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ペンから試験管へ

 五月末日までには必ず原稿を御送りしますと約束して置いたところ、二十三四日頃から腰部の筋肉リウマチスらしいものに冒され、机に向つて筆を執りにかゝると、たまらなく痛んで来るので、不本意ながらそのまゝにして六月に入ると編輯者の手紙が着いて、あなたの原稿が来ないと全体の組付がはかどらぬから、早速送つてほしいとの事に、それではと、痛いのを我慢して兎にも角にも責をふさぐことにした。
 実は何か読みごたへのあるものをと思つたのであるが、早急のこと故考がまとまらず、やむなく一身上のことを語らせて頂くことにしたのである。
 それは外でもない、ペンの生活から試験管の生活へ移りたいといふ私のかねての希望をぼつゝゝ(※1)実現しようとすることである。昨年の暮から今年にかけて、屋敷の一隅にちつぽけな研究室を建てかけたが、漸く完成に近づいたので、適当なアスシスタント(※2)を得次第生物学の研究にとりかゝることになつたのである。
 事はそれだけのことであるが、いはばこの方向転換をするについての私の心持ちを述べたいのである。
 大学を卒業すると同時に私は生物学研究に志し、一生涯をこの学問に捧げようと決心したのであるが、はからずも病の為めにその志を中絶するのやむなきに至つた。一時は、とても回復の見込が立たず、医師もかく言ひ、自分もしか思つて、健康体でなくては従事することの出来ぬ生物学研究は永久に縁のないものとあきらめ、それではと好きな探偵小説に読み耽り、そのせゐかだんゞゝ(※3)病勢が劣へ、遂に探偵小説の創作を試みるに至つた。
 ところがいつの間にか、創作が本職のやうになり、うかゝゝ(※4)と三年あまりを過したが、一方健康が恢復するにつれて、生物学研究の希望が少しづゝ頭をもたげて来た。それと同時に私は研究の義務を感ずるに至つた。文部省の留学生たるものは、帰朝後留学期間の二倍だけ官立の学校に奉職する義務がある。奉職は私の傷いた身体の到底堪へ得るとこではないから、せめて生物学的研究に従事して、多少なりとも学界に貢献するところがなくてはならぬと思つたのである。かくて、私は研究室を設けるに至つたのである。
 もとゝゝ(※5)私は創作には少しの自信もなかつたが人から勧められるまゝに創作を試み、其後は註文のあるに従つて書きなぐつて来たのに過ぎない。だからまつたくの余技である。その余技が昨今は外聞上余技らしくなくなつて来たので、これからは余技らしくして行かうと思ふのである。創作を断念したわけではなく、今後は、生物学研究を主として、創作を従としようと決心したのである。
 創作に自信のない私も学術研究には多少の自信がある。もとよりそれは己惚であるかも知れぬが、自信がなくては小さな研究室でも建てる気にはならぬ。実のところ、研究したいと思ふテーマは可なりに沢山ある。そのテーマをつかんで実験を進めて行くときの楽しさは、今から思ひやられる。
 それに、人間の頭脳のはたらく時期には通常限りがあるやうだ。もう私も来年は四十になるから、実験を始めるならいまのうちである。たゞ生物学研究には「金」を要する。これはエールリツヒのいはゆる学術研究に必要な四つのG(Gの字のつく言葉、幸運(グリユツク)、忍耐(ゲヅルド)、熟練(ゲシツク)、金銭(ゲルド))の一つだ。だからこの「金」を当分のうちは余技で補つて行かねばならぬが、そのうちには何とか工夫がつくと思ふ。
 普通ならばこゝに探偵小説壇を回顧して、新進の作家に道を譲るとか何とか書くべきだらうが「猟奇」の読者には言はでも知れた事、又、私はさういふ言葉を物するだけの資格を持たぬ。たゞ、探偵小説壇の隆盛を祈る心は常にかはらないのである。

(※1)原文の踊り字は「く」。
(※2)原文ママ。
(※3)原文の踊り字は「ぐ」。
(※4)(※5)原文の踊り字は「く」。

底本:『猟奇』昭和3年8月1日発行

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1928(昭和3)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2019年11月9日 最終更新:2019年11月9日)