「名古屋、おきやあせ。すかたらん。」
誰が言ひ出したか、金の鯱鉾に、先祖代々うらみを持つた人でもあるまいに、まんざら捨てたものでもない名古屋の方言から、「おきやあせ、すかたらん」を選んで、その代表的のものとするなど、まことにすかたらん(※1)御仁と申すべきである。
だが、どうも、その方言の響がミユージカルでないことは、いくら慾目でも、認めざるを得ないところである(。)(※2)と同時に、市街全体が、金の鯱鉾に光を奪はれたのか、何となく暗い感じのするのも争はれない真実であらう。「と同時に」を今一つ、名古屋人の心が、薄情で、我利々々だといふことも、口惜しいけれど是認しなければならぬと思ふ。おや、こんな悪口は書くつもりでなかつたのに、つい筆がすべつて……。尤も、われとわが身を悪くいふ癖も、名古屋人間の無くて七癖の一つかも知れぬ。筆者は典型的の名古屋人なのである。
「花の名古屋の碁盤割、隅に目を持つ賎の女も、柔和で華奢でしやんとして、京の田舎の中国の、にがみ甘みをこきまぜて、恋の重荷に乗せてやる(、)(※3)伝馬町筋十八丁、其他町の数々を語り申さん聞き玉へ」
これは寛永七年、名古屋で刊行された「今様くどき」の名古屋町尽しの冒頭だが(、)(※4)その碁盤割も、大名古屋市となつた今は崩れて、人口八十八万は有難いけれど、日本第三の都市と威張つたならば、その都市の田圃で、盛んにメートルをあげる蛙どもから、げたゝゝ(※5)笑はれるにちがひない。従つてその、「柔和で華奢でしやんとして」居る筈の女も、今は追々に姿をかくして、尤も、これは名古屋ばかりの現象ではないけれど、遅がけながら、モダン・ガールといふものが見られるのは御芽出度いとも申さうか、「今様くどき」の著者には、ちよつと面はゆい心地がする。
だが、寛永と昭和の間には、大きな年月の差異がある。とは、言はずと知れたことだが、やゝもすると、昭和の名古屋に、寛永の俤が多分に残つて居るのは、あながち筆者のひが目ではないやうだ。尤も、どの都市にだつて、あの新らしさを売り物にするヤンキーたちの、礼讃措くあたはざるニユーヨークにだつて、昔の俤は残つて居るから、それは決して質の問題ではないが、今の京都よりも、却つて名古屋に昔し(※6)くさい感じの多いのはどうした訳であらうか。廬山に入つては廬山を見ず、まして、病身もので、めつたに外出しない筆者のことだから、大きなことは言へぬけれど、どうも名古屋は近代化しにくい性質らしい。
とはいふものゝ、年々歳々、たえず変化はしつゝあるのだ。昭和三年には、昭和三年らしい色彩がある筈だ。それをスケツチして見ようといふのが、この一篇の目的だが、何しろ書斎の虫のことだから、碌な観察は出来かねる。
名古屋を西から東へ横断する、いはゞ銀座通りである。名古屋駅を下りてから柳橋、納屋橋を越すまでは、銀座どころか、銅座か鉛座ぐらゐの感じしかないが、一たび納屋橋に立つて、静かに東を向いて眼を放つならば、さすがに、近代都市の面影を認めざるを得ない。十数年前までは、視野のまん中に、はるかむかふに日清戦勝記念碑が、生殖器崇拝論者を喜ばせさうな形をして突立ち、なくもがなの感じを起させたものだが、今は、覚王山のほとりに移されて、視野に入るものは、第一銀行支店、三井銀行支店、住友ビル、名古屋銀行、明治銀行など――考へて見れば、拝金宗の寺院ばかりであるが――両側にいはゆる輪奐の美を争つて居る。尤も、都市の大建物で、拝金宗の権化ならざるものは尠なく、ニユーヨークのウールウオース・ビルヂングの案内書に、商業寺院 Church of Commerce として紹介されてあるのは、さすがにヤンキーだけあつて、言ふことが徹底的である。
