インデックスに戻る

 大正十一年の頃であつたと思ふ。毎月博文館から、雑誌「新趣味」の寄贈を受けて居た私は、毎号最初のページから最終のページまで必ず眼をとほして、中に掲載されて居る探偵小説を貪り読んだのであるが、その時スペインの作家イー・ドニ・ムニエの名に接し、ムニエなる作家はよほど東洋の事情に精通した詩味の豊かな人であると思つて驚嘆した。その後、惜しいことに「新趣味」は廃刊され、従つてムニエの作品にも接しなくなつたが、昨年の夏、はじめて國枝氏に御目にかかつて、「新趣味」の話が出たとき、私がムニエの翻訳者たる同氏を通じてムニエのことをきゝにかゝると、意外にも、ムニエの作品なるものは、悉く國枝氏の創作であることを告げられ、さらに一層驚嘆せざるを得なかつた。その時一しよに居た江戸川氏も横溝氏も共に驚いて居たが、國枝氏はなほ「秘密探偵雑誌」にデボン・マシヤール作宮川茅野雄訳として発表されたものも同じく氏の創作であることを告げられた。探偵小説の愛好者でありながら、この贋翻訳の正体を発見し得なかつたのはまことに汗顔に堪へなかつたが、探偵小説的趣味からいへば、かうした「意外」に出逢ふことは寧ろ喜ばしいものであつた。喜ばしいと同時に、他の読者は勿論、雑誌の編輯者までまんまと欺かれて居たかと思ふと、ひそかに微笑を禁ずることが出来なかつた。
 一たびこの贋翻訳の正体がわかると、私は急に再び読みたくなつて、家に帰つて「新趣味」を取り出し、その後、デボン・マシヤールの作の切抜を國枝氏から拝借して全部読ませてもらひ、今更ながら國枝氏の芸術に深く感心したのであつた。
 かねて私は國枝氏の、その当時所謂新講談と称せられた作品の愛読者であつて、氏を尊敬すること決して人後に落ちないつもりであつたが、その時から私は更に、氏を探偵小説家として尊敬し、私の先輩とあふぐに至つたのである。
 さて、イー・ドニ・ムニエ及びデボン・マシヤールの作品全体を通じて最も著しい特徴はといふと、溢るゝやうな美しい詩味と、心にくきまでに浮び出て居るローカル・カラーとである。本書にはデボン・マシヤールの作品ははいつて居ないが、イー・ドニ・ムニエの作品だけについて言つても、スペイン、ロブの沙漠、支那、南洋等の美しい香気が、読むものゝ鼻にぷんゝゝ(※1)にほつて来る。而もその上にエルビーのやうな美人、袁更生のやうな奇怪な人物が、或は沙漠の古都を背景とし、或は阿片窟を背景として、所謂神出鬼没の活躍を続け、なほそれでも足らないで、ウイグル人や直立類人猿があらはれて、ラシイヌ探偵をたじろがすなど、陳腐な言葉ではあるが、一たび巻を開いたならば、恐らく、しまひまで一気に読まずに居れる人はなからうと思ふ。
 かくの如く、氏の作品に魅力のあるのは、氏の文章そのものが大(おほい)に関与して居ると思ふ。氏自身はだいぶ不満であるやうに言つて居られるが、それは氏のごとく文章に苦心する者の誰でもが、数年前の自己の文章に対していだく不満であつて、私から見れば、あの文章は、あのロマンチツクな内容に対して最もふさはしいものであると思ふ。「沙漠の古都」の最後の場面で有尾人種の活躍する有様を描いた文章は「ロスト・ワールド」の作者コーナン・ドイルに暗誦させたいと思ふくらゐである。
 これは私自身の経験であるが、探偵小説を作つて居ると、時々、舞台を中央アジアか南洋へもつて行きたい欲望にかられることがある。然し、書きかけると、その土地の状況や風俗がわからなくなつて、すぐ行き詰つてしまふ。それだのに國枝氏がそれをいかにも易々としてやつてのけて居るのは、氏の知識の広いことを示して居るのは勿論であるが、それよりも、氏の想像力の異常に豊富なことを示して居るといつてよい。実際特種の天分を持つた人でなければ、たとひ幾度百科全書を繰りひろげて見たところが、到底書き得ないと思ふ。この点に於て國枝氏は、わが探偵小説界に独歩の地位を保つて居るといつてよいのである。このことは最近の氏の力作「銀三十枚」を読んでもわかるところであつて、「銀三十枚」の最初の部分を占めて居るキリスト磔刑の描写は氏ならでは出来ぬ尊いものであると思ふ。
 探偵小説も人生批評と社会性を持たなければならぬといふのは氏の持論である。そして、「銀三十枚」は氏の主張をあざやかに示した名作である。「沙漠の古都」にも、「銀三十枚」ほど濃厚ではないかも知れぬが、随所に氏の主張が発見される。最近、創作探偵小説が盛んになるに連れ、所謂文壇の一部の人々は、今の探偵小説には人生がないといふやうなことを言つて非難して居るけれど、さういふ人は、よろしく國枝氏の作品を読んでから物を言ふべきである。
 又、探偵小説は行詰りであるといふやうなことを屡ば耳にする。然しそれは誠に無理もない話で、一般の所謂芸術小説ですら、行詰つて居るといはれて居るのであるから、型のいくつもない探偵小説は当然行詰り易いのである。けれどもそれだからといつて、探偵小説家が、いつまでも旧型を墨守して居ると思ふのは早計である。探偵小説家といへども、良心あるものは、つねに、如何にして型を破り、如何にして清新な歓喜を大衆に与へんかに苦心しつゝあるのである。とかく、探偵小説の門外漢で探偵小説を批評する人には、あまり沢山探偵小説を読まないで、単なる自己の好悪によつて判断し、一二の作品から受けた印象を押しひろめ、以て探偵小説界全体を云為(うんゐ)しようとする傾向があるやうに思はれる。だから、私は探偵小説を批評しようと欲する人には、先づ探偵小説をうんと沢山読んでほしいと思ふのである。少くとも日本の創作探偵小説なるものを知らうと思つたならば、國枝氏の作品ことに本書を熟読すべきであらうと思ふ。何となれば、「沙漠の古都」は、実は日本の創作探偵小説の先駆をなして居るばかりでなく、今後探偵小説の取るべき道をも暗示して居るからである。換言すれば、「沙漠の古都」の中には探偵小説の「行詰り」を破るべき新らしい型が潜んで居るからである。従つて単に日本の探偵小説界を知らうと思ふ人にとつてのみでなく、探偵小説の創作を志す者にとつても本書は貴重な文献であるといふことが出来る。
 さうして、それと同時に私は國枝氏に向つて、今後どしゞゝ(※2)探偵小説の創作を発表して、私たちを刺戟し教導して下さることを望んでやまないのである。

大正十五年六月 小酒井不木

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文の踊り字は「ぐ」。

底本:國枝史郎『沙漠の古都』(聚英閣・大正15年7月20日発行)

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1926(大正15)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(リニューアル公開:2018年2月23日 最終更新:2018年2月23日)