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比事物叢談

 探偵的興味をもつた文学が人々に歓迎されることは、今も昔も変りはない。最近探偵小説が非常に歓迎せられて居つて日本にはまだいゝ作家が出ないので、日本人の頭は探偵小説を作るには、不向きであると云はれてゐるけれども必ずしもさうではないであらう。少くとも探偵味を持つた文学を歓迎する点に於ては日本人はあえて西洋人には劣つてゐないであらうと思ふ。
 その証拠に徳川時代の初期に於て所謂比事物と称せられる裁判小説が非常に流行を極めた。慶安四年に支那の裁判小説「棠陰比事」が「棠陰比事物語」として翻訳出版されてからそれに類した沢山の比事物が出版されて、孰れも原本の焼直しの範囲を出ないが、徳川時代の末期に至つては馬琴の「青砥藤綱摸稜案」となり、尚又作者は判らぬけれ共大岡政談として世に行はれてゐる裁判小説は徳川時代の末から明治のはじめにかけてすばらしい勢ひをもつて読まれ未だに多数の読者を有してゐる。
 裁判小説なるものは、裁判官の明智を描いたものであつて、普通の人情小説が主として人間の情的方面を満足せしめるに反し裁判小説は人間の智的方面を満足せしめるところにその歓迎される理由があるらしい。勿論その明智によつて裁判された結果が人間の感情を満足せしむるところに興味がつながれるのであるけれ共、明智の働き方を描くだけでも存在価値は充分あると思ふ。
 かの頓智、機智を主題としてゐる茶話、小ばなしの歓迎されるのもそれであつて、かの安楽庵策伝の「醒睡笑」の中に板倉所司代の裁判物語が載せてあるのも興味あることである。
 それ故裁判物語でなく単に明智だけを描いた実録及物語も裁判小説と同じやうに歓迎された。例へば「智嚢」の如きものがこれであつて、これも日本で大いに読まれ明治時代には中村栗園の「日本智嚢」と称するものも発行され、これ又相当の読者をもつた。漢文のものではやはり支那の小説から抜いたものであるが津阪東陽の「聴訟彙案」なる書物も文化年間に発行されてゐる。
 さて「棠陰比事」は宋の四明柱の著したところであつて、中に納められて居る百五十ばかりの物語はいづれも極めて短いものであるが、その多くは犯罪を取扱つて居る。記述が短いために事件が探偵されて行く経路の面白さといふものはないけれ共、裁判官の判断は極めて合理的であつて感服させられるところが多い。殊にその最初の物語「向相訪賊」は旅僧がよその軒に寝てその夜その家に這入つた盗賊と間違へられる話であつて、「青砥藤綱摸稜案」の最初の物語「縣井の段」にもその一部にこの物語が翻案されてあつて、比較的多くの人に知られて居る。「棠陰比事物語」が出てからそれを模倣したものには西鶴の「桜陰比事」(元禄二年)月尋堂の「鎌倉比事」作者不明の「本朝桃陰比事」(後に「藤陰比事」と改題された――宝永六年版)などがあつて、これらの三つの比事は、いづれもその内容が似たりよつたりであつて殊に「鎌倉比事」の如きは、前に出た比事物の焼直しが多く、たゞ最後の「藤陰比事」だけは書き方が違つてゐて物語も相当に面白いものがある。
 裁判官の明智に引き換へ犯罪者の智恵を書いた小説も同じやうに歓迎されるのは当然のことである。この興味をねらつて作られたものが詐欺小説である。詐欺小説を読むものは詐欺者を憎む気は起らないで、寧ろ詐欺者の智恵を讃美する心を起すものである。この詐欺小説は矢張前記の比事物の隆盛を極めた時代に同じく盛んに歓迎されたものである。さうして比事物が「棠陰比事」をその源流としてゐるやうに、詐欺小説は「杜騙新書」を源流としてゐると云つていゝ。詐欺小説で名高いものは西鶴の弟子団水の「昼夜用心記」(宝永四年)月尋堂の著はした「世間用心記」が最も名高く、いづれもその名の示すが如く詐欺にかゝらないやうに世間に注意した一種の教訓小説ではあるが、矢張り今日の人々がルパンやフアントマを歓迎するのと同じやうに犯罪者の智恵を讃美するために読まれたものであることは疑ひないところである。
 両用心記の内「昼夜用心記」の方がより多く歓迎せられて居つて、尾崎紅葉の「茶椀割り」をはじめとして、現代の大衆作家が盛んに、題材として借用してゐる。
 尚「青砥藤綱摸稜案」及び大岡政談については述べたいことがあるけれども、いづれ改めて明治時代の裁判小説について述べやうと思ふから、委細はその時に譲つて置く。

底本:『紙魚』大正15年11月号

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2017年10月6日 最終更新:2017年10月6日)