小説を書くものに取つて、空想の毒薬を考へ出すほど、好都合なことはない。だから、昔から多くの小説家は実際にありもしない毒薬を作つて、自由自在にその筋を発展させたものである。ことに人間には、毒の恐ろしさが伝統的に沁みこんで居るから(、)(※1)突飛な毒を考へ出しても、書きやうによつては、本当らしく思はせることが出来る。例へば、スチヴンソンの「ジエーキール博士とハイド氏」を読んで居ると、いつの間にか、悪魔になる薬の存在を信じてしまふ。まつたく、アルコホルでさへ、温和な人間を悪魔に変へることがあるから、少し研究したならば、ジエーキール博士の発見したやうな毒薬は、事実、発見されさうに思はれるのである。
ヂユーマはその作の到るところに毒薬を取り扱つて居る。例の巌窟王即ちモント・クリスト伯は、東洋で医術を修め、かの大麻からして、「ボヘメア・ガラスの壜に貯へられた血の色をした興奮剤」に至るまで、何事に処しても、自由自在に振舞ふことの出来る各種の毒薬を携へて居る。ことに、この血の色をした興奮剤は、絶命者の唇にたつた一滴だけ注ぐと、唇に触れるか触れぬにその人は甦るといふのである。彼はエメラルドその他の宝石を鏤(ちりば)めて作つた丸薬匣(ぐわんやくばこ)を携へ、その中にはありとあらゆる作用を持つた毒が入れてあつた。なほ又彼自身は、化学と毒物学に非常に造詣が深く、毒殺を行ふ目的で彼の教へを乞ひに来たマダム・ド・ヴイーユフオールに向つて、ブルチン(brucine)の毒性に関し、次のやうに語つて居る。即ち「仮にあなたがこの毒の一ミリグラムを第一日に取り第二日に二ミリムグラム(※2)、第三日に三ミリグラムといふ風に取つて行くと三十日目には実に三センチグラムの多量を取ることが出来ます。而も三センチグラムといふ分量は、始めての人が取つたら忽ち死んでしまひます。そこで、あなたが殺さんとする人と食卓を囲んで、この毒を入れた水徳利から、御互(おたがひ)に同じ量だけ飲んで御覧なさい。相手だけ死んで、あなたは助かります。さうして、あなたも同じ水を飲んだのですから、決してあなたが殺したといふ嫌疑はかゝりません。」といふのである。今日の毒物学上の知識から見ても実に堂々たるもので、凡ての毒物に同じことが当てはまるといふ訳ではないが、かくの如き、いはゞ毒物の「免疫現象」は、ある種の毒物にたしかに見られるところである。欧洲のある地方には砒石を食べる人間が住んで居るが、彼等は普通の人の幾人をも殺すべき分量の砒石を食べて平気で居るのである。
モントクリストは又いふ。「アデルモント僧正は、野菜、果樹、草花を一ぱい植ゑた美しい庭園を持つて居ます。僧正はその野菜の中から、最も簡単なもの例へばキヤベツを選んで、三日間それに亜砒酸の溶液を注ぎかけます。三日目でキヤベツは萎れて黄色になります。その時僧正はそれを切り取ります。誰が見たとて、僧正が食卓にのせるものと思ひます。ところが僧正は、それを持つて、動物小屋に行き、飼つてある兎にそれを食べさせます。兎は死にます。兎が死んだとて、裁判官も文句は言ひません。そこで僧正はその死んだ兎の内臓を、料理人に取り出させ、ごみだめ(※3)の上に捨てさせます。すると一疋の鶏がそれをたべて痙攣を起してひよろゝゝゝ(※4)して死にかけて居ると、兀鷹(はげたか)が飛んで来て、鶏の死体を持つて行きます。三日の後兀鷹(はげたか)は、空を飛んで居る時に眩暈を感じ、ひらゝゝ(※5)と養魚場へ落ちると、鮒や鯉が喜んで食べます。翌日鯉が食膳に上(のぼ)されると、それを食つたあなたの御客は八日目ぐらゐに激烈な腹痛を起して死にます。すると医者は死体を解剖し、知つた振りをして、肝臓癌か腸チブスといふ診断を下すのです。」
かうなるとモント・クリスト伯の毒物学の知識も少々怪しくなつて来たが、空想として見れば頗る興味がある。
英国の探偵小説家ウイルキー・コリンスも、その作の中に度々毒薬を取り扱ひ、「月長石(ムーン、ストーン)」の如きは、阿片が作の中心となつて居るといつてよい程であるが、「白衣の女(ウーマン、ホワイト)」の中にも、悪人フオスコ伯をして毒薬を使用せしめて居る。フオスコ伯はいふ。「自分は二回だけ学術(サイエンス)の御世話になつた。……毒を投じた一杯の水、毒をまぜた嗅ぎ薬、これで十分自分の目的を達したのだ。」さうして、化学に関して大気焔をあげて居る。「化学は自分に言ふべからざる興味を与へた。実際化学者は人間の運命を自由自在に左右し得るものだと自分は思ふ。世の中を支配するものは人間の心だと言はれて居るが、さてその人間の心を支配するものは何であるか。人間の身体(しんたい)は、全能中の全能といふべき化学者によつて支配されて居るではないか。自分に化学を与へよ。然らばシエークスピアがハムレツトの構想に余念なきとき、その食物中に、僅かの粉末をまぜて、彼の身体(しんたい)に変化を起させ、従つて彼の心を乱(みだ)らせて、最もくだらない(※6)文章を書かせるであらう。又同じ方法でニウトンを処置するならば彼は林檎の落ちるのを見て、引力の法則などを考へずに、たゞその林檎をむしやゝゝゝ(※7)食べるであらう。同様にかのネロ皇帝を、一食によつて、世界中の最も温順なる人間ならしめることも出来れば、アレキサンダー大王を、一日の中(うち)に向ふ見ずの人間にかへることも出来る。然し幸(さいはひ)なことに現今の化学者は、人類中、最も無害な人間となつて居る。……」
