最近日比谷図書館の調査に■(※1)ると、探偵小説の読者が激増したといふことである。何故そんなに多く読まれるやうになつたかといふことは、にはかに判断を下し得ないけれど、探偵小説が何人にとつても面白いものであることが、その一原因をなして居ることは言ふ迄もない。従来探偵小説は何だか低級な、俗悪なものゝやうに解釈せられて居たが、今日ではもはやさやうな考は甚だ薄らいで来て、純文壇の人たちによつてもどしゝゝ(※2)探偵小説が発表されるやうになつた。さうして探偵文芸なるものが一の独特の分野を形造るに至つた。
然し、探偵小説は甚だ面白いものであるといつても、毎月発表さるゝ探偵小説の悉くが面白いものとは限らない。所謂探偵小説家の書くものでも亦、純文壇の人々の書くものでも、その中に面白くないものが決して少なくはない。それどころか面白くないものの方がだんゝゝ(※3)多くなりはしないかと思はれる傾向さへある。して見ると、むやみに探偵小説全盛時代だなどゝいつて有頂天になつて居る訳には行かない。
尤も外国の探偵小説雑誌を読んでも、面白いものは十に一つか又は二十に一つかといふくらゐであるから、それは無理のないことであり、従つて必ずしも悲観すべきではないかも知れぬけれど、探偵小説家たるものは、一にも二にも面白いものを書くことに工夫をこらすべきであらうと思ふ。
探偵小説が面白くなくなる原因として、探偵小説家が所謂芸術的な作品を生産しようと努力する点をあげる人もあるけれども、芸術的で面白い探偵小説だつて書けさうなものだと思はれる。然し探偵小説なるものは必ずプロツトの「奇」に主眼を置き、芸術的であることは二の次にしたいと思ふ。さもなければ探偵小説はもはや探偵小説でなくなつてしまふからである。
こんなことはわかりきつたことであるけれども、たまゝゝ(※4)純文壇の人々の書いた小説の中に、使ひ古されたプロツト又はトリツクがことゞゝ(※5)しく取り扱はれて居るのを見るから、特に注意を促がしたゞけである。たとひその作品が芸術的であつても、プロツト又はトリツクに新らし味がなければ、探偵小説としては、決して勝れたものと言へぬと思ふ。
けれども、新らしいプロツト又はトリツクを発見するといふことは決して容易なことではない。外国の探偵小説を読んでも、これはと思ふプロツトに接することは稀であつて、この点に於て探偵小説は甚だ行き詰り易いものだと考へ得るのである。
然し乍ら、幸ひにして、探偵小説の領域は最近非常に拡張されて来た。これも、探偵小説をその行詰りから救ふための努力の結果かも知れぬが、たとへば怪奇小説、ナンセンス小説への発展はたしかに探偵小説の行詰りを打破したものといつて差支ない。
けれども、これ等も早晩その行詰りに達することは考へるに難くない。然らばどうしてその行詰りを打破して行くかといふに、さし当り取るべき策としては長篇小説への発展であらうと思ふ。今迄述べたことは、主として短篇探偵小説についての話であつて、長篇小説の行詰りといふことは一寸考へにくい程その前途は洋々たるものである。
長篇小説となると、探偵小説の性質上、通俗的――といつては語弊があるかもしれぬが――所謂読物的の色彩を帯びて来る筈である。さうして、当然プロツトが第一義とならねばならない。その代り低級な小説に堕し易い危険が伴つて来るのである。
この危険は所謂芸術的であることによつて救はれるべきであるが、かのミステリーがだんゞゝ(※6)解き明されて行く本格小説にあつてはその叙述を科学的にすることによつても、この危険から、ある程度まで救ひ得ると思ふ。
芸術的で科学的であること。これがいはゞ長篇探偵小説の理想といつてよいのであるが、その理想を実現することは決して容易でなく、果して日本人がこの条件に適する天分を持ち得るかどうかを考へると頗る心細くなつて来る。
日本の長篇探偵小説は。翻案物を除いてはこれ迄発表された数が極めて少なく、この点に於て日本の探偵文芸の将来は海のものとも山のものともわからない。ことに長篇小説を発表する機関の少ないことは甚だ遺憾であるけれど、だんゝゝ(※7)探偵小説家が努力して面白いものを書くやうになれば、近い将来に、探偵小説はあらゆる人の興味の焦点となるであらうと思ふ。
(※1)原文一文字空白。
(※2)(※3)(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)(※6)原文の踊り字は「ぐ」。
(※7)原文の踊り字は「く」。
底本:『新潮』昭和2年4月1日発行
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2019年11月8日 最終更新:2019年11月8日)