志による贈り物ですか?」
と、皮肉たつぷりな口調でたづねた。
「ドクター・コーカ、それは私からの贈り物よ!」と、ミス・ケリーは快活な声で言つた。
 コーカ氏は首を二つ三つ掉(ふ)つて、不愉快さうな顔をしてすぐ仕事にかゝらうとしたので、私は、
「実は、僕がミス・ケリーに送つたのですよ。」と告げた。
 すると、コーカ氏は眼をむいて、(「)(※7)ドクター・コサカイ、こんな花をレデーに贈つてはいけない。何処で取つて来ましたか?」とたづねた。
「買つたのですよ。」
 コーカ氏は愈よ驚いて、
「ニユーヨークにタンポポの花を売つてる店はないだらう。」といつた。
 ミス・ケリーはコーカ氏の真面目顔にふき出してしまつたので、コーカ氏は愈よ変な顔をした。
 で、私はたうとう、
「ドクター・コーカ、これは造花ですよ!」と告げた。
 コーカ氏は猛烈に頭を横に掉(ふ)つた。
「ノー、ノー」と氏は叫んだ。
「イエース」と私も声をつよめて言つた。
 でも、コーカ氏は、なほも、そのタンポポを手に取らうとしないで、
「ノー、ノー」を繰返した。
 それから遂に、コーカ氏も手に取つて見る気になつた。さうしてびつくりしながら(、)(※8)それが日本製だときいて、日本人の手芸の巧みなことを激賞した。さうして最後に値段をきいた。
「五仙(フアイブ・センツ)
 かう私が言ふと、コーカ氏は再び驚いたが、こんどはミス・ケリーも少なからず驚いて居た。(完)

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文圏点。
(※3)原文の踊り字は「ぐ」。
(※4)原文圏点。
(※5)原文句読点なし。
(※6)原文圏点。
(※7)原文括弧なし。
(※8)原文句読点なし。

底本:『大衆文芸』大正15年5月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年6月23日 最終更新:2017年6月23日)