大衆文芸なる詞は、たしか関東大震災後に使用されはじめたと思ふが、その定義は極めて漠然たるものである。「あらゆる階級を通じて最も大ぜいの人に読まれ喜ばれる文芸」といへば、字義はわかるとしても、さてそれが如何なる内容の文芸かときかれると、頗る返答に迷ふ。従来の文芸作品で、上記の字義にかなつたものは決して少なくはなく、それならば何も、殊さらに大衆文芸なる詞を作る必要がないからである。
しかし大衆文芸なる詞の起りを考へて見るに、それまで「新講談」と称せられて居たものにとつて替つたやうに思はれる。事実、大衆文芸なる詞が流行してから、「新講談」なる名はすたつた。新講談とは従来の講談が「しやべり講談」であつたのに対して、所謂「書き講談」と称するものであつて、その内容からいへば、殆んど常に時代物即ち俗に所謂髷物小説であるが、一たび大衆文芸なる詞が作らるゝや、もはや、新講談といふやうな限局した意味のものでなくなり、色々の人によつて、色々な解釈が下されるに至つたのである。さうして今日では、「通俗小説」とか、「煽情小説」とか、「読み物文芸」などを綜括したやうなものとして考へられるやうになり、頗る広汎な意義を持つに至つたのである。
さて、大衆文芸なる詞は、大正時代に作られたものであるから、明治時代には無く、又上記のやうにその範囲が頗る広汎であるから、明治時代の大衆物を選び出して、その特質を論ずることは頗る困難である。たゞ目下大衆文芸の一部門として認められて居る探偵小説は、その名称が明治時代に作られたもので、その範囲もその名称の示すごとく限局されて居るから、明治の探偵小説を中心として、明治の大衆物を考察するのには頗る便利であると思ふのである。
探偵小説とはいふ迄もなく、一つの犯罪が行はれて、その犯人の知れぬとき、それが探偵によつてだんゝゝ(※1)捜索され、遂に犯人が見つかるに至る経路を述べた小説をいふのであるが、現今に於ては、所謂、探偵的興味を持つあらゆる小説を綜括した名称となつて居る。これは、探偵小説の本場たる欧米でもその通りであつて、いはゞ、煽情小説 Sensational Novel の殆んどすべてを網羅して居るといつて差支ない。
けれども明治の探偵小説は、犯罪探偵を取り扱つたものが、その大多数を占めて居る。それは、探偵小説と共に、いはゆる探偵実話なるものが大に読まれたのでもわかる。尤も探偵実話と称するものゝ、その実、虚実を織りまぜたものであるが、兎に角、明治二十年代に於て、探偵小説は全盛を極めたのである。
高山樗牛は、明治三十年六月十五日発行の「太陽」増刊に、「明治の小説」と題して、明治小説の変遷を説き、探偵小説の勃興するに至つた機運を次のやうに述べて居る。
「今夫れ明治二十年より二十五年頃までの小説家は、そが先頭たる紅葉を初めとして、多くは狭隘なる主観を有せる写実家なりき。其観察いかにも従前諸作家のに較ぶれば疑も無く自然、実際の域に近けり。又そが作意の中にもあらはに勧懲褒貶の意を寓せざりき。然れども是れ極めて褊窄なる主観の眼孔を通じて見たる自然実際なりき。故に其作中に表はれたる人生世相は殆ど作家の主観をば自己の貧少、且偏頗なる閲歴に倒照したる小人生観に外ならざりき。是豈永く経験教育ある世人の嗜好を繋住して、能く恒久なることを得べきものならむや。其無味放埒に浮艶淫靡なる製作に対して社会は漸く倦厭の色を示し来りたりき。村上浪六が所謂撥鬢小説、黒岩涙香一派が探偵小説は是風潮の前駆にして、泉鏡花、川上眉山、小杉天外等が所謂観念小説は其後殿たり。是を明治小説の第三期に至る変遷時代となす。」
