アメリカではじめて聞いた俗謡のうちで、Smiles くらゐ私の心を強く動かしたものはなかつた。その曲譜がいかにもなだらかで、何ともいへぬ喜びを与へてくれるのであつた。私はかの Auld Lang Syne(オー ラン シン)(日本で、「蛍の光」の譜につかはれて居る)の曲調がたまらなく好きであるが、それにもまさつて、スマイルスは私の心を夢の中へ誘ひ入れる。「オー・ランシン」の曲調には悲しさが溢れて居るがスマイルスには悲しいところは別にないやうでありながら、而も何となく旅愁をそゝる。
日本にもレコードになつて来て居るから、多分読者諸君のうちで、すでに御聞きになつたお方もあるであらう。私が好きだからといつて誰にも気に入るといふ訳はないが、アメリカ人も大へんこれを好いて居るらしかつた。大正九年の秋、日本へかへる便船を待ちながら、マルセーユのある旅館のローンジの椅子に腰かけて、うつとりと、オーケストラを聞いて居たとき、私の隣りに、美しいアメリカの娘さんが同じくつゝましやかに聞いて居たが、やがて、一曲がすむなり、その娘さんは、つかゝゝ(※1)と楽隊のそばに行つて、何かの曲を所望した。私は彼女が、どんな曲を望んだかと、ひそかに好奇心をもつて待つて居たが、曲がはじまると、それは疑ひもなく「スマイルス」だつたので、私は、その娘さんに握手したい程、嬉しかつた。恐らく、その娘さんも、遠く故郷を離れて居る寂しさから「スマイルス」を選んだのであらう。
今こゝでは、その曲譜を書き記すことは出来ないが、その歌の文句は左のごとくである。
There are smiles that make us happy,
There are smiles that make us blue'(※2)
There are smiles that steal away the tear drops,
As the sumbeams steal away the dew.
There are smiles that has a tender meaning
That the eyes of love alone may see;
But the smiles that fill my life with gladness
Are the smiles that you give to me.
これは私が、ニユーヨークのある病院の研究室で働いて居たとき、同じ研究室の助手をして居たミス・ケリーといふ娘さんに教はつた文句であつて、或は私の記憶に誤りがあるかも知れぬから、果してこれが正しいかどうかを保証し得ない(。)(※3)たゞその意味は次のやうである。
「私たちを幸福にする笑ひもあれば、私たちを悲しくする笑ひもある。又、日光が露を盗み去るやうに、私たちの涙の露を盗み去る笑もある。なほ又、愛の眼のみが覚り得るやさしい意味をもつた笑ひもある。けれど、私の一生を歓喜をもつて満す笑ひは、あなたが私に与へる笑ひである。」
研究室の仕事に疲れたとき、私たちはよく「スマイルス」の合唱をやつた。東五十九町目のイースト・リヴアーに近いあたりは、ニユーヨークでも最も騒がしい区域に属する。其処に私たちの研究室があつたから、遠雷が幾つも重なつたやうな音がたえず聞えて来るのであつたが
「この歌をうたふと、二人でコンコードあたりの田舎へ遊びに行つたやうな気がしますね。」と、私たちはよく語りあつたものである。
イギリスへ渡つて、友人のTとハイド公園(パーク)に遊び、川沿いの緑の色があまりにも美しかつたので、私がこの「スマイルス」をうたふと、Tは、
「御経をきいて居るやうだなあ。」
と言つた。
それ以後、私は、「スマイルス」を他人の前ではうたはぬことにして居る。
ニユーヨークの研究室の主任をして居たCといふドクターに、ある日私が、日本に妻を残して留学に来て居るのだと話したら、それまで凡そ半年ばかり、私が独身であるとばかり思つて居たC氏は、眼をまるくして、
「それは本当ですか?」
とたづねた。
で、私が、日本人が海外旅行をするとき、多くは妻子を本国に残すことになつて居るのですと説明すると、C氏は、
「へえ、日本人は、辛抱強い国民ですねえ。」
と感心した。C氏がドイツへ留学したときは無論夫人同伴であつたし、又、アメリカ人は、よくゝゝ(※4)の事情がなければ、細君を残して単独に旅行することがないから、同氏の不審がるのも無理はなかつた。
日本人だとて、アメリカ人だとて、生理的の慾望には、それほどちがひはない筈だから、C氏が、日本人をもつて辛抱強いといふのも無理はなかつた。
ところが、よく考へて見るに、日本人が細君を残して来るのは決して、「辛抱強い」ためではない。その証拠には、外国へ来て半年も過ぎると、ことにそれが、いはゆる真面目な人であると、必ず一種の疾病にかゝるのであつた。医師はこれをノスタルジアといふのであるが、いはゞ神経衰弱の一種なのである。眼が何となくきよろゝゝゝ(※5)して獣性の光りを帯び、頬がこけて蒼ざめ、たえず手が動いて、見るからに、内心のいらゝゝ(※6)して居る様子がわかる。
ところが、このやうな症状を呈したものを気のきいた友人が、あるところへ連れて行くと、不思議にも、「スマイルス」の文句ではないが、日光に露が盗み去られるやうに、その症状が退散する。
「おい、あの男も、例の病気にやられて居るやうだぜ、何とかしてやつてくれないか。」
「よし、今夜連れて行かう。」
ニユーヨークの日本人クラブの玉突部屋の一隅で、マナタン・カクテール(Manhattan Cocktail)をすゝりながら、よくかうした会話が、医学生たちの間にとりかはされたものである。
Eといふ教育家は、ニユーヨークに来てから、半年になつたが、一ヶ月ほど前に、その細君の死んだといふ報を受取つて、高度の神経衰弱にかゝつた。四十を越した男の神経衰弱は殊更にみぢめなものであつて、今二三ヶ月をそのまゝにして置いたら、どんな悲劇を生じないとも限らぬ有様であつた。
医者のMは、早くもこれに気づいて、早速適当な治療法を施してやつた。すると、一週間たゝぬうちに、Eの精神状態はがらりと変化した。
丁度その快活な時期に私はMの紹介でEに逢つたのである。
「よかつたぞ、君。まつたく、日本人を取り扱ふことに妙を得て居るよ。いや、日本人の誰でもあれには及ばぬよ。」
Eはいかにも嬉しさうであつた。さうして、その時の経験をこまゞゝ(※7)と語つた(。)(※8)
すると、しまひにMが言つた。
「おいEあれがひどいちんば(※9)なことを貴様知つて居るだらうな?」
Eの長い顔が一層長くなつた。
「えゝ? ちんば(※10)? 本当か? そいつはちつとも気がつかなかつた……」
(完)
(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文ママ。
(※3)原文句読点なし。
(※4)(※5)(※6)原文の踊り字は「く」。
(※7)原文の踊り字は「ぐ」。
(※8)原文句読点なし。
(※9)(※10)原文圏点。
底本:『騒人』昭和2年8月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2017年4月14日 最終更新:2017年4月14日)