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仮死と犯罪

一、緒言

 エドガー・アラン・ポオの短篇小説の一に『木乃伊と語る』といふのがある。友人のポンノンナーといふ医師から招待状が来て、『今度埃及(エヂプト)から、従弟が木乃伊を持つて来たから、親戚知己数人で棺(くわん)を開いて検査するが君も来ないか』との勧誘に、早速夜分出かけてその医師の家に行き、人々と共に棺(くわん)を開くと、いかにも皮膚などが艶々して居て、話しでもしさうであるから、医師は面白半分に電気刺戟器械を取り寄せて、彼処(かしこ)此処の筋肉に電流を通じて見たが、もとより動く筈はなく、人々はまさに蓋をしようとするとき、ふと私(作者)は、今まで開いて居た硝子製の眼の上に瞼が蔽ひかぶさつて居るのを見て、驚いてこれを人々に告げると、皆々一時に魂消(たまげ)たが、再び気を取り直して電流を脚の筋肉に通ずると、木乃伊は一旦脚を屈(ま)げ、また直ちに突き伸ばしたので、医師はその為、室の外まで刎ね飛ばされた。それから方々の筋肉に電流を通ずると漸次木乃伊は活力を恢復して、遂に棺(くわん)に腰掛けるまでになつた。そこで、集(あつま)つた人の中のヒエログリフイツク(埃及(エヂプト)の象形文字)の読める人に通訳して貰つて、木乃伊の生きて居た時代の文化の有様を問答して見たが、何を訊いて見ても知らぬものはない。最後にポンノンナー氏錠剤の製法を知つて居るかと聞くと、始めて木乃伊は恥かしさうな顔附をしたので、私はその儘家に帰つたといふのがこの物語の梗概である。而(そ)してポオはこの物語の最後に次の如く書いて居る。『家に帰つたのは午前四時少し過ぎで、私は直ちに床(とこ)に入つた。今は丁度午前十時である。家族のため(、)(※1)人類のために、私は七時から昨夜の木乃伊会見の顛末を書き続けて来たのである。家族など私はもう見たくもない。私の妻は仕様のないじやゝゝ(※2)馬である。実のところ私は自分の生涯、いや、十九世紀なる時代に愛想が尽きて了つた。一つとして碌なことは起らない。それに私は紀元二〇四五年の大統領は誰だらうか、知りたくて堪らない。それ故顔を剃つて、珈琲を一杯飲んだら、早速ポンノンナーを訪ねて、二百年間木乃伊にして貰はうと思ふのである。』
 実際若し木乃伊が再び生き返ることが出来るならば、誰でも右のやうな慾望を起すであらう。二百年どころか、五百年でも一千年でもよい、喜んで木乃伊になつて見たい。が、悲しいかな一旦死んだが最後人はどんなにしても再び生きかへることは出来ない。起死回生といふ言葉はあつても、少くとも現今の知識を以てしては起死回生は不可能と見なければならない。埃及(エヂプト)人が木乃伊を作つたのは、何年かの後(のち)再び魂が還つて来るといふ信仰のもとになされたのであるが、不幸にして我等はその信仰の誤つて居ることを認めなければならぬ。無論伝説には起死回生の術の行はれた実例は沢山ある。早い話が聖書の中で、基督(キリスト)がラザルスを回生せしめた如き是である。その他の経典などにも同じ様な多くの例が記されてあるけれど、現今では不幸にしてその術を伝へ又は行ふものが無い。回生どころか、不老長生の薬さへまだ発見したものはない。秦の始皇の威力を以てしても長生薬は得られなかつた。スタイナツハ氏若返り法といふ言葉も流星のやうに、人人の記憶から今や消失せんとして居る次第である。
 ところが、ある場合には、死んだと思はれた人が、一定の時間の後(のち)再び生きてくるといふ奇妙な現象が、古来度々経験せられて居る。若しさういふことが果して実際にあるならば(、)(※3)かゝる現象を科学的に研究して或は起死回生といふやうなことが出来ないとも限らない。少くともこの『仮死』の状態を人工的に確実に生ぜしめ得るやうになるかもしれない。若し『仮死』が人工的に出来るならば、従つてこれから又色々な犯罪も起つて来るであらう。されば筆者はこの一篇に於て、『仮死』に就ての従来の知見をたづね、併せて犯罪文学に現はれたる『仮死』に就て、記述して見ようと思ふのである。