それから樗牛は、撥鬢小説即ち浪六の所謂「侠客物」が、任侠剛毅で風流韻致に富んだ、三日月治郎吉や井筒女の助のやうな、日本人の好きさうな人物を描いたゝめ、写実小説に疲れた読書社会は滔々として、一時謳歌するに至つたと述べてゐる。
撥鬢小説は今日の所謂大衆物といつてよく、樗牛のこの観察は、今日の大衆文芸勃興の原因にも、ある程度まで当て嵌めることが出来ると思ふ。
樗牛は更に続けて言ふ。「然れども、浪六の描くところ、千篇一律。文字の洒落、脚色の斬新を衒ひ、又情操の掬すべきもの少し。其人物も亦面(おもて)に磊塊不羈を装へども、性格概ね卑賤に流れ、加ふるにまゝ淫猥面を掩ふものあり。文字亦杜撰孟浪、生硬を以て意気となし、晦渋を以て余情となす。されば幾もあらずして名声地に堕ちたるもの、素より其所よりと謂ふべし。(中略)撥鬢小説漸く衰へて探偵小説行はれし頃に到りて、小説は其堕落の極に達したり。勢極まれば変ず、文学社会は是に於て端なくも最も健全に、且最も多望なる風潮を小説界に喚起したり。何ぞや、歴史小説を求むるの傾向即是なり。」
今日の大衆文芸にも、漸く千篇一律の非難が起りかゝつて居つて、この際何とかしなければ、この撥鬢小説のやうな運命に陥らぬとも限らない。そこで、かの「芸術的」、「非芸術的」などといふ声がやかましく起るに至つたのであるが、人間はとかく物に厭き易いものであるといふことも、考へのうちに入れて、その将来を論じなければならぬと思ふ。
さて、樗牛は、探偵小説が行はれた頃に到つて、小説は其堕落の極に達したといつて居るが、たゞかう言つたゞけで、探偵小説そのものについて、深い考察と研究とをしなかつたのは頗る物足らない。探偵小説が、今日に於てもなほ、俗悪低級なものゝやうに考へられ易いのは、樗牛のやうな批評家が、探偵小説の本質研究に比較的冷淡だつたことも、その有力な原因であらうと思ふ。当時探偵小説と称せられて多数の人に愛読されたものゝ中には、一夜作りの、場当り式な低級なものも少なくなかつたが、若し批評家にして、今少し身を入れて研究してくれたならば、日本の創作探偵小説は、もつと早く発達して居たにちがひない。島村抱月の如きも、探偵小説は単に索究的快楽を興味の根本とするものであつて、一部の探偵小説を取り、読むこと半にして残巻を翻し、結尾の一齣を読んだならば、前に感じた興味は忽ち消えて、後半を読む勇気はなくなるだらうと言つて、探偵小説を罵つて居る。これは全く抱月の言ふとほりであつて、犯人の知れぬ事件を取扱つた小説を読んで途中で犯人を教はつたなら、しまひまで読まなくてもよいにきまつて居る。けれども探偵小説を、これだけのことで片附けてしまふのは、あまりにも探偵小説に対して同情が無いといはねばならない。少なくとも今日の探偵小説の読者は、如何にして事件が解決されて行くかといふ、その解決の経路に対して、少なからぬ興味を持つ筈である。数学の問題を示されてそれを解くに当り、途中で答を示されたとて、それでやめる者は少なく、どうして、そのやうな答が出るかに興味を持つのが普通である。探偵小説でもその通りであつて、事件が解決されて行く経路に興味の中心が存在し、そこに探偵小説の出来不出来がある。さうして、そこに探偵小説を芸術的たらしめ得る余裕が存在するのである。抱月はいふ。「既に疑問の説明以外に詩的快楽を与ふる探偵小説ありとするも、そはこゝに謂ふ純粋の探偵小説にあらで、そは只事件の性質配合等に於てのみ探偵小説的なるものなり、而して其の本質は已に探偵小説の範域を脱したるものなり。夫れ詩的快楽即ち世態人情の趣味に伴ふ快楽と索究的快楽即ち秘密の解釈に伴ふ快楽とは、互角の勢力を持して並立すること難し、仮令客観なる小説其の物の上には、両者の元素相当して存するとも主観なる読者の心は必ずや何れかに偏せざるを得ざるものなり。而して探偵小説の精髄は此の索究的快楽を主とし、詩的快楽を従とす。」けれども、これは抱月が、明治時代に流行した探偵小説を基礎として下した結論であつて、彼がもつと沢山海外の探偵小説を読んだならば、かういふ議論はしなかつたであらう。
