古代の疾病及び医術を知る上に、木乃伊は極めて重要なる材料である。人体を木乃伊として保存する方法はエジプト人の創案であるらしく、最初は国王の死体に試みられ、次で貴族社会に行はれ、後に一般の風習となつたものである。いふ迄もなく木乃伊は、死体の脳髄や内臓を取り除いてから、松脂、バルサム、食塩、曹達等の防腐薬をもつて処置し、ついで火に燥かして拵らへたものであるから、木乃伊の研究によつて、所謂内科的疾患の委細を知ることは困難であるが、必ずしも内臓の悉くを取り去つたものではなく、又一旦取り去つた内臓を防腐的に処置して布につゝみ、再び体内におさめたものもあるから、時としてはそれ等の内臓の病理学的研究も行ひ得る訳である。
然し、何と言つても、材料が材料であるから、木乃伊によつて古代の疾病に関する一般的知識を得ることは不可能である。たゞ幸ひに骨の疾患だけは相当に委しく知り得るのであつて、この点はかの人類学的疾病研究と殆んど同じことである。即ち有史以前の人類の疾患は、たゞ骨の疾患より外知り様がないのである。
さて、木乃伊の研究によつて、古代エジプト人がどんな疾患に悩んだかといふに、もとより断片的の知識ではあるが、こゝにそれを拾ひあげて見るならば、先づ諸種の結石病がある。膀胱結石、腎臓結石、胆石等がこれである。然し、これ等は極めて稀であつて、従来研究されたエジプト及びヌビアの木乃伊約三万のうち、膀胱結石が二例、腎臓結石が三例、胆石が一例である。次には動脈の疾患でこれは数例が報告され、可なりに詳細な研究が、シヤツト(※1)ツク教授によつて行はれた。
佝僂病や黴毒はエジプトの木乃伊に見られないさうである。黴毒の起原については、従来二説があつて、その一つはコロンブスの一行が新大陸から持つて来たといふ説、他は欧洲に昔から存在して居たといふ説で、もとより前者が遙かに有力であるけれども、後者を主張する学者もなほその跡を絶たず、それを証拠立てようとして、血眼になつて材料をさがしつゝあるのである。その材料としてはいふ迄もなく、黴毒性変化を有する骨であつて、一時有史以前の欧洲土着の骨に黴毒性変化を発見したとて問題になつたが其の後の研究によつて、それは黴毒性変化でないことがわかつた。エジプトの木乃伊も、この目的のために大に研究されたのであつて、もしその中に黴毒性変化を発見することが出来たならば、コロンブスがはじめて持つて来たといふ説は覆される訳であるが、悲しいかな、エジプトの木乃伊には、まだ、たしかな黴毒性変化は発見されて居ないのである。
先天性の黴毒は通常歯に特有な変形をあらはすものであるが、やはり木乃伊には、そのやうな歯の変形は発見せられて居ない。従つて、黴毒はコロンブスが持つて来たといふ説を取らねばならぬ。これは単に遺骨の研究からばかりでなく、黴毒流行史の上からでももはや動かすべからざる説となつて居るのである。
黴毒と反対に、結核性疾患は木乃伊にしばゝゝ(※2)見られて居る。ヌビアの木乃伊に八例の脊椎カリエスが認められ、又、股関節結核が、第五王朝(ダイナスチー)の木乃伊に発見された。次に大腿骨の肉腫と、上膊骨の肉腫も認められた。なほ後代の木乃伊から、癌腫も発見された。かの痛風と称して、関節に尿酸塩類のたまる病気は、英国に甚だ多く、通常老人に見られるものであるが、西暦紀元後間もなき頃の木乃伊にその定型的のものが発見された。それは白髪白髯の男で、足関節、趾関節その他の関節が著しく膨れ上つて、それを開いて見ると白色の塊が充ちて居た。さうして、それをシユミツト氏が分析して見ると、果して尿酸塩であつた。