二、仮死の意義

 仮死とは如何なる状態を謂ふのであるか。この問(とひ)に答ふる前に死とは何であるかといふ問題を明かにしなければならぬ。然し乍ら、死の定義は人々が考へて居る程容易なものではない。此処では詳細な議論をなす余裕がなく、通常生活機能の永久の停止を『死』と名(なづ)け、停止した生活機能が再び活動を始むることが出来る場合に、その生活機能停止の状態を『仮死』(狭義の)と名付けて居るのである。
 然らば生活機能又は生活現象とは抑も何であるかといふに(、)(※4)之を三種に区別することが出来る。第一は新陳代謝(物質代謝)の現象、即ち一定の物質が外界から生物の体内に入つて生体を造り上げ、同時に生体の一部が壊されて不用な物質が外界に投げ出されること。第二はエネルギーの転換、即ち外界から一定の勢力根源を仰ぎ、之を体内に於て他の形の勢力に変じて外に現はすこと、第三は形体の変更、即ち発育、成長、生殖等である。
 生物が棲息する周囲(生物体の内外を含む)の状況が生物に取りて都合よき状態にあるときは、以上の如き生活現象は盛んに行はるゝのであるが、若し周囲の状況に一定の変化が生じ、生活機能を営むに都合が悪い状態になると、生活機能は最小限度に営まるゝか、或は全く一時又は永久に停止するのである。学術上、生活機能の最小限度に営まるゝのを『ヴイタ・ミニマ』(最小生活)と名付け、一時停止するのを『潜在生活』と名(なづ)け、再び生活機能を復活し得るとき、この二つを広義の『仮死(アナビオーゼ)』Anabiose と呼ぶのである。之に反して、一旦停止して機能が再び復活し得ざる状態にあるときは之を『死(ネクロビオーゼ)』Nekrobiose と称するのである。
 最小生活も潜在生活も畢竟程度の問題であつて、生活現象が全然停止したといふのも、生活現象を営んで居ることが我々に認められぬといふだけであつて、検索方法が進歩すれば或は之を認むることが出来るかもしれない。ことに高等動物にありては、所謂仮死の状態に於てもなほ微細な呼吸運動等は存して居るものである。又、高等動物にありては、心臓、呼吸の機能が停止したとき之を通常死と名(なづ)けて居るのであるが、かゝるときなほ四肢の筋肉は電気に対する興奮性を有し、気管内の氈毛(せんもう)の如きは依然活動しつゝあるのである。かういふ訳で、厳密に仮死又は死を定義することは非常に困難であるから、本篇に於ては所謂仮死と称せらるゝもの、即ち見た所死の状態にある場合例へば『人事不省』等と呼ばるゝ状態を総括して記述しようと思ふのである。

三、動植物界に於ける仮死

 ハーレーの記載に依ると、ある紳士が、埃及(エヂプト)の木乃伊の胃の中にあつた苺の種子(たね)を取つて、之を庭に蒔いたところ、間もなく芽を吹いて大(おほい)に繁茂したといふことである。その他木乃伊と共に棺(くわん)の中に収められて居た穀類を蒔いてそれが立派に芽を出したといふ報告は度々せられて居る。かくの如く植物の種子は何百年といふ長い間仮死の状態にあることが出来(、)(※5)又、梅、桜等が、冬期に落葉して、殆んど一時生活現象を停止して居ることは人のよく知る所である。
 マクロビオーツスと称する蜘蛛類に属する細小動物は、四対の有鉤歩行脚を有し、咽頭、胃、肛門、唾腺、生殖器、神経系統等をも具へ、たゞ気管系と血管系を欠いて居るが、此の小動物を乾燥せしむるときは次第に水分を失ひ、萎縮し、原形を変化して砂粒(しやりふ)のやうになつてしまふ。ところがかゝる砂粒(しやりふ)様のものを水に投ずると、皺襞(すうへき)は次第に伸び、身体は膨脹し、原形を復し、再び活動するに至るものである。其他『ロタトリエン』と称する種類の動物に就ても同様なる仮死の現象が知られて居る。
 一八四五年三月、大英博物館の一室に、ジヨン・ラボックといふ人が、埃及(エヂプト)から携へて来た蝸牛が陳列された。無論その蝸牛は死んで居るものとして、標本として、札を貼り附けてその上に説明が書かれた。ところが五年過ぎた一八五〇年三月、どうもその蝸牛の口元が大きくなつた様に思はれたので、人々がこれを取り出して水の中に入れると、果して蝸牛は間もなく活動を始め、次で、与へられたる菜の葉を貪り食べた。
 蛇、蛙(かはづ)などの冷血動物が冬眠をすることは周知の事実である。或人が蛙(かはづ)を氷箱の中に貯へたら、その蛙(かはず)は三年間冬眠した。そして、三年の後再び常温の中で、蘇生せしむることが出来た。又、ある蟇(がま)は六十七年間も冬眠して居た。それはある樹幹(じゆかん)の中に入りこんで居たのであるが、年輪によつてその冬眠の年月を知ることが出来た。尤も如何にして蟇(がま)がその樹の中に入り込んだかは不明であつた。
 温血動物の中にも冬眠するものがある。ドイツ語でムルメルチールと称する動物(「なまけもの」と呼ぶ)の如き之である。この動物に於ては冬眠中、呼吸、心臓其他の運動及び物質代謝が非常に緩慢に行はれるのである。田鼠(たねずみ)は、冬眠して居る枕頭に果実を貯へ置いて、冬日(とうじつ)温かい時眠(ねむり)を覚ましては少し宛(づつ)(くら)ふといふ有様である。蝙蝠も同様な冬眠をする。何れの場合にありてもこれ等の冬眠動物にありては温度の降下が、冬眠の外的原因となることは明かである。又、冬眠動物の代謝機能などの研究は余程深く成し遂げられたけれども、冬眠の内的原因に至つてはよくわかつては居ないのである。換言すれば、冬眠しない動物に人工的に自由に冬眠状態を起さしむることはまだ出来ないのである。

