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胎盤を喰ふ話其他

小酒井不木

胎盤を喰ふ

 今から数年前、美濃国垂井附近の田舎に起つた話である。ある冬の日、村の若い連中が、日の暮れ方に山で木を伐つて居ると、その傍を馬肉屋の小僧がとほりかゝつた。小僧はみんなと顔馴染だつたので、肉を入れた車を曳きながら、二言三言話をして笑ひ興じて過ぎ去つた。すると、すぐその後から、同じ道を、一疋の犬がとほりかゝつた。見ると、口に大きな肉塊をくはへて居たので、さては今の馬肉屋の小僧が落した馬肉にちがひないと思ひ、若い者たちは、忽ち犬を包囲して、その肉塊を奪ひ取つた。
 それから若い者たちは、そのうちの一人の家に集つて、その馬肉を料理して煮て食べたのであるが、その夜、家に帰つてから、一人残らず、劇烈な腹痛を起して瀕死の状態に陥つた。早速医師を招いて見てもらつたところ腐肉の中毒だとわかつたので、医師が彼等の喰べた馬肉の残りを検べて見ると、馬肉とは思ひの外、それは相当の日数を経た人間の胎盤だつたのである。人間の胎盤を馬肉と間違へるなど、一寸、あり得べからざるやうなことであるが、間違ふ段にはひどく間違ふものである。一片(きれ)か二片(きれ)食べて見れば、気がつきさうであるのに、気がつかなかつたところを見ると、或は胎盤の味が馬肉の味に似て居るのかも知れない。それ等の若いものたちは、医師の応急手当によつて、幸に恢復することが出来た。
 以上の話を材料として、私は、「大衆文芸」七月号に発表した、「狂女と犬」なる物語をつくつたのである。

胎盤を焼酎で洗ふ

 私の郷里は尾張国の蟹江といふ所であるが、附近一たいに妙な迷信がある。それは、父の知れぬ子を生んだ時、胎盤を焼酎で洗つて日光に当てると、その胎盤の上に男の定紋があらはれるといふのである。無論科学的には信じられない話である。昔は、後産を焼酎で洗ふことによつて、立派に、その父を判別したといふのであるから面白い。私はその一例を左に紹介しようと思ふ。
 それは私の叔父に関係した話である。私の父の兄に当るのであるが、私は父の五十過ぎての子であるし、その父よりも二十歳年上であつたのであるから、私の生れた頃には、その叔父は死んで居なかつたから、これは父から聞いた話である。
 叔父は百姓を業(げふ)として居たのであるが、頗る『お人よし』だつたさうである。ある秋の夜叔父が他行して、ぶらりゝゝゝ(※1)と家に帰つて来ると、道ばたから、
『もし、Sさま、もし。』と声をかける男があつた。
『誰だい?』と近寄つて見ると、それは、同じ村の伊藤なにがしといふものであつた。
『Sさま。』と彼は声をひくめて言つた。『別嬪を一人取持つがどうです、えゝ?』と言つてから、彼は叔父の耳に何事をか囁くと、叔父はにつこり笑つてうなづくのであつた。
 その夜、叔父は男の取持ちによつて、村のTといふあばずれ娘と関係したさうである。が、その以後、叔父は二度とその娘に手を触れなかつたので忘れるともなく忘れて居た。
 ところが七八ヶ月過ぎたある日、一人の女が蓆をもつて叔父の家に駆けこんで来た。見るとそれは、かつて関係したことのある娘であつたから、叔父はびつくりしてどうしたのかとたづねると、彼女はそれに返答をしないで、叔父の家の土間にその蓆を敷いて、うんゝゝ(※2)唸りかけたのである。
 叔父が呆気にとられて見て居ると、暫くして、娘は丈夫さうな男の子を産んだ。叔父はその時分、妻を失つて独身であつたから、男の手では、産婦をどうすることも出来なかつた。然し娘は頗るの度胸者で、後産が出るなり、立ち上つて、
『これはあなたの子だから、よろしく育てゝ頂戴!』
 といつた儘、さつさと我が家へ帰つて行くのであつた。
『お人よし』の叔父もはじめて、自分が罠にかゝつたことを知つたのである。即ち伊藤なにがしは、その娘に姙ませたので、その子の始末に困り、叔父を取り持つて、叔父になすりつけようとしたのである。
 そこで、当然その赤ん坊の真の父はどちらであるかといふことを判別しなければならなくなつたのである。さうして、その最も簡易な判別法として、胎盤を焼酎で洗つて、天日にさらすことにしたのである。
 勿論判別は数人の立合人を選んで行はれた。私の父はその傍観者であつたから、その話を口癖のやうに私に聞かせたものである。先づ後産を焼酎の瓶に半日あまり漬けて後、それを取り出し、檜の板の上に載せて、日光に当てたさうである。
 小酒井の紋は『丸に七ツ星』伊藤の紋は『下り藤』であるから、人々は七ツ星があらはれるか、下り藤があらはれるかと固唾を呑んで待ちかまへた。
 やがて凡そ二時間も過ぎたと思ふ頃、果して定紋はありありとあらはれた。誰の眼にもそれは『下り藤』に見えたので、叔父はその子に関係のないことがわかり、その場から赤ん坊は伊藤なにがしに渡されたのであつた。
『本当に下り藤が出たかしら?』と私がきくと、父は、
『この眼で見たから間違ひはない。』といふのであつた。で、今になつてよく考へて見ると、胎盤が日に当つて乾けば、下り藤のやうな皺の出来るのはあり得ることであつて、若し叔父の相手の男の定紋が下り藤でなくて、『扇の地紙』か『団子三つに箸かたし』なんかであつたなら恐らく、判別はむづかしかつたであらうと思ふ。
 父は私の十六歳の時に、六十七歳で死んだのであつて、私はこの話の年代をきくことを忘れたが、明治の初年か、或は明治以前のことであつたと思ふ。

