インデックスに戻る

ヂュパンとカリング

 オーギュスト・ヂュパンはポオの三つの探偵小説、「モルグ街の殺人」、「マリー・ロージェー事件」、「盗まれた手紙」にあらはれる探偵であつて、いはゞ、探偵小説にあらはれた探偵の元祖である。尤も「探偵(デテクチヴ)」なる名称はガボリオーの小説あたりから使用され、ポオはヂュパンのことを別に私立探偵とも素人探偵とも呼ばなかつた。
 然し乍ら、ヂュパンは、「探偵」に必要な条件を殆んど皆、備へて居るといつてもよいのであつて、其後にあらはれた小説中の探偵は、その性格に多少の差異こそあれ、ヂュパンの型を脱することが出来なかつた。だからヴァンス・トンプソンも、『ポオが「モルグ街の殺人」に於て、ヂュパンを創造したとき、彼は小説中の探偵のすべての型を創造した。』と述べて居る。シャーロック・ホームズは、「緋色の研究」の中にヂュパンを批評して inferior fellow と嘲つて居るけれども、彼自身はやつぱり、ヂュパンと同じやうな性質を持ちヂュパンと同じ遣り方によつて事件を解決して居るのである。実際、シャーロック・ホームズを創造したコーナン・ドルイ(※1)自身が、「探偵小説作家は、必ずポオの足痕を踏んで行かねばならぬ」と言つて居るのを見ても、後世の探偵小説家の描く探偵は、畢竟、ヂュパンの型を受け継ぐことになるであらう。
 探偵は観察力が非常に優れねばならない。探偵は推理分析の力が異常に発達しなければならない。探偵は変装に巧みであらねばならない。……こんなことを今更、物珍らしく書いて居ては、本誌の読者に笑はれるかも知れないが、兎に角、これ等の資格をヂュパンは完全に備へて居るのである。ヂュパンに次で出たガボリオーのルコックはヂュパンよりも変装が巧みであるかも知れない。更にその次に出たシャーロック・ホームズはヂュパンよりも、推理観察の力がすぐれて居るかも知れない。然しそれは程度の問題であるに過ぎない。ポオは僅かにヂュパンの出て来る短篇小説を三つ書いただけであるのに、シャーロック・ホームズの出て来る小説は、長短数十篇あるし、又、ルコックの出て来る小説も、長短篇合せると相当の数になるから、已むを得ない訳であらう。
 総じて探偵小説にあらはれる素人探偵は、警察の探偵を翻弄する。例へばシャーロック・ホームズはレストレードを翻弄し、ルコックはゲヴロルを物ともしない。さうして、ヂュパンも同様に警察官を嘲弄して居るのであつて、このこともやはりヂュパンがその元祖となつて居るのである。実際ポオの書いて居る如く、ヂュパンの智嚢は「病的」であるほど深いのであるから、丁度カーライルが、彼の同時代の英国民を「四千万の愚物」と称して嘲つたやうに、警察の探偵を嘲つたのは無理もないことである。
 が、実際の探偵から見れば探偵小説の探偵ほど実在性の少いものはなく、これはかのフランスの名探偵ゴロンが特に指摘した点である。然し小説は畢竟小説であつて実世間の記録ではないから、今後の探偵小説家も、よろしく、警察の探偵を罵り散らすやうな素人探偵を描くがよからう。
 いや、思はずも筆が脇道に走つて、概念論を書いてしまつたが、さて、ヂュパンに対して私がどんな感じを抱くかといふに、まるで一種の機械を見るやうな感じがする。実際ヂュパンは thinking machine である。「マリー・ロージェー事件」を読んで居ると、精巧な機械が、整然として運動し、以てその仕事を行つてゆく姿を見て居るやうである。それは丁度、むづかしい数学の問題が漸次に解かれて行く時のやうな喜びを読者に与へるけれど、喜びはたゞそれだけに過ぎない。即ち読者は事件の解決さるゝのを喜ぶだけであつて、解決したその人に対しては、さほどの親しさ、なつかしさを持つことが出来ないのである。
 然しヂュパン自身は、却つて他人から親しまれることを欲して居ないやうである。すべて、異常に知力の発達した人は、俗人の相手になることを頗る嫌ふ。ヂュパンは夜でなくては散歩に出ない。又、家に居るときは、窓に鎧戸を下して、人工的の光の中で瞑想思考する癖がある。人間を厭(いと)ふばかりでなく、太陽の光をさへ避けようとして居る。ヂュパンばかりでなく、シャーロック・ホームズも同じやうな性質を持つて居て何となく人を寄せつけまいとする態度が明かに見られる。が、私は、それだからヂュパンやホームズが嫌(きらひ)であるといふのではない。どちらかといふと私はさういふ人間が好きであつて、むしろ、彼等に近づき得ないのが悲しいといつた方が適当かも知れない。