四、人類に於ける仮死

 水に溺れたとき、或は窒息したとき、一旦仮死の状態に陥つて、再び蘇生することあるは何人もよく存知して居る所である。勿論人事不省の時間が極めて短くなくては蘇生することは難い。グリーンやラウブは水に溺れて十五分間の後蘇生した例を報告し、ダグラスは十四分間、ボヴアルは二十五分で蘇生した例を記載して居るが、これ等は勿論最大の限度であつて、通常の場合にはこれより短い時間でも、蘇生せしめ得ない場合が多い。縊死して蘇生した例の中には、十九分間を経てなほ助かつたといふ報告がある。シエヴアースの報告の中に面白い例がある。それは印度(いんど)に起つたことであるが、ある紳士が部下を連れて旅行したとき、暗殺団のために襲はれ、何れも絞殺された。ところが兇徒はなほ其れに飽足らずして、その紳士だけを刀を以て頸部を滅多斬(めつたぎり)にして去つた。然るにその傷から出血して、頭部の充血が減らされて却つて紳士一人が蘇生し、暗殺当時の模様やその兇徒の人相を語ることが出来たため、間もなく犯人は逮捕された。
 西暦紀元前、エムペドクレスは将に埋葬されんとする一婦人を蘇生せしめたがため、希臘(ギリシヤ)人は、人の死後六日又は七日間は埋葬してならぬといふ法律を制定した。又伝説によるとアヰリウス・アヴィオラが病気で仮死の状態に陥り、遂に火葬に附せられ既に火が燃え拡がつたとき、蘇生して叫んだけれども、人々は最早如何ともすることが出来なかつた。
 アスクレピアデスといふ羅馬(ローマ)の名医が、ポンペイ大王の治世時代、田舎の実家に帰つて居ると、丁度村に死人があつて人々は之を火葬に附せんため集合した。ところが、彼が、当の屍体を見ると、まだ死に切つて居ない様子であつたから、取り敢へず、積み上げた薪を壊さしめ、次で手当によつて立派に蘇生せしむることが出来た。この例は羅馬(ローマ)人をして、葬式をなるべく遅れしむるやうな法律を制定せしむるに至り、少くとも八日間は待つべきものであると決定せしめた。
 フィリップ二世の宰相であつた大僧正エスピノラが、死んで将に木乃伊にされんとしたとき、死んだと思はれた大僧正は、執刀者の腕を握つた。有名な解剖学者ヴェサリウスはヒステリーの発作に襲はれ(※6)婦人を死んだものと思つて解剖に取りかゝり、皮膚を傷つけた刹那、婦人が叫び声を挙げたのに驚き、それ以後健康が勝(すぐ)れずして、程経てこの大解剖学者は死んだ。有名な僧侶プレヴォストは一七六三年十月二十三日、カンチリーの森で脳溢血を起してたふれたので、取り敢へず近村に運ばれ、裁判所から検死の役人が来て、その身体を剖検したとき、解剖半ばに、プレヴォストは突然大声を発したので人々は驚いて刀(とう)を引き込めたが、最早、出血のため、救ふことが出来なかつた。
 マツシアンの記載に依ると、一五七一年、ケルンに住んだ一婦(ふじん)(※7)は、仮死の儘埋葬せられたが、墓番の男が、ひそかに墓を開いて、彼女のはめて居た高価な指環を盗みかけた時蘇生した。又ある報告に依ると、メルナッシュと名(なづ)くる、金細工師の細君が死んで、宝石類と共に埋葬されたところ、その夜、乞食がその宝石を奪はんとして、彼女の指から指環を抜き取る刹那彼女は蘇生した。その後彼女はすつかり健康を恢復し数人の子女をさへ生んだ。ザツチアスの記載する所に依ると、ある若い男がペストに罹り死んだ者と思はれて、多くの他の死骸と共に積み置かれたが、その実生きて居たので再び病院に収容された。ところが二日経つて、死んだので墓地に送つたところ、又もやその途中で蘇生した。
 一六三〇年四月十日ペンブローク伯ウイリアムが死んで、木乃伊にされんとした時、最初の一刀が加へられたとき、手を挙げた。次の話は印度(いんど)から英国に帰航する船の中の出来事であるが、旅客の一人なる士官の細君が死んで、水葬に附せられんとしたが、士官は何とかして死体を故郷に持ち帰りたいと願ひ、ために、船の大工共が、長途の航海に適するやうな棺(くわん)を拵へんとして、数日を要し、遂に棺(くわん)が出来上つて、士官は最後の決別をなし、彼女の手に嵌められて居た婚約指環を抜き取つた。指環が非常に堅く嵌つて居たため、彼女は蘇生し、英国に到着したときは完全に健康を恢復して居た。
 アメリカの有名な政治家ヘンリー・ローレンスの令嬢が痘瘡のために死し、屍体を置いた室の窓を開け放して置いたところ、程経て蘇生した。このことに感じて父のローレンスは(、)(※8)自分が死んだときは、死後蘇生して家人を驚かすやうなことのないやうに必ず燃して貰ひたいと遺言した。
 かやうな例はまだこの外甚だ多く、何冊かの書物にせられて居る程であるが、左にポオの小説に引用せられた実例だけを書き加へて置かうと思ふ。

