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検閲官の心理

小酒井不木

 私の書いたものは度々その注意を受けたり、発売禁止を命ぜられたりした。と言つて僅に数回に過ぎないけれど、自分の書いたものが、禁止の命令を受けるのは余りいゝ気持ちはしないのである。そうして一たん禁止命令を受けた以上、何んと言つて弁解したしたところが、最早効かないから、益々不快を重ねるにすぎない。
 最近名古屋の新守座で上演された「紅蜘蛛奇譚」が神戸の八千代座で上演されようとした時、兵庫県の保安課から禁止の命令を受けた。浜松と静岡で上演された時も、何の注意を受けず無事に許可されたので、神戸の禁止を伝へ聞いた時、一体どこが悪いのか聞きたいものだと好奇心にかられた。すると、二三日して上演を許可するといふ通知があつた。多分脚本の一部を抹殺して許されたのであらうと思つて居ると、意外にも上演禁止された理由は、あの脚本が人生を侮辱してゐるといふ理由であつたさうである。尤もそれは私自身が検閲官から聞いた言葉でないから、果してさういふ言葉を検閲官が使つたかどうかは疑問であるがともかく私は妙な批評もあるものだと思つた。これまで注意を受けた作物は、余りに残酷であるとか、或は風俗を壊乱するからといふ理由であつたけれど、今度のやうな理由は恐らく他の人も余り経験してゐないところであると思ふ。
 実際、検閲官の心理といふものは非常に不思議なもので勿論検閲の標準は定められてあるであらうが、多くの場合理窟を超越したものであるらしい。かう言ふといよゝゝ(※1)以つて検閲官の怒りをかひ、今後ますゝゝ(※2)私の作物が睨まれるやうになるかも知れぬが、併し検閲官の心理が一種不可思議なものであるといふことは、何も今にはじまつたことでなく、尚又日本にばかり限つた事ではない。
 「結婚愛」を書いたり、日本の能楽を櫻井氏と共に、英国に紹介したマリー・ストープス夫人は、最近「ヴエクチア」と称する脚本を書き、将に上演せられようとした時、禁止の命令を受け、それが為ストープス夫人は非常に憤慨して検閲に関する意見を書いた長い序文をつけて出版したが、要するところ作者の方にどんな理窟があつても、その理窟は検閲官の心を動かすに足らないのである。検閲官自身だつて、野に下つた場合には作者と同じ理窟を持つのであるが、一たん官服を着ると、特殊な心理を生じて来るものであるらしい。それがどういふ原因で起るのかは無論推定を許さぬが、上官に対する責任問題もあれば、経済上の問題もある事であらう。
 併し検閲官の頭なるものは或場合に常軌を逸してゐる事がある。そうした例は昔から甚だ多いのであつた。たとへばマルブランシユが「真理の探求」と題した書物を公けにしようとした時、当時の検閲官はその出版を許さなかつた(。)(※3)どんな事が書かれてあつたかといふにそれは幾何学の書物に過ぎなかつた。ある検閲官は、ある幾何学者に向つて、その著を禁止する旨を伝へ、次のやうに言つた。
「この書物は君、どうしても出版は許されないよ、君の書いたところによると二点の最短矩離はそれを結びつける直線だといふんだが、人を馬鹿にするにも程がある。もしこの儘この本の公刊を許したならば、真直ぐな道に依らないで、曲つた道で宮中に出入することを許されてる連中が皆んな僕の敵になつてしまふよ。然も曲つた道をとつて来る連中は随分多いから、そんなに沢山な敵を引き受けちやとても助からぬ。まあゝゝ(※4)禁止するにしかずさ。」
 実際これは冗談でも何んでもなく本当にあつた事である。オーストリーでも「三角術の原理」といふ書を著はしたら、三位一体のことを書いた本だらうと推定して、その発売を禁止した例があり又「昆虫の破滅」といふ書物をゼスイツト派の破滅と誤解して禁止したやうな例もある。このやうなことは強ち昔に限らず、今でもよく行はれることである。英国のウオードの書いた社会学は、ダイナミツク・ソシオロジーといふ題名で、社会学をダイナミツク即ち力学的に説いたものであるが、これがロシア語に翻訳された時、露国の官憲は直にその書の発売を禁止してしまつた。この事を伝へ聞いたウオードは、非常に不審に思つて、どこが一体忌諱に触れたかと、ロシアに居る友人に訊(※5)て貰つたら、検閲官は書物の表題を読んで「ダイナマイトと社会主義」といふ風に理解し、表題がこのやうに恐ろしいのであるから、中を見る迄もないと言つて禁止したといふ事である。こう云ふ訳で検閲官の検閲標準といふものは、とても普通の考へでは相手になれない場合があるから、たゞ笑つて諦めるより仕様がない。

(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)原文句読点なし。
(※4)原文の踊り字は「く」。
(※5)原文ママ。「ね」の誤植。

底本:『紙魚』昭和2年3月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆集成(昭和2年)」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(随筆の部)」

(最終更新:2017年3月24日)