抱月にこのやうな議論をさせるに至つたのも、要するに、当時の探偵小説そのものに罪があつたのである。黒岩涙香によつて紹介された海外の探偵小説は、逐字訳ではなくつて、いはゞ涙香の主観によつて翻案され変化されたものであつた。彼は原作の索究的分子だけを紹介して、詩的分子を省略したのである。「人外境」の序に、涙香が、「余等の素徒了見にては人の智の駸々として進み、学問の理の日々に新なる今の世なるを以て、小説も世と共に進まんと欲せば、幾分か「智」に訴ふる分子の有るに如くは莫かるべし」と言つて居るのでもわかる。而も、それが新聞に連載して非常に喝采を博したため、彼は彼のすべての小説に同一の手法を用ひたのである。若し新聞に逐字訳を載せたとしたならば、決してそれほどに受けなかつたにちがひない。従つて、涙香の小説を模倣して発表された当時の探偵小説も、その殆んどすべてが、抱月の所謂詩的快楽を従とした。
然しながら、明治の探偵小説に見のがすことの出来ぬ要素は、索究的快楽以外に、雪冤的の興味である。この雪冤的の興味はどこの国の探偵小説にも見られるところであつて、無辜の人に嫌疑をかけて、読者をはらゝゝ(※2)させ遂に真犯人が他にあることを示して、ほツとさせるのは、探偵小説家の所謂常套手段である。だからこれは強ち明治の探偵小説に見られる特徴ではないが、明治の探偵小説の中には「裁判には間違ひのないものだ」、「法は尊いものだ」といふことを示すのを目的として書かれたものが決して少なくはないのである。黒岩涙香の探偵小説の最初の単行本たる「人耶鬼耶」(明治二十一年十二月出版)の緒言に、「予今回訳述する「人耶鬼耶」と題せる此一篇は、仏国にて古来其例なき大疑獄の顛末なり、大疑獄とは其事件の大なるには非ずして其事柄の疑はしく罪人の判じ難きを云ふなり。余が此篇を訳述するは世の探偵に従事するものをして判決の苟しくもすべからざるを悟らしめんが為なり。之を切言すれば、一は人権の貴きを示し一は法律の軽軽しく用ゆべからざるを示さんと欲するなり。」と、あるを見ても、その間の消息を知るに足らう。
黒岩涙香の探偵小説に刺戟されて書かれたと認められる須藤南翠の「硝煙剣鋩(※3)殺人犯」(明治二十一年六月出版)の序を見ると、一層、この探偵小説の書かれたこの種の動機が露骨に見えて居る。
「頼山陽ノ法律ヲ論ズルニ曰、律者、律也、起於累黍、至於旋十二管、而不容少差、微之至也、厳之極也、而調之者、即在於人、故不知律之意、而徒頼律之文者、不可与論律也、ト周ノ五刑ヲ剏制シタリシヨリ而来、鄭ハ刑書ヲ鋳リ、晋ハ刑鼎ヲ造リ、魏ハ法経ヲ作ル、世漸ク降リ文亦漸ク密ナリ、而ノ法理堙没シ成文簡深ナリ、文ニ頼ルノ徒、往々ニシテ錯誤ナキ能ハズ、則チ■(※4)獄ノ由テ起ル所ナリトス、我朝ノ法律ハ、古典欠乏シテ、只讒カニ令ト式目トニ就テ鑑ムヲ得ベシ、概ネ唐律ヲ模倣シ稍ヤ之ヲ刪潤スルニ過ザルナリ、鎌倉氏ノ憲法、北條氏ノ式目、コ川氏ノ百箇条、僉ナ例ニ準ヒ類ニ拠テ刑獄ヲ処断ス、吏憑ル所ナク民避クル所ナシ、安ゾ疑獄ヲ案ジテ、無辜ヲ刑スルノ大過ナキヲ得ン、支那文客ノ■(※5)清スル疑獄的小説、其類数十種アリ、試ミニ人命獄ノ叙事一節ヲ抄訳セン、曰、(中略、筆者いふ。このところに棠陰此(※6)事の最初の物語があげてある。)