街の両側にある柳は、初夏の頃など、眺め心地が頗るいゝ。その柳に因んで名づけられた新柳町に、前記の諸寺院の大部分がある訳だが、旧本丸から熱田まで縦走して居る本町筋との交叉点から、市の中心をなす大津町筋との交叉点までがいはゞもつとも繁昌なところであつて、「栄町」の名は至つてふさはしい。その栄町と大津町との交叉点に立つて、暫くの間、眼を四方に配るならば、モダーン名古屋の特徴がしみゞゝ(※7)感せられるであらう。
東北隅に座を占めて居る赤煉瓦の建物は日本銀行名古屋支店で、この支店を動かすことが出来なかつたゝめ、大津町筋を真直にすることが出来ず、電車線路が歪んで居るところは、弁膜不全の心臓を見るやうである。赤煉瓦の建物など、どう考へても時代遅れだが、その時代遅れの建物にがん張られて、街の方を歪めたところなどは、どうもやつぱり名古屋式であるらしい。日本銀行支店など、名古屋の三銀行(名古屋、愛知、明治)から見れば問題にされて居ないのだが、いや、むしろ継子扱ひなのだが、その継子のために折角の都市の美観を犠牲にするとはげにも残念至極名事ではないか。
その日本銀行と対角線的位置にあるのが、旧伊藤呉服店、今は栄屋と称する食料品専門の販売店である。近々改築される筈で、いやもう一日も早く改築してほしいと思はれる、旧式な洋風建物で、而もその中で、台所専門のあきなひ(※8)が行はれて居るといふのも、やつぱり名古屋式であるかも知れない。
あとの二つの角にある建物は、これといふ特徴のないもので、名古屋市の中心点はいはゞ、まことにさびしいものである。たゞ、大津町筋を南にさがると、松坂屋デパートがあり、昨今はどうやら、そちらへ中心点が移動しさうであるが、広小路をはなれて中心点をつくることは当分はどうもむづかしさうである。その証拠に、断髪やセーラーパンツは、やはり広小路に最も多く見られるからである。メニキユアド・ハンドに、スネークウツドのケーンを持ち、しやんとしたネクタイをかけた所謂広小路伯爵は、カフエー・ライオン、カフエー・キリンを根城として、夜になるのを待ちかねるのである。
一たび夜の帷が下されると、広小路は名代の夜店の街とかはる。なにも之れは珍らしい現象ではないけれど、その夜店の種々雑多なることは、日本のどの都市にも遜色がないであらう。市役所前から、名古屋駅頭まで、断続しつゝある偉観は、大した自慢にはならぬが、それ自身として、すばらしいものである。その夜店に食べ物の多いのは、名古屋の特徴が食べ物にあるといふ見かたに一つの材料を提供する。尤も名古屋には、食通は至つて少ない。名古屋人には、おつな(※9)食物よりも、やすい(※10)食物が気に入るのだ。まさか、屋台店で、食べ物を値切る人間もないけれど、値切りかねないのが、名古屋人の腹なのである。
いや、広小路伯爵の話が、とんだところへ落ちて来たが、元来広小路伯爵なるものは、純粋の名古屋人ではないのであるから、この悪口に気を揉む必要はないであらう。その代り、広小路伯爵たちは、赤電車の通つたあとの広小路には多くは無関心である。けれども、名古屋の名古屋らしさは、午前零時以後の広小路界隈にあるといつてよい。そこにはかの「なも」「えも」のなまりを売り物にする紅裾たちが、縦横にうごめき始めるからである。盛栄連、浪越連、廓連、睦連。昨今、税金の値上げときいて悲鳴をあげて居るのはいさゝか艶消しだが、さすがに玉は悪くない。