五、ポオの小説「プレメーチユア・ベリアル」

 以上のやうな、仮死のまゝ葬られること即ち「プレメーチユア・ベリアル」を題材としてポオは一つの物語を書いた。この物語の最初の部分にポオが聞いた実例が書かれてあるから(、)(※9)最初先づそれを書き写して見ようと思ふ。
 十九世紀の始め頃のことである。アメリカのボルチモアの有名な弁護士の細君が急病に罹つて、激しく苦しんだ後死亡した。そして誰もその死んだことを疑ふものはなく、死後硬直も起り三日間家に置かれたが、腐敗が起つては悪いので、その家代々の墓室にその棺(くわん)は安置された。三年を経て、石棺に移し入れようと思つて弁護士が墓室の戸を開くと、驚いたことに、彼女の細君の骸骨が、バラゝゝ(※10)と其の手に落ちかゝつて来た。どうした訳かと思つてよく検べて見ると、葬式の後(のち)二日以内に細君は蘇生したものらしく、棺(くわん)の中で藻掻いたため、棺(くわん)は棚から床の上へ落ち、彼女は棺(くわん)の外に出たが、鉄の扉の内側に散つた棺(くわん)の破片から想像すると、彼女はその破片で鉄の扉を叩いて、開けてくれるやうにと焦心(あせ)つたものらしく、遂に事情がわかつて、恐怖のあまり死に、たふれ様、経帷子が扉(ドア)の鉄細工に引つかゝり、かくて、直立したまゝ骸骨となつたのであらういふ(※11)のである。
 次は、一八一〇年仏蘭西(フランス)で起つたことである。ラフールカードといふある田舎の富豪の若い娘が、巴里(パリー)の貧乏な雑誌記者ボスエに非常に恋せられたに拘はらず、家の位置を考へてルネーユといふ銀行家に嫁した。ところが銀行家は彼女を虐待したため、彼女は悲惨な数年を送つて遂に死に、共同墓地に葬られた。恋人ボスエは之を聞いて遙々田舎に旅行し、せめて彼女の頭髪を記念(かたみ)に身につけむものをと、ある夜墓地を掘り返して棺(くわん)を開いた。彼が将に毛髪を切り取らむとする刹那、彼女はパチリ眼を開(あ)いた。よく見ると彼女はまだ死に切つては居なかつた。驚きと喜びのため死に物狂ひになつて彼は彼女を取り敢へず村の宿に担ぎ込み、興奮剤を与へたところ、彼女は完全に生き返つた。この結果ボスエは遂に其の恋を成就し、彼女とともにアメリカに逃れ、二十年を経て故国に帰つた。ところが計らずも前夫ルネーユの認むる所となり(、)(※12)訴訟沙汰となつたが、前夫の告訴は遂に却下された。
 次は、独逸(ドイツ)で起つた話である。立派な体格をした騎兵が、馬から落ちて頭部に重傷を負ひ、忽ち人事不省に陥り、病院に入れて検査すると、軽度の頭蓋骨折があつたのみで、別に危険な状態でもなく、穿顱術(せんろじゆつ)其他の応急手当に依つて一時意識を恢復したが、間もなく昏睡状態に陥つて遂に死亡した。直ちに共同墓地に埋葬せられ、葬式は木曜日に営まれた。ところが日曜日になつて参拝者連が墓地で雑沓を極めて居ると(、)(※13)ある百姓が、その士官の墓の上に来たとき地下で何かゞ揺れるのを感じた。始め人々は百姓の言にあまり注意もしなかつたが、その男が頻りに主張してやまぬので遂に人々が集(あつま)つて墓を掘り返すと、士官は意識を失つては居たが棺(くわん)の中に坐つて居たので、附近の病院に運んで手当すると果して意識は恢復し、生き埋めの経験に就て色々語つたところが、医者どもが電池で実験を試みると、急に発作が起つて、今度は本当に死んで了つた。
 次は倫敦(ロンドン)の年若い弁護士の話である。名はステープルトンと言つて、一八三一年発疹チブスに罹つて死んだ。医師共は珍らしい病気であつたから、友人どもに頼んで屍体解剖がしたいと頼んだが、友人は拒んだ。それ故医師共はひそかに之を行はんと、妊婦を雇つて葬式後三日を経て、八呎(フイート)もある墓から屍体を掘り出し、ある私立病院で解剖に取りかゝつた。最初先づ腹部に刀(メス)を入れたところ、如何にもまだ新鮮な状態を呈して居るので電池を応用して見ようといふことになり、諸々(しよゝゝ)の筋肉に試みて見た。彼此するうち夜が将に明けんとしたので、大急ぎで解剖を終らうと、再び刀(メス)を執ると、学生の一人が、何か思ひ附いたことがあると見えて大胸筋に電流を通じて見たいと願つた。