犯人の見舞

 今から三十年ばかり前の話である。私の郷里から二里ほど隔つたところに犬井といふ村があるが、ある夜その村の素封家に、頬かむりをして、大刀を提げた強盗が押し入り、主人夫妻を始め、息子や下女を悉く縛り上げて、あり金を残らず奪つて行つた。
 翌朝このことが、村中に知れ渡るや、真先にかけつけたのは一軒置いて隣りのRといふ百姓で、その素封家の小作人として、平素よく出入りをして居る男であつた。
『ちつとも知りませんでしたが、大変な目に御逢ひになつたさうですなあ。御怪我はありはしませんでしたか。』と、彼は主人に見舞の言葉を述べ、それから傍に居た下女をかへり見て、『お前も縛られたさうだなあ、一たい、そいつはどんな風の顔だつたい?』と訊ねた。すると、下女は声を顫はせながら、『顔はよくはわからなかつたが、声から、背恰好から、お前さんにそつくりだつた。』と答へた。
『何? 俺にそつくりだつた。チエツ、ひどい奴があつたもんだ。俺が居たなら、叩き殺してやるだつたに。』
 と、彼は肩をいからせて威張つて見せた。
 が、その実、強盗は彼自身だつたのである。さうして、その時は、不思議にも発見されることなく済んでしまつたのである。主人始め村人に至るまで、今迄一度も悪いことをしたことのないRを疑ふ筈がなかつた。下女自身も、強盗がRに似て居たことを認めながら、Rその人であらうとは夢にも思つて居なかつたのである。
 Rはそれから強盗に味を覚えて、隣村を始め諸所の富豪の家に押し入り、時には刀をもつて人を傷(きずつ)けることさへあつた。が、ある夜、竹田といふところの某家に押し入つて居る最中、悪運尽きて逮捕され、今迄の罪を悉く自白した。
『何が一番恐しかつたかといへば、村の旦那の家へはひつたあくる日、下女に、ゆうべの強盗はお前さんそつくりだつたといはれたとき程恐ろしいことはなかつた。』
 と、Rは訊問の際、係官に向つて告げたさうである。

名刀の切れ味

 これはまだあまり古くない話である。美濃の国のある田舎に起つたことであるが、ある百姓の家に、家重代伝はる名刀があつた。それが村正だつたか、正宗だつたか聞き洩したが、何にしろよく切れるといふことであつた。ところが、その家の当主は多少お目出度い性質であつたのか、それとも懐疑主義の男であつたのかよくはわからぬが、ある日村の人々とわが家で集会を催ほして居るとき、代々伝はる刀の話が出て、人々が、その刀の切れ味を賞讃すると、彼は反対して、
『なーに、名刀だ名刀だといつたところが、それを使ふ人の腕が利かなけりや、そんなに切れるものぢやないですよ。』といつた。するとその場の一人は、
『けれど、よく切れる刀になると、流れ河の中へ立てると、流れてくる藁が、刃に当つて、スツ、スツ、と二つに切れてそのまゝ向(むき)をもかへずに流れて行くといふことではありませんか。』といふのであつた。
 これを聞いた当主は、無言の儘立ち上つて奥の間へ行き、暫くして、白鞘の刀を持つて帰つた。
『一つ切れ味をためして見ませうか。』
 かう言つて彼は庭に下り、更に表の道へ出た。人々は好奇心に駆られて、あとからついて行くと彼は道端に生えて居た直径五寸程の杉の木の前に立つてぎらりと刀を抜いた。
『幹の半分どころまで打ちこめたらお慰みですよ。』と言つて『えいつ!』と掛け声をして、さつと切り下した。
『あつ』といふ間もなく、斜(はす)に切り離された上の方の樹幹(みき)はつるりと前方へ辷つて、彼が左の足を引かぬ先に下へ落ち、彼の足をその尖つた先端で地面へ芋ざしにしたのである。
 この話を題材として、最近私は『猫と村正』といふ一篇の物語を作り上げた。
 いや、『嘘のやうな話』が、自分の創作の種あかしになつてしまつた。ぼろを出さぬ先に筆を擱くことにしよう。(をはり)

(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。

底本:『新青年』大正15年10月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2017年3月24日 最終更新:2017年3月24日)