 ヂュパンやホームズが、近づき難い人間であるに反して、瑞典(スエーデン)の作家ドウーゼの創造した素人探偵レオ・カリングは、いかにもなつかしみを感ぜしめる人物である。彼は永久に書生肌の抜け切らぬ男である。さうして彼は読者のすべてを自分の親友としなければ気が済まぬといつたやうな男である。ドウーゼの小説を読んで居ると読者はカリングと一しよに仕事をして居る気になり、動(やゝ)もすると、カリングと同じ程度に事件を解決することが出来さうに思はれて来る。それで居てやはり、最後に至ると、カリングに一歩先んぜられてしまふ。ホームズやヂュパンには読者は到底ついて行くことが出来ずいはゞ「先達は雲に入りけり」の感があるが、カリングと歩いて居ると、どうかすると自分の方が先になれさうに思へることがある。この点がカリングの徳であると同時に、ドウーゼの小説の優れて居るところでもある。
 アルセーヌ・リュパンにもかうした点がないでもないが、やつぱり近づき難いところがある。リュパンもカリングも愛国心が強いが、リュパンの愛国心とカリングの愛国心とを比べて見ると、カリングの愛国心が私たちの持つ愛国心に一致し易い気がする。ドウーゼの小説でカリングの愛国心が露骨に描かれてあるのは、「夜の冒険」と「スペードのキング」とであつて、この二篇を読めばよくわかる。
 ホームズやヂュパンとちがつて親しみ易いとは言つても、カリングが推理や観察の力に於て、彼等に劣つて居るといふ意味では決してない。彼は自分の鋭い観察力によつて発見した「クリュー」を、読者に惜し気もなく示してくれるために、彼の鋭い観察力が特に目立たぬといふ迄である。彼はよく考へよく想像力を働かせるが、決して thinking machine ではなく、どこまでも thinking man である。情にも動かされるし、恋もする。この点が所謂「探偵型」にはまつて居ないかも知れないが、そのために、私たちに親しみを持たせることは事実である。
 ガボリオーの書いたルコックは変装が非常に巧みであるが、カリングもまたルコックに劣らぬ変装好きである。変装の好きなといふことは冒険好きであることを意味し、これまた、若い読者に親しみを感ぜしめる。「仕込杖」と、「四つのクラブの一」には彼の変装振りの如何に巧みであるかといふことが遺憾なく描かれてあるが、「仕込杖」の中では、実に、彼はカリングといふ素人探偵と、レルネルといふ職業的探偵の二役をつとめて読者をあツ(※2)と言はせて居る。
 この、変装をしたがる癖の外には、彼には別に特種の癖といふものがない。ヂュパンの癖は前に述べたが、ホームズに、コカインと音楽を偏愛する癖のあることは読者のよく知つて居られるところである。カリングは探偵になるまでによく社会の暗黒面に出入りしては人間研究をする癖があつたが、探偵になつてからは、さうした癖はなくなつた。一般に、深い人間研究をしなくては名探偵になることが出来ぬけれど、人間研究の結果、彼は人間らしい探偵となつて、探偵らしい探偵とならなかつたゝめに、私たちをしてなつかしみを覚えしめるのである。(完)

(※1)原文ママ。
(※2)原文圏点。

底本:『新青年』大正15年2月増刊号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2017年10月6日 最終更新:2017年10月6日)