それ故取り敢ず、その要求通りに行(や)つて見ると、驚いたことに屍体は全身をぶるゝゝ(※14)つと顫はし、解剖台上に起き上り次で床の上に直立し、あたりを見廻して大声を出した。何を言つたかはわからなかつたが、語り終ると再び床の上にたふれた。並居る人は大(おほい)に驚いたが、忽ち気を取り直して介抱し色々手当すると、ステープルトンは完全に蘇生した。ステープルトンの話しに依ると、自分では医師に死を宣言せられたことも、埋葬されたこともよくわかつて居り、解剖室では、『生きて居るのだ』と言つたつもりであつたといふ。
 以上の四例を書いてから、ポオは彼独特の物語の本文に移つて居る。今、その梗概を記すとかうである。『数年以来私はカタレプシーに似た発作に悩んで居る。カタレプシーとは精神的発作によつて数時間乃至十数時間人事不省に陥ることである。患者は知覚なく、外部の運動なく、心臓のみ極めて微かに動き、体温は殆ど無くなり、呼吸も最小限度に行はれ(、)(※15)一見死んだやうである。重いのになると数週乃至数月数年の間人事不省であつて、よほどよく検査しても死と区別することが出来難(にく)いことがある。之れ故このカタレプシーの患者は屡(しばゝゝ)生き乍ら埋葬される。私の病気は比較的軽くはあるが(、)(※16)それでも時々右のやうな発作状態を経過するので、私は『プレメーチユア・ベリアル』の実例などを聞いて、私もこの発作の際に生き乍ら埋葬されやしないかと思つて、段々それが気懸りになり、夜など、骸骨と話しをして居るやうな厭な夢を見ることが多くなつて来た。友人共は私の病気のことをよく知つて居てくれるから私を生き埋めにするやうなことは万々(ばんゝゝ)あるまいとは思つても、どうも宛にならぬやうな気がして来た。それ故友人達に私の心配の点を話したら、友人共は、身体が腐敗しなければ決して埋葬はしないから心配するなと言つてくれた。それでもまだ気懸りになつてならない。遂に私は『プレメーチユア・ベリアル』を防ぐため、墓室の扉(ドア)が中から開けられるやうに作つて貰ひ、光線も空気も入るやうな装置を施した。又、棺(くわん)の蓋は自由に開き、その天井からは大きな鈴を吊して、それを鳴らせば、外まで聞えるやうにしたが、それでも私はまだ気がかりで仕方がなかつた。
 ところが、あるとき私が例の如くカタレプシーの発作から、徐々に知覚を恢復すると、どうだらう、何だか身体の工合が、いつもとは変つて居るので、やつとのことで重い瞼を開けて見ると、あたりは真闇(まつくら)である。はつと思つて叫ばうと思つても声が出ない。気がついて見ると、顎が締(しば)られてある(。)(※17)そして私はかたいものの上に横はり、両側には同様なものがあつて、つまり私は狭い箱の中に置かれて居ることがわかつた。上の方はと思ふとやはり木の板が横はつて居る。――私はたうとう棺(くわん)の中に入れられて居るのだとわかつた。それで私は自分が予(かね)て用心して置いたから、蓋を開けようと思ふと(※18)蓋は開かない。鈴の紐はと、手さぐりして見ても無い。これは私がどこか、知らぬ土地で発作を起して、それがためにたうとう生き埋めにされたのだとわかつた。どうしたらよからう。絶望のあまり大声を絞ると、『どうしたんだ』『出よ出よ』『何といふ大声だ』といふ三四人の声が聞え、そして人相の悪い男に揺り起された。
 事情はかうである。友人と共に田舎へ猟に行つた所、途中雨が降り出して、夜になつたから、河に繋いである土を積んだ小船に一夜を明かすことになつた。そこで私等は狭い棺(くわん)のやうな船室に寝たのである。そしてふと、眼がさめてすつかり感違ひしたのである。私を起した男は船から土を陸に投げ移して居た人々で、顎を締(しば)つた手巾(ハンカチーフ)は、夜帽(ぼうし)の代りに私が巻いたものであつた。
 このことあつてから私は、私の神経衰弱を癒(なほ)すために欧洲を旅行し、すつかり健康を恢復して再び、前のやうな取り越し苦労はしないやうになつた。』