滔々トシテ咸ナ是ノミ、馬琴曽テ青砥藤綱摸稜案ヲ著ハス、便チ之レニ依テ摸稜セシナリ、夫ノ坊間伝フル所ノ大岡仁政録、亦悉ナ原ヲ是等ノ稗史ニ資リ、虚実交錯シテ誤テ実録トセリ、現時法文精緻、治罪明潔、秋毫モ誣ヒズ、豈徒ラニ冤抂ニ屈死スル者アランヤ、殊ニ伝来ノ小説ノ如キ、拷問、詐弁、威嚇、欺惘、至ラザル所ナク、治罪法第百五十条〔予審判事ハ被告人ヲシテ其罪ヲ白状セシムル為メ恐嚇又ハ詐言ヲ用フベカラズ〕ノ明文アル、今日ニシテ之ヲ見レバ児戯一般、幾ト噴飯セントス、余ガ此編、咄嗟ノ急稿、文拙ク意浅ク、見ルベキモノ莫シト雖モ、亦法文ヲ蔑ニセズ、稿半バニシテ、始メテ今日新聞ヲ読ム、涙香小史黒岩大(大人の誤か。)英人ノ書ヲ訳シテ「法廷の美人」ト題スルモノアリ、後亦続テ「大盗賊」及ビ「人耶鬼耶」ヲ訳述ス、共ニ仏人ノ書ニシテ、孰レモ■(※7)獄ノ大疑案タリ、其精、其巧、愈々出テ愈ヨ妙ナリ、百誦惓マズ、千遍楽ミヲ加フ、余ノ敢テ軒輊スル能ハザル所ナリ、千悔一到、書既ニ成ル、羞恥ヲ忍デ敢テ市ニ粥グ、幸ニ楡枋ヲ搶テ鵬■(※8)ニ擬スルモノト笑フ勿レ。」
これによつて、おぼろげ乍らも当時の探偵小説家の心事を窺ふに足ると思ふ。
次に探偵小説の興味は、犯罪そのものゝ持つ魅力である。これも、どの探偵小説にも見られるところであるが、ことに明治の探偵小説の喜ばれた理由の大なるものである。則ち当時の読者は犯罪そのものに頗るアトラクトされた。だから一方に於て、探偵実話とか、又は有名な犯罪者の伝記小説が大に流行したのである。人々が何故犯罪に興味を持つかについては、今こゝで立入つて論ずる余裕がないが、殺伐な時代が過ぎて平和になるに連れて、犯罪者に関する記録を読みたがる心は増して来るものである。従つて明治時代そのものが、犯罪小説を生むに適したといへばいひ得るのである。
然し、この雪冤的興味と犯罪に対する興味とは、探偵小説の原始的なものにも存するのであつて、段々探偵小説が発達するにつれて索究的興味が主となつて来るのである。さうして、涙香小史は、原始的な探偵小説を提供すると同時に索究的興味を中心とする探偵小説をも提供したのであつて、この点が、明治の探偵小説に於ける涙香の一功績であると言つてよい。尤も涙香自身は探偵小説を創作しなかつたからわからぬが、涙香以外の他の探偵小説家の創作(その多くは翻案であるが)には、智的満足を与ふるものが極めて稀であると謂つてよい。
古来日本人は科学的な頭胸(※9)に乏しいと称せられて居つて、果して智的満足を与へるすぐれた探偵小説を書き得るかどうかは疑問であるが、それは将来の問題であるとして、雪冤的興味と、犯罪に対する興味を取り扱つた小説は、既に元禄の昔に所謂「比事物」としてあらはれて居る。従つて明治の探偵小説を論ずるには、日本探偵小説の萌芽と称すべきこの「比事物」にまで遡らねばならない。
宋の桂萬榮の「棠陰比事」が我が国に輸入されたのはいつ頃かわからないけれど、この裁判小説がわが国の学者によつて非常に愛読されたことは事実である。さうして慶安四年にその邦語訳が刊行されるに至つて、非常な勢でひろまり、これに似た裁判小説が続々刊行された。即ち元禄二年には井原西鶴の「桜陰比事」が出で、宝永五年には月尋堂の「鎌倉(けんさう)比事」次で宝永六年には作者不詳の「桃陰比事」(後に「藤陰比事」と改題。)が出た。なほ「棠陰比事」の原本を読み易からしめるために、林道春は「棠陰比事加鈔」を著はし、その死後、寛文二年に出版された。
すでに「棠陰比事物語」の出る以前、即ち寛永五年に、安樂菴策傳は「醒睡笑」の中に、板倉所司代の裁判物を書いて人々の興味をそゝつたが、何といつても、裁判物語が隆盛を極めたのは、「棠陰比事物語」が出てから後のことである。