大へんな気焔であるけれど、この言葉は真理である。実際、犯罪性を多分に持つた偉大な化学者があらはれたならば、どんな恐ろしいことを仕出かさぬとも限らない。が、現実の世界では、物事はそんなに思ふやうにならない。だからみんなが、かうして、小説の中で、言ひたいことを言つて居るのである。
阿片といふと誰でもすぐ支那を聯想し、恰も支那が阿片の原産地であるかのやうに思ふ人もないではなからうと思ふが、その実、阿片は支那人に馬鹿に御気に入つたといふに過ぎないのであつて、支那へ最初に持ち来(きた)されたのは今から三百五十年ぐらゐ前のことである。
阿片が罌粟の実のまだ成熟しないのを傷(きずつ)けて得た汁を乾かしたものであることゝ、その主要なる成分がモルヒネであることは誰でも知つて居ることであるが、さて阿片が何処に始めて産出したものであるかといふことになると容易に知り難い。世界で一ばん古い記録は紀元前三百年頃のギリシアのテオフラスツスの物したものであるけれど、ずつと大昔から使用されて居たことは察するに難くなく、ホーマーの詩に出て来るネーペンチー(忘憂薬)なるものも恐らく阿片だつたらうと考へられて居て、このネーペンチーはエヂプトの古代の首府テーベスから渡つたものだと言はれて居る。だから罌粟は、古代に於ては、地中海の沿岸に栽培されたものと見なして差支ないやうである。
それから段々東洋との交通によつて、ペルシアやアラビアやインドへ持ち来(きた)らされたらしいのであるが、無論ペルシアやインドでも罌粟はその以前に栽培されて居たらしく、たゞその、はつきりした記録がないだけである。インドで阿片の用法が最初に記録されたのは第十六世紀の始めのことである。アラビアから支那へ輸入されたのも(、)(※8)西洋人の説によると第九世紀頃だつたらうとの事であるが、支那で目立つて使用されるやうになつたのは三四百年前のことであるらしい。ことに第十八世紀の末に至つて印度(いんど)との貿易が盛んになるにつれ、支那に於ける阿片の使用は著しくなり、害毒が蔓延して、遂に政治問題を起し、所謂阿片戦争となつたが、一八五八年、阿片は支那に正式に輸入されることを許可されるに至つた。それがため、支那人といへば阿片を思ひ出すほど縁故の深いものとなつてしまつたのである。
「甲子夜話続篇」には、(「)(※9)清商の渡来するもの、舶中に阿片たばこと云ふものをのむ」とあつて、支那との交通によつて日本に阿片が渡つたことは言ふ迄もないが、支那ほどの阿片狂を生じなかつたのは幸福であるといはねばならない。
エヂプト人及びギリシア人は阿片を葡萄酒の中に入れて飲んだ。ペルシア人はそれに諸種の香料を加へて風味をつけ、「テリアカ」の名で愛用したといはれて居る。之に反して、支那に於ては最も普通に所謂阿片たばこ(※10)として愛用されて居るのであつて、試みに、支那人の阿片たばこを喫(の)む定型的な光景を述べるならば、先づ喫煙者は通常枕をして横這ひになる。その横にある藁筵(わらむしろ)の上には、重ね合つた膝と、鼻との中間ぐらゐのところにホヤのついた石油ランプが置かれてある。そのすぐ傍には盆があつて(、)(※11)その上には阿片のはひつた丸い小箱と、それを操る真直(まつすぐ)な針金と、阿片の砕片を集めるためのナイフと、喫煙用の煙管(きせる)とが載つて居る。煙管(きせる)の長さは二尺あまり、太さは五分ばかりで、先端(さき)に、陶器又は石で製(つく)つた二寸ばかりの、穴のあいた蓋附きのコツプに似た雁首が附けてある。愈よ喫(す)ふ段になると、喫煙者は、針金でもつて小箱から阿片を少し取り出し、雁首の蓋の上でよく煉(ね)つてランプの火で暖め、膨脹するのを待つて、手で取り上げ、こんどはそれを穴のところへ置いて、ランプの火をつけるのである。さうして煙草をのむやうにして、煙を吸ひこむのであるが、横になる代りに、壁に凭れて吸ふ習慣のものもあることは言ふまでもないのである。
かうして喫煙者は快い夢の世界を辿り(、)(※12)時間を忘れ、場所を忘れて、不思議な生活にはひるのであつて、肉体の苦痛も、精神の苦悩もすつかり忘れてしまふから、一度手をつけたが最後、だんゝゝ(※13)深みへはひつて、甚だしい時は一生涯を棒に振つてしまふのである。現今の世界の大都市にも、かうした様式の喫煙をさせる阿片窟は沢山あるらしいがそれよりも、モルヒネとして、単なる快楽を得る目的で使用される量は莫大であるらしく、識者の眉をひそめる所となつて居る。
(※1)原文句読点なし。
(※2)原文ママ。
(※3)原文圏点。
(※4)(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文圏点。
(※7)原文の踊り字は「く」。
(※8)原文句読点なし。
(※9)原文括弧なし。
(※10)原文圏点。
(※11)(※12)原文句読点なし。
(※13)原文の踊り字は「く」。
底本:『大衆文芸』大正15年3月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2017年12月22日 最終更新:2017年12月22日)