六、カタレプシー

 前記のやうなカタレプシーの状態は重症ヒステリー患者や精神病者に屡(しばゝゝ)見らるゝ所である。読者はコーナン・ドイルの小説『シヤーロツク・ホームズの記念』の中の『レジデント・ペーシエント』なる一篇に、ある男が、このカタレプシーの発作に悩むと偽つて医師を訪ね、その家の模様を偵察に来ることが書かれてあるのを記憶せらるゝであらう。カタレプシーはある場合は、死と選ぶことなき状態を呈し、あるものは昏睡の形としてあらはれる。この状態はアメリカの名医ウエーア・ミチエルなどによつて精細に研究されたが、中には随分面白い例証がある。フアン・カストーヴェンの報告に依ると(、)(※19)オランダのある農夫は一七〇六年七月二十九日から眠り翌年一月十一日に覚め再び三月十五日に眠りに就いた。ミユルレルは十四歳の少女が急にあるものに驚愕して四年間眠つたことを記して居る。最初の一年は一日一分乃至六時間覚め、第二年第三年では九十六時間毎に四時間宛(づつ)覚め、食物は微量を取るだけで、時として十六日間位、便通のないことがあつた。紐育(ニユーヨーク)州ロチエスター附近に住んだある男は五年間眠つたが六週間目位に十六時間位宛(づつ)覚めただけで、二十貫位の体重が十貫位に減少した。ゲーアドナーはある女が百六十日間重い昏睡に陥りその間、食物は人工的にゴム管にて胃に送られたことを記して居る。
 カタレプシーの状態は催眠術(ヒプノチズム)即ち暗示によつて生ぜしむることが出来る。催眠状態とは言ふ迄もなく人工的に発生せしめたる一種の病的精神状態であつて、(「病的」とはこの場合「常態にはない」といふことを意味す)意識の倒錯又は停止及び意志作用の中絶を以てその特徴となし、患者は暗示に罹り易くして、容易に外部の感覚的印象の命令に従ひ、ある観念又は感情に、異常に強く精神力が集注する。この状態は他人に起すことが出来るのみならずまた自分自身にも惹き起すことが出来之を自己催眠と称して居る。それ故カタレプシーの状態は時として、自分で自分に惹き起すことが出来る。印度(いんど)の僧侶(フアキーア)が『定(ぢやう)』に入(い)るのは、この自己催眠によるものと考へた方が適当であらう。既に拙稿『毒及毒殺の研究』の条下に述べた如く、彼等は最初大麻を飲んで然る後『定(ぢやう)』に入(い)るのであるが、大麻は本来麻酔作用があるのみで、誰が飲んでも『定(ぢやう)』に入(い)り得る訳でないから、『定(ぢやう)』に入(い)ることの出来る印度(いんど)の僧侶に取りては大麻はたゞ自己催眠に入(い)る階梯と見た方が正しい解釈であらう。
 二週間なり三週間なり『定(ぢやう)』に入(い)るに就てはその条件として飢餓に堪へ得る性質をも具へていなければならぬ。『定(ぢやう)』に入(い)ることの出来る僧侶は同時に飢餓にも堪へ得るのである。昔から、印度(いんど)の僧侶の間では、所謂『断食の行(ぎやう)』がよく行はれた(。)(※20)『定(ぢやう)』に入(い)ることの出来るのは、断食に堪へ得るやうになつた後でなければなるまいと思はれる。印度(いんど)に於けるジエーン宗の僧侶は断食の競争をなし、三十日、四十日の断食は普通で、一年に一回七十五日の断食さへすると言はれて居る。(『定(ぢやう)』に入(い)る実例に就ては『毒及毒殺の研究』の『毒と迷信』の条を参照して頂きたい)
 自由意志に依つて、『定(ぢやう)』の場合の如く長い仮死の状態を惹き起すことは甚だ困難で、印度(いんど)の僧侶以外にその例は少いが(、)(※21)自由意志によつて短い時間の仮死状態を起した例は屡(しばゝゝ)記録に載つて居る。セント・オーガスチンの知己なるルチルートと名(なづ)くる僧侶はいつでも自由に仮死の状態に陥り、この際呼吸も脈搏も停止し、焼火箸を触れても針で突いても之を喚び覚ますことなく、覚醒の後(のち)皮膚にその痕を残すだけであつた。シエーンの記載によると、タウンセンドといふ一軍人は(、)(※22)自由意志によつて仮死の状態に陥つたが、その際脈搏は停止した。これ等は何れも『自己催眠』を以て説明した方が適当であらうと思はれる。
 自己催眠は練習(修行)によつて達し得らるゝ状態であるから、適当なる練習に依りて誰でも仮死の状態を生ぜしむることが出来るかもしれない。希臘(ギリシヤ)の大哲ソクラテスは数時間微動だにせず立像のやうに直立することが出来たと謂はれて居るが、これも恐らく自己催眠の結果であらうとグレーは書いて居る。