「棠陰比事」は三巻に別れ、各巻に四十八づつの物語が収められてあるから、合計百四十四ある訳である。いづれも短い物語であつて、その一例をあげるならば、「惟済右臂」と題する物語は、
「銭惟済留後、知二絳州一、民有二条レ桑者一、盗強二奪之一、不レ能レ得、乃自斫二其右臂一、誣以レ殺レ人、官司莫二能弁一、惟済引問、面給以食、而、盗以二左手一挙二匕箸一、因語レ之曰、他人行レ刃、則上重下軽、今下重上軽、正用二左手一、傷二右臂一也、誣者乃伏」
とあるごとく、頗る簡潔である。試みにこの一章の「棠陰比事物語」中の訳文をあげるならば、「惟済みづから右臂を切偽りし者をあらはす事」と題して、次のやうに書かれて居る。
「せんゐさいといひし人絳州にありし時、さる所のたみに桑をとるものあり。ぬす人有て此桑をうばひとりけれ共、此者桑をあたへず、ぬす人みづからおのれが右のひぢをきつてうつたへていはく、此者われをころさんとせしがさいはひに命をばたすかりけりと申あげたり。官司いづれも此事をよくわきまへがたし。せんゐさいこれをきゝて此きずつける人をめしよせ、食物をあたへてくらはせけり。ぬす人左の手にて箸を持ちめしくひけり。せんゐさいこれを見てぬす人にむかつていはく、人にきられたるきずはかみ重くしも軽し、今なんぢがきずはしも重く、かみ軽し、是一つの証拠なり、そのうへなんぢ左の手にて右の手をみづからきりたり、なんぢいつはるべからずとのたまへば、すなはち、とがに服してけり。」
言ふまでもなく、これは定石どほりの一つの探偵小説である。この物語に於ては、裁判官自身が探偵となつて、嫌疑者の有罪無罪を判定するのであるが、「棠陰比事」の中の殆んどすべてが、この形式によつて居る。
さうして、この形式は、桜陰、鎌倉、藤陰の三比事にも踏襲されて居るのであつて、これ等の三比事の物語も、また極めて短いものである。いま、それ等の物語の標本をあげる余裕はないから、私は、三比事の探偵小説としての価値を少しく述べて置きたいと思ふ。
そもゝゝ(※10)如何なる内容を持つ探偵小説が一ばんすぐれて居るかを、一概に決することは困難であるけれども、先づ第一に推理の経路があざやかである事、次に、怪奇味の多い事、次に凄味の深いこと、次に機智諧謔に富んで居る事、これ等を具備した探偵小説は読むものに非常に深い感銘を与へる筈である。
桜陰、鎌倉、藤陰三比事の物語を通観するに、一般に凄味と怪奇味には乏しく、たゞ藤陰比事が他の二比事に較べて諧謔に富んで居る。裁判官の機智は相当に働いて居るけれども、一般に、直観によつて事を断ずるものが甚だ多く、証拠すなはち手がかりを発見して、それから鮮やかな推理を行つて探偵するものは極めて少ないのである。
之に反して、三比事を犯罪物語として見るときは、相当に興味があるといふことができる。もとよりそれ等の犯罪にはこれといふ目新らしい犯罪方法がある訳ではないが、これによつて、今も昔も犯罪者の智慧に変りのないことを知り得るのである。
又、雪冤的興味は、殆んどすべてに漲つて居るといつてよい。たとひ正しいものに疑がかゝつても、遂には正しいものは青天白日の身となり、罪あるものが罰せられる。なほ又、罪あるものは、所謂天網恢々疎にしてもらさぬ道理で、所詮発見され処刑されることを示して居るから、三比事は文学史家によつて、通常一種の教訓小説と見做されて居る。当時三比事以外に、各種の教訓小説があらはれたので、さう見做されることは当然であるが、やはり、現今の人が探偵小説を好むと同じやうに、好奇心をもつて読まれたことは事実であらうと思ふ。
