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陪審制度宣伝劇

小酒井不木

 八月廿六日から四日間、昼夜二回づつ、名古屋末広座で、陪審制度宣伝劇「パレット・ナイフ」が喜多村緑郎氏の舞台監督によつて上演されたについて、原作者たる私にそれについて何か書けといふ編輯者からの注文があつた。誠に御粗末な作であるから、それについての感想も烏滸がましいと思つたけれど、探偵小説の劇化又は探偵劇の創作は、今後追々盛んになるであらうと思ふから、敢て書かせてもらふことにしたのである。会費が五十銭であつたためか、各回とも大入満員で、総計一万五千人余(よ)の入場者があつたことは、興行上大成功であつたが、劇そのものは、考へれば考へるほど破綻の多いものである。
 七月の半ば頃、私の知り合ひの某弁護士が他の二人と共に来訪して、大正十七年から実施さるゝ陪審制度の宣伝をするため、芝居がやりたいと思ふから、脚本を書いてくれないかといふことであつた。私はこれまで一度も脚本を書いたことがないから、ちよつと躊躇したけれども、たつてといふことであつたから、兎に角作つて見ませうと御約束した。先方の話では七月下旬に上演出来るやうにはならないかとのことであつたけれども、私が、八月五日迄は、到底着手出来ない事情があつたので八月十五日に御渡ししませうと言つて別れた。
 彼此するうちに八月になつた。これまでは少しも、そのことについて考へる暇がなかつたが、八月に入つても、色々用事が出来て、困つたことになつたと思つた。でも一旦約束した以上は作らねばならぬと思ひ、頻りに考へて見たのである。
 陪審制度宣伝劇である以上、法廷の場を取り入れなければならない。又、興味を多くするためには殺人事件を取り扱はねばならない。而も犯人がわかつて居ては裁判そのものが面白くなくなるから、いはゆる探偵小説のコツで、真犯人でない人に嫌疑がかゝつて起訴され、裁判の結果無罪になり、あとで真犯人がわかるといふ風にしなければならない。
 この条件を充して、而も、芝居としても興味のあるものでなくてはならぬので、これは随分むつかしいことになつたと思つた。然し、元来、物ごとにあまり屈託したことのない性分なので、どうにかなるだらうと思つて、今迄読んだ外国の探偵小説を思ひうかべて見た。その結果私はオルチー夫人の『隅の老人物語』が芝居にするには適当だと思ひつき、あゝいふ風なトリツクを使はうと決心し最近京都で起つた某事件からヒントを得て、たうとう一つの筋をまとめあげたのである。然し、時日がないのと、脚本に経験のないため、潮山長三氏の助力を仰ぐことにして、兎にも角にも約束の十五日迄に出来上つたのが、「パレツト・ナイフ」三幕六場なのである。
 筋を簡単に言ふと、田中といふ極めて意志の弱い青年画家が、ある芸者屋に出入するうちにそこの娘秀子と恋に陥る。ところが、その家の女将で、秀子の叔母に当るお道といふのが、田中に恋慕し、田中を口説き落して遂に情夫としてしまふ。さうして、お道は田中から秀子を遠(とほざ)けるために、某会社員から秀子を嫁に貰ひ受けたいと言はれたのを幸ひに秀子の意志に反して、婚約を取りきめる。
 ある夜、芸者屋へ結納金三百円が届く。そこへ田中が来合せる。田中はかねて、零落した神戸の叔父から三百円の無心をいはれ、而もその叔父が急病になつたので、明日は神戸へ行くことになつて居るのである。すると、秀子が結婚をきらつて、明日の朝早く大阪へ逃げるつもりだといふので、二人は一しよに駆落ちすることにきめる。
 その夜、芸者屋へ強盗がはひつて、お道を殺し、結納金の三百円と、お道のはめて居た指環を奪つて逃げて行つた。お道の胸に田中の使用するパレツト・ナイフが刺さつて居たので、田中は逮捕され、起訴され、裁判を仰ぐことになつたのである。
 裁判の結果、田中は証拠不十分で無罪を宣告される。真犯人は、その芸者屋の桃代といふ芸者のお客で前科数犯の曲者であつて、その夜桃代から三百円の金が届いたといふことをきいて盗みにはひり、お道に眼をさまされたので、傍にあつたパレツト・ナイフで殺したのである。
 かくの如く、出来上つたものは、常套的な探偵劇で、観客(けんぶつ)には犯人が田中であらうと思はせるやうにしたのであるが、果して、作者の狙つた効果があらはれたかどうかは、観客(けんぶつ)にきいて見なければわからない。尤も、お道殺しの場面も見せ(、)(※1)お道が覆面の男を見て誤つて「田中さん、田中さん。」と呼ぶのであるから、他の状況証拠と合せて、観客(けんぶつ)も田中に嫌疑をかけねばならぬやうにはなつては居る。
 さて、探偵小説と同じやうに、序幕に真犯人を出すことは忘れなかつたが、結末で真犯人をわからせるにはどうしてよいかに頗る迷つた。髷物の芝居なら、法廷へ真犯人が駆けこんで来て自白するといふ手段も取れるけれど、陪審法廷ではそれが許されない。で、「半七捕物帳」式に、幕を下してから、誰かに説明させようかとも思つたが、この芝居では、それが面白くないので、結局、裁判所構内へ、真犯人が判決の結果をきゝにやつて来て居て、そこで発見されることにしたのである。従つて其場で立ち廻りが行はれ、観客(けんぶつ)にはいゝお土産が出来た訳である。
 愈よ脚本が出来上ると、主催者側は、喜多村緑郎氏に舞台監督を願ひに行つた。すると喜多村氏は、快く承諾して演出をして下さつた。さうして脚本の不備な点、矛盾した点を懇ろに補正して下さつたのであるが、私は今更ながら、脚本を書くことのむつかしいことを知ると同時に、はかり知れぬ利益を得たのである。それと同時に、喜多村氏が来て下さるほどならば、もう少し時日に余裕があつて、型を破つた探偵劇を考へればよかつたのにと思つたけれど、もはや何とも致し方がなかつた。然し、今回の経験によつて、探偵小説の劇化なり、又は探偵劇の脚本創作なりに可なりの希望を持つことが出来たのであつて、今後機(をり)があつたら、やつて見たいと思つて居る。
 陪審法廷に於ける裁判長の訊問、検事の論告及び弁護士の弁論はすべて、主催者側に一任した。みんな本職の人ばかりであるからである。然し、愈よやつて見ると、可なりに冗長なもので、頗るだれ(※2)気味であつた。で、私は、今後もし、陪審劇を書くならば、法廷の場もみんな作者が書いて、たゞその不備な点を専門家になほしてもらふことにしたいと思つて居るのである。
 喜多村氏の演出の御蔭で、己惚(うぬぼれ)かもしれぬがこれまでよく行はれて居る何々宣伝劇なるものとは、多少趣きを異(こと)にすることが出来たやうに思ふ。この機会に同氏に切に感謝の意を表して置く。

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文圏点。

底本:『新青年』大正15年11月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年3月24日 / 最終更新:2017年3月24日)