七、毒による仮死と犯罪

 仮死の状態を生ぜしむる毒薬が果して存在するか、どうかといふことは昔か論ぜられた所であつて、現今に於てはまたかくの如き薬剤は存在して居ない。伝説にはかやうな薬剤が存在し、沙翁(さをう)の『ロミオとジユリエツト』の中に巧みに応用せられてある。可憐のジユリエツトはロミオを添ひたさに父に命ぜられたパリスとの結婚を嫌つて、僧侶のローレンスに救ひを求めた。ローレンスが『結婚の当夜、ある毒薬を飲んで死んだやうに見せかけ、墓に埋(うづ)められてから、ロミオに掘り出させるやうにするが、その勇気があるか』とジユリエットに訊ねると、いかにもその冒険をしようといふことになつて、結婚の当夜首尾よく仮死の状態に陥り、墓に埋められる(。)(※23)この薬は四十二時間過ぎると其の作用を失つて、仮死から覚醒するといふのであるが、如何なる成分を持つたものであるかは沙翁(さをう)は記載して居らぬ。然し乍ら、印度(いんど)の僧侶が『定(ぢやう)』に入(い)るに先(さきだ)ち、大麻を飲むことなどを考へると、かやうな仮死状態を起す毒が若しあるとしたら、それは恐らく神経筋肉毒であらうと思はれる。
 ところで、沙翁(さをう)の書いたやうな事件が、今より凡そ五十年程前に、実際に、アメリカに於て起つたのである。それは次に記すワルトン・ドワイト事件である。
 南北戦争が終つて二年を経たある日、アメリカ紐育(ニユーヨーク)州ビンガムトンに、ワルトン・ドワイトと自称する黄色(くわうしよく)の髯の生えた大男が現はれた。この男は金持と見えて、以前元老議員であつたヂツキンソンの邸宅を借りて住み込んだが、隣人どもは間もなく彼の噂を始め、彼は何ものであるかを風評し合ひ、三十年前(ぜん)同州のウインゾルで生れたことを確(たしか)めた。彼は南北戦争のとき、聯合軍に従軍して中佐に進み、二度負傷して、遂に除隊し、ウイリアムスポートで材木の投機をやり、故郷に帰つて、村の素封家の娘と結婚した。
 彼は、身長六尺三寸余(よ)、体重三十貫といふ大男で其の髯は長く且(かつ)密生して居た。結婚後程経て、ある家を買ひ取つて住(すま)ひ、火災保険に附したが、其の保険金は非常に多額であつた。ある夜家族を伴つて紐育(ニユーヨーク)市に出かけた留守に、その家から不思議に出火して全焼した。隣人は彼自身が放火したのであらうと噂したが、兎に角保険金を無事に受取つて、このビンガムトンに移住して来たのである。移住後、彼は附近に四十軒の家屋と一軒の旅館(ホテル)を建て、それをドワイト・ハウスと名(なづ)け、頗る豪勢を張つて居た。
 ところが、一八七三年の経済界の恐慌に出逢ひ、すつかり財産を無くしたので彼はシカゴに出かけて、家運の挽回を試みたが、どうも運が悪く、五年の後(のち)ウインゾルに帰つて、諸会社に合計二十五万六千弗(ドル)の生命保険を契約した。すると彼は非常に健康であつたにも拘はらず、大きな墓場を建てたり、又遺言状を書いて、数人の保険金受取人を定めたりしたので、人々の噂に上(のぼ)つた。彼は冬の寒い日に氷の張つた河を泳いだり、雪の山を登つて、疲れ果てることなどが度々であつたから、ある時、一会社は彼に保険金を返却して契約を破棄せんことを求めたが、彼は彼の権利を主張して応じなかつた。恰もこの時彼は紐育(ニユーヨーク)第五街の旅館(ホテル)で、見た所健在であつたにも拘はらず重病の旨を発表したので友人共は驚いたのである。
 その後間もなく、彼は再びビンガムトンのある小さい家に移つて病床に就き、激しい悪寒を訴へた。一友(いう)が終夜看護し、頭髪及び髯を剃つたが、翌日、以前の友人及び義弟に囲まれて、遂に死んだ。依つて隣りの旅館(ホテル)に泊つて居たドワイト夫人と、旅館(ホテル)の支配人と旅客の一人が喚び入れられた。二日の間死骸はその室に其の儘安置され、錠を下して誰も出入(でいり)を許されなかつた。鍵は旅館の支配人が持つて居たのである。一人の医者は胃加答児(ゐかたる)で死んだ旨を告げたが、保険会社附きの医者共は自殺したのだらうと推定し、中には彼の頭(くび)(※24)の周囲に縄の痕を見たといふものさへあつた。が、屍体(しがい)は解剖に附せられ、保険金は大部分支払はれ、事件はそれで片附いた。
 ところが其後(そのご)彼の居た室の窓の下に当る地上に、一の小さい瓶が発見せられて、自殺説も病死説も覆へされた。といふのはその瓶の貼紙の上に『ゲルセミウム』と書かれてあつたからである。この頃の医師はまだゲルセミウムなる毒薬の作用は十分知らなかつたが、二三の者はこの毒が、意識を消失せしめずに、運動神経を麻痺せしめ、一時死に等しい状態を呈するものであるといふことを知つて居た。それ故恐らくドワイトもゲルセミウムに依つて一時仮死の状態に陥つたのだらうといふことになつた。
 それで、その当時の状態に関して色々の説が言ひ出された(。)(※25)一説に依ると、ドワイトがその中毒から恢復するなり、ひそかに田舎に運ばれ、代りに紐育(ニユーヨーク)の医学校から一屍体を持つて来て置いたのであつて、解剖に附せられた屍体はこの贋(にせ)の屍体に(ほか)(※26)ならなかつたのだといふのである。
 ドワイトの死後数月(すうげつ)を経て、彼と嘗て一しよに事務を執つて居た男が、たしかに彼にシカゴで逢つたと断言した。このことが評判となつて又色々、逃亡の模様に関する説が言ひ出され、その一説に依ると、彼は毒を飲んですぐ箱の中に入つて、ある場所に運び出され、其処で一味のものが、箱を解き(、)(※27)其の名で得た保険金を彼に返却したのであらうといふのである。保険会社のうちあるものは、支払を応諾せずして、長い間法廷で争つた。
 以上はワルトン・ドワイト事件の顛末を、ワトキンスの著『フエーマス・ミステリース』に依つて書いたものであるが、トワイト(※28)が果して、想像されたやうな犯罪を行つたかどうかは無論確かめることは出来ない。ゲルセミウムは植物性のアルカロイドで、神経筋肉毒に属し、運動神経を麻痺せしめ又皮膚の知覚をも消失せしめ、大量なれば人を殺すが、現今の医師が見て、死と区別のつかぬやうな仮死状態を惹き起すものではないのである。
 要するに、完全な仮死状態即ち死と区別の出来ないやうな状態を生ぜしむる毒はなく、また一度飲んだきりで、長い間冬眠状態又はカタレプシーを起すといふやうな毒も知られては居ない。