東京の浅草、大阪の千日前、京都の新京極、それに匹敵するのが名古屋の大須である。そこには金龍山浅草寺ならぬ北野山真福寺があつて、俗にこれを梅ぼしの観音といふ。梅ぼしとは、「おゝ酸!」(大須)といふ駄洒落だが、実は先年まで、観音堂の裏手に「大酸」ならぬ「大あま」旭遊廓があつて、大須の繁昌したのは、半ばそのためであつた。旭遊廓は今は中村に移転したのだが、その当座、遊廓を飯の種として居た人たちは、この先どうなることかと蒼くなつたけれど、観音様の御利益は、「刀刃段々壌」で、だんゝゝ(※11)よくなつたなどゝいふのは罰当りな駄洒落かも知れない。
観音様の境内が、食べ物の店で占領されて居ることは、こゝに至つて名古屋の特徴が最も露骨にあらはれて居ると言つてよい。仁王門から本堂に通ずる道は、食べ物店を迂回する。何と痛快な現象ではないか。こゝ十数年前までは、すべての民衆娯楽機関が、境内のいはゞ四面を取り囲んで居たが、今は映画が主になつて、もう、あの説教源氏節の芸子芝居は見られなくなつてしまつた。説教源氏節は誰が何と言つても、名古屋のもので、名古屋情調をたつぷり持つたものだが、今はもう、安来節などに押されて、大須から程遠からぬ旧末広座を活動小屋にした松竹座で、アメリカ本場に劣らぬジヤズが聞けるなど、時の力は恐ろしいものである。
大須といへば縁日を思ふ。香具師はやつぱり大須を中心として活動して居るのだが、これももう追々すたれて、珍らしい芸は見られなくなつた。昔は夜の大須は、到底広小路などの及ぶべくもないほど活気があつたものだが、遊廓がなくなつてからは、げつそりと寂しくなつた。観音堂裏は、昔の不夜城の入口で、今僅かに玉ころがしや空気銃、夏向きには鮒釣りなどで、職人肌の兄貴連を引きつけて居るが、弦歌のひゞきぱたりと絶えて二三の曖昧宿に、臨検におびえながら出入りする白い首が闇にうごめくだけでは(、)(※12)たゞもう寂しさの上塗りをするだけである。
スケツチでなくて何だか懐旧談のやうになつてしまつた。けれども、明治末期に生れたモダン・ボーイならざる限り、現在の大須をながめては、その昔大須にあふれて居た名古屋情調を顧りみて惜まざるを得ないのである。さうして一たび旧名古屋情調をしのびはじめたならば、今の名古屋で、だんゝゝ(※13)精力を得て来たモダン・カフエーへは、ちよつと、はいる気がなくなるのである。
とはいふものゝ、最近の名古屋を知らうとするものは、数十軒を数ふるカフエーを見のがしてはならない。昼なほ手さぐりを要するやうな暗さの中で、コーヒーか紅茶一杯に、ものゝ三時間乃至五時間も、ウエートレツスと饒舌にふける気分は、到底筆者などの及びもつかぬ感覚であり心境であるのだ。
尤もこれ等のカフエーが新時代の要求によつて生れたかどうかは考へ問題である。小資本ではじめ得られて、比較的多くの収入があるといふことも、カフエーの殖えた原因の一つであらう。何しろ、大須附近に、いはゞ一ばんはじめに、カフエー・ルルが出来たのは、まだたつた三年ばかり前であるのに、それ以後、四十軒にも殖えたのは、一種異様の現象でなくてはならない。はじめ易い商売だといつても、客がなければ自然につぶれなければならぬのに、ますゝゝ(※14)殖えて行く傾向のあるのは、やつぱり新時代に適して居るからであらう。
そのカフエーと共に、今名古屋で、漸次流行しようとして居るのが、ダンス・ホールである。大阪で禁止されたゝめの、一種の調節現象かも知れぬが、そのダンス・ホールの一つが、中村遊廓に出来て遊廓よりもよく流行つて居るのは皮肉なことゝいはねばならぬ。といふよりも、遊廓経営者の一考を要すべき点であらう。