ずつと古い時代、即ち王朝(ダイナスチー)以前の木乃伊に、歯を見ることは殆んどないといはれて居る。然し、砂の多く混じた食物を摂つて居つたゝめに、歯が磨り滅つて穴があき、そこから黴菌がはひつて、歯槽が化膿した痕跡の認められるものは相当に多い。ところがピラミツド時代以後一般に食物に贅沢をするやうになつてから、齲歯が非常に多くなつた。ギゼーのピラミツド附近の発掘によつて得られた五百余個の木乃伊の統計によると、齲歯を有するものの割合は、今日のヨーロツパ人のそれと殆んど差異がなかつた。さうして、貧者の木乃伊は甚だ少なく、殆んど常に富者の木乃伊に認められたのであつて、まづいなまの物をさへ食べて居れば歯はつねに健全であるとは、古今の通則と謂つてよい。
齲歯がこのやうに多く見られるに拘はらず、その齲歯に人工的処置を施したものは一例も発見されて居ない。して見ると、古代エジプト人は、歯科の方面には頗る疎かつたといはねばならない。
乳嘴突起炎はエジプト及びヌビアには非常に多かつたらしい。又、虫様突起炎が、ビザンチン時代の婦人の木乃伊に発見され、同じ頃のものに肋膜炎の痕跡も認められて居る。癩病は古代それ等の地方に甚だ多かつたやうに想像されて居るが、木乃伊で癩病の発見されたのはたつた一例で、西暦紀元後のものである。又ラメツセス五世の木乃伊の皮膚に痘瘡の跡らしいものが見えるが、もとより、はつきりした診断はつきかねるとの事である。
木乃伊には、どうした訳か、前膊の骨折が甚だ多い。骨折の場合には「副木」が用ひられたのであつて、色々の形をした副木が残つて居る。エジプトの古代記録即ちパピルスには外科的治療のことが委しく書かれて居るにも拘はらず、この副木以外に、外科的処置を施した形跡のある木乃伊はまだ (※3)見されて居ないのである。
最後に古代の医学的処置として興味あることは、小児の疾患に、皮を剥いた廿日鼠が使用されたことである。これは現今でも欧洲で行はれて居る習慣であつて単に欧洲ばかりでなく、どうやら世界中に拡がつて居ることであるらしい。和漢三才図会にも、鼠肉は小児の疳腹大に食を貪る者を治すとあるが、欧洲では小児が非常に重態に陥つたとき鼠を薬として用ひるさうである。ところでナガ・エド・デールの王朝以前の墓地から発掘された数個の小児木乃伊の消化管内に、鼠の骨が発見されたのである (※4)だからこれはやはり、小児の重病をなほす目的で、鼠の皮を剥いて食べさせたのであらうと結論されたのである。
以上が木乃伊に発見された医学的事項の主要なものであつて、木乃伊の疾患を知ることは比較的容易であるとしても、古代の医術そのものを知ることは甚だ困難であるといはねばならない。然し幸ひに私たちは各種の、パピルスによつて、エジプトの医術の委細を知ることが出来る。これ等のパピルスで有名なのはロンドン・パピルス、ウエストカー・パピルス(、)(※5)ブルグシユ・パピルス、エーベルス・パピルス、ハースト・パピルス等である。なほマクス・ミユラー氏の発見したメンフイス附近の墓の扉に刻まれた外科手術の絵はこれ等のパピルスより以前のものであるといはれて居る。又、第十一王朝のある王妃の所有した薬箱には薬匙や生薬の壺が入れられて居て、重要な研究資料となつて居る。さうして今日では、エジプト医学については可なりに詳しいことが知られて居るのであるが、それはこゝに記すべき範囲ではない。
(※1)原文「ト」は小文字。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)(※4)原文一字空白。
(※5)原文句読点なし。
底本:『騒人』昭和2年6月号
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(リニューアル公開:2017年4月14日 最終更新:2017年4月14日)