八、仮死を取扱つた探偵小説

 前記のワルトン・ドワイト事件とよく似た事件を、アーサー・リーヴはその小説『ドリーム・ドクター』の一篇に書いて居る。モンターグ・フェルプスといふ銀行家が十数日間昏睡状態に陥つて死に、生命保険会社は五十万弗(ドル)支払はなければならぬのであつたが、その会社へ匿名の手紙が来て、『フェルプスの死に就て警戒せよ』とあり、又新聞に『フェルプス家の墓が夜分何(※29)かに荒されたが、多分、宝石を盗みに来た者の所為(しよゐ)だらう』と報ぜられてあつたので(、)(※30)保険会社はアンドリウといふ探偵に依頼しアンドリウがフェルプス未亡人に逢ふと、黒手組から五千弗(ドル)墓地のそばの沼に埋(うづ)めて置けといふ脅迫状が来て居た。そこでアンドリウは更にケネヂー探偵に相談に来たのである。フェルプスは数ヶ月前(ぜん)に露国(ろこく)の有名な女優と結婚し、シベリア地方へ蜜月(ホネームーン)の旅に上(のぼ)つたが、留守中銀行が破産して急遽紐育(ニユーヨーク)に帰り、帰つて早々生命保険に入つたのである。フェルプスには放蕩無頼の弟があり、それがこの秘密に関係して居るかもしれぬとアンドリウは想像した。
 其処でケネヂーは、アンドリウと共に夜、墓地へ行つてフエルプスの棺(くわん)を開けると、屍体は、非常に新鮮に見えて少しも腐敗して居る様子がなかつた。すると墓地の附近に人の居る様子がしたのでケネヂーが追ひかけると、人影が走り去つた。ケネヂーは一旦帰つて、研究室からX光線活動写真器を取つて来て屍体の撮影をした。翌日ケネヂーがフェルプス未亡人に逢ひ(、)(※31)又フェルプスの臨終に立ち合つた医師のフオーデンに逢つて色々聞いて見るとどうも様子が怪しかつたので、その夜犬を連れて再び墓地を警戒して居ると果して一人の曲者を捕へた。見るとフェルプスの弟である。が、弟と格闘して居るうち屍体は何ものかに盗み去られて了つた。弟の腕に、何ものかに噛まれた痕があつたが、それは犬の歯の痕ではなく二三日前人間に噛まれた痕らしかつた。
 翌日ケネヂーは関係者を実験室へ集めて、一々パラフインで歯の型(かた)を取り、墓地で撮した活動写真を見せて事件の秘密を説明して、『フェルプスの棺(くわん)の側に血痕があつたがそれはフエルプスの血液らしく、分析して見ると多量のグリコーゲンと称する物質が含まれて居る。X光線写真で見ると肺、心臓が極めて徐々に動いて居る。即ち屍体は仮死の状態にあつたのである。フェルプスはジベリアを旅行したから、彼の地方のブリアツト種族が冬眠することを聞いたであらう。ベクメチエフ教授の研究によると、彼等はグリコーゲンに富んだ食物を食して居ることがわかつた。グリコーゲンは通常肝臓の中に多量に含まれ、仮死の間生命はこの為に保たれるであらうと言はれて居る。フェルプスはまた、『アナビオーゼ』なる仮死を起す物質に就て聞いたに違ひない。即ちフェルプスは之に依つて仮死に陥つたのである。何故(なにゆゑ)そんなことをしたかといへばそれは保険金が欲しかつたのである。而も、生き乍ら保険金を握らうとしたためである。弟の腕について居る歯痕(しこん)は未亡人の歯の型(かた)と一致して居る。未亡人が屍体を盗み去らうとしたとき、墓地を警戒して居た弟に遮られ噛みついたのである。黒手組の脅迫は作り事である』と結論した(。)(※32)盗まれた屍体は医師フオーデンの家に置かれたが、あまり長く墓地にあつたため、時期を失(しつ)して、フェルプスは本当に死んで了つたといふのが、この小説の梗概である。
 前記リーヴの仮死の科学的説明は如何にも尤もらしいが、これが事実であるかは疑はしい。グリコーゲンに就ての記載はある程度まで正しいとしても、仮死を自由に起し得る前記のやうな物質はあり得ないのである。『アナビオーゼ』とは単に『仮死』といふ意味で、如何なる物質を含んで居るかをリーヴは記載して居ない。
 仮死を取り扱つた犯罪小説の中(うち)面白いものは独逸(ドイツ)のフレクサの作『プラシユナの秘密』である。タルンコツフといふ医学者が印度(いんど)を旅行して仮死を行ひ得る印度(いんど)人を故国に伴ひ来り(、)(※33)プラシユナと名(なづ)けて、色々仮死の秘密を教へて貰ひ、友人のイザーク・フオン・ボイケンといふ医師と共同して動物に就て仮死を生ぜしむる実験を行ひ、長い研究の後(のち)、家兎(かと)に就て成功し、進んで人間に試みんとて、ボイケンは適当なる婦人を物色し、遂にある意志の強い婦人を得て十数日間仮死に陥らしむることが出来た。その方法はある毒薬を注入するのであるが、勿論その成分は明かに書いてない。其処で、ボイケンは、仮死によつて人間の寿命を二倍にも三倍にもすることが出来るといふタルンコツ(※34)教授の考へ(即ち五年仮死に置けば五年だけ死期が遅れる故)よりも一歩進んで、他人を仮死に陥らしめて、其の生命エネルギーをある方法を以て自分に注入し、以て自分をして不死ならしめやうといふ恐ろしい企(くはだて)をなし、ゴム人形製造会社のモデルの麻酔医(人形を作る際モデルを一時麻酔せしむる故)となつて秘(ひそ)かにモデルを仮死に陥らしめ生命のエネルギーを盗むといふ犯罪が描かれてある。
 以上の記述によつて、読者は、『仮死』といふことが事実行はれて居るにも拘はらず、仮死を人工的に行ふことの非常に困難であることを了解せられたであらうと思ふ。『生、死』の如き大問題に対しては現在の科学はあまりに幼稚であり、従つて仮死の秘密が明かになり、人工的に、科学の力によつて仮死を生ぜしめ得るやうになるのは、恐らく遠いゝゝ(※35)将来であらうと思はれる。ことに他動物の冬眠状態の如きは十分に科学的研究が出来るとしても、人間を実験材料に使用することは不可能であるから、人間の仮死の解決は一層困難であらうと思はれるのである。(完)

(※1)原文句読点なし。
(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)(※4)(※5)原文句読点なし。
(※6)(※7)原文ママ。
(※8)(※9)原文句読点なし。
(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)原文ママ。
(※12)(※13)原文句読点なし。
(※14)原文の踊り字は「く」。
(※15)(※16)(※17)原文句読点なし。
(※18)句読点原文ママ。
(※19)(※20)(※21)(※22)(※23)原文句読点なし。
(※24)読み仮名原文ママ。
(※25)原文句読点なし。
(※26)原文ママ。
(※27)原文句読点なし。
(※28)(※29)原文ママ。
(※30)(※31)(※32)(※33)原文句読点なし。
(※34)原文ママ。
(※35)原文の踊り字は「く」。

底本:『新青年』大正12年1月増刊号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1923(大正12)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2017年10月6日 最終更新:2017年10月6日)