たとひ中村遊廓が、東洋一の建築美を誇つても、さうして今なほ木の香新らしく嫖客の胸を打つても、やはり遊廓は旧時代の遺物である。いつそ古ければまだ古いだけに思ひ出も深いのだが、元亀天正の昔をしのぶ外、(といふのは、中村はいふ迄もなく、太閤様の出生地なので)何のよすがもないとなると、大門を入つて、両側に美しくならぶ雪洞にも、たゞもう人肉の切売りといふ、現実の血腥いやうな感じをそゝられるだけである。
汽車の煤煙で化粧された名古屋駅近くの明治橋を渡つて、一直線に単線電車を凡そ十五分ほど乗ると、大門へ着くのだが、少し威勢のよい足なみで突き進むとやがて田圃へ出てしまつて、検黴病院のいかめしい建物が、目に痛いほどの寂しさを与へる。歌川廣重の「新吉原」は、さびしさそのものではあるが、なほ且つその底には、伝統的な一種の言ふに言へぬ甘い情調がかくされて居るけれど、中村遊廓には、そんな気分など、薬にしたくもないのである。
不景気の影響を受けてか、昨今のさびれ方は甚だしいものだが、これはあながち、不景気の影響ばかりではないやうである。その証拠には、前にも述べたごとく、遊廓内のダンス・ホールの繁昌でもわかる。要するに、このやうな遊廓は、もう、新時代には適せぬのだ。いつそ、懐古趣味を発揮させようとするならば、うちかけを着せて張店を出すがよい。張店といへば、昨年一時そんな噂がひろがつて、政治問題とされたことがある。筆者は公娼存置にも、張店にも賛成だけれど、遊廓そのものゝ改良は、早晩行ふべきだと思つてゐる。
中村遊廓の振はぬのは、べらぼうに高価なことも其原因の一つであるらしい。尤も、それは大店だけのことだが、市内で、比較的廉価な遊びが出来るものだから、わざゝゝ(※15)遠くまで出張に及んで高い金を払ふ必要がないといふ論者が可なりに多い。誠にそのとほりである。市内に於けるいはゞ私娼、乃至みづてん芸者の跋扈は恐ろしいもので、筆者の手許には、相当の材料も集つて居るけれど、これはスケツチに用のない事、沈黙を守つて、蓋をあけないことにしよう。
午前零時といへば、遊廓は最も繁昌しなければならぬのに、その頃試みに中村遊廓内を散歩して見るがよい。素見の客があちらにチラリ、こちらにホラリ、ところゞゝゝ(※16)にタクシーが横づけになつて居て、まるで、猖獗な伝染病流行当時の都市を見る様である。一つしかない名古屋の遊廓だ。こんなことに力を入れるべき性質のものではないが、もつと繁昌してくれなくては、名古屋の御城とゝもに、今に民衆の心と没交渉になるかも知れない。
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名古屋でスケツチすべきところは、まだほかに沢山ある。熱田は今は名古屋市内となつたが、そこには尊き熱田神宮がある。なほ又名古屋市民に近頃追々喜ばれ出した鶴舞公園は、スケツチの種にならぬことはないけれど、公園などのスケツチに出かけては、近頃流行の感冒にでも襲はれると悪いから、今日はこの辺で筆をとゞめて置く。
(※1)原文圏点。
(※2)原文一文字空白、句読点なし。
(※3)(※4)原文句読点なし。
(※5)原文の踊り字は「く」。
(※6)原文ママ。
(※7)原文の踊り字は「ぐ」。
(※8)(※9)(※10)原文圏点。
(※11)原文の踊り字は「く」。
(※12)原文句読点なし。
(※13)(※14)(※15)原文の踊り字は「く」。
(※16)原文の踊り字は「ぐ」。
底本:『日本及日本人』 昭和三年春季臨時号 昭和3年4月10日発行
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1928(昭和3)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2021年10月26日 最終更新:2021年10月26日)