この三比事の内容が複雑化せられ、探偵小説である傍、勧善懲悪の意をもつて書かれたものに、曲亭馬琴の「青砥藤綱摸稜案」がある。これは大岡越前守をモデルとした青砥藤綱の裁判物語であるが、著しく「棠陰比事」の影響を受けた痕跡がうかゞはれる(。)(※11)然しさすがに馬琴だけあつて、その構想といひ文体といひ、到底三比事の及ぶべきところでない。なほ又、短篇もあるけれど、主として中篇及び長篇とから成り、いはゞ長篇探偵小説の元祖といつて差支ない。
然し、元祖といふ言葉は、或は言ひ過ぎであるかも知れぬ(。)(※12)といふのは、この「摸稜案」と同時代に、かの「大岡政談」なるものがあるからである。「青砥藤綱摸稜案」は、文化八年の冬から翌年にかけて出版されたものであるが、「大岡政談」は、その著者とその作の年代とを明かにしない。コ川幕府時代には、少しでも、幕府に縁故のあることを書くことは許されなかつたゝめ、著述者はその名を記さなかつたのであつて、況んや出版などは思ひもよらず、筆耕者の手によつて、写本として、貸本屋に広まつたものである。「大岡仁政録」、「大岡名誉政談」「大岡忠相政要実記」などがこれで、これ等のものが「摸稜案」より先に出来て居たとするならば、いはゞ「摸稜案」の種本となつた訳で、「摸稜案」を長篇探偵小説の元祖といふことはできぬかも知れない。けれども、その文章といひ、筋の運び方といひ、「摸稜案」の方が優れて居るやうである。尤も「摸稜案」は馬琴の著作のうちではすぐれたものでないけれど、物語作者としての馬琴の手腕は、こゝに於ても十分うかゞふことが出来るのである。
「大岡政談」は明治になつて出版され、博文館の帝国文庫、有朋堂文庫などにも収められて居るが、コ川時代には、前述の理由によつて、「大川仁政録」の名によつて出版された。即ち、松亭金水の「大川仁政録」は、安政元年に初編を出し、安政四年に四編を出して完結して居る。この「大川仁政録」や、写本の「大岡名誉政談」は「摸稜案」と共に明治に至るまで盛んに読まれたのであつて、明治初期の探偵小説界を、いはゞ独占して居たといつてもよい位であつた。
「大岡政談」は、名判官大岡越前守の取り扱つた事件を骨子として、それに作者の空想を織りまぜて作つたものであるが、中には、比事物にのつて居る物語を焼き直したものも沢山ある。ことに、「大岡裁判小話」としてあげられて居るものは大部分この類である。
「大岡政談」にをさめてある長篇の物語は、つねに一人の犯罪者即ち悪人が中心となつて罪悪を行ひ、それが、大岡越前守の明智によつて、あばかれ裁かれることになつて居る。中には探偵の経路が委しく書かれてあるものもあるけれど、読者は、はじめにすでに犯人を知つて居るのであるから、誰が真犯人かと思ひ迷つて読むことはなく、従つて、所謂、探偵的興味は稀薄である。たゞ、中に描かれてある人物が実在の人物であるといふことが、少なからず読者の好奇心をよび起したのである。而も多くは所謂「実録」と称して、すべての内容が実際にあつたことであるやうに言はれて居るから、その点に強く引かれて、貪り読んだ訳である。
これが一方に於ては、明治初年の所謂犯罪者の実録物が盛んであつた原因となつて居る。総じて実録物は、主人公の悪性が強ければ強いほど、読者にとつては興味が多い。「大岡政談」にあらはれる村井長庵をはじめその他の犯罪者は、ロンブロゾーの所謂先天性犯人タイプのものばかりで、真に冷酷無情で、その犯罪は残忍を極めて居る。従つて彼等が愈よ罰せられるに至るとき読者は心の中で痛快をさけぶのであつて、これが、「大岡政談」の受けた有力な原因である(。)(※13)「摸稜案」に描かれて居る犯罪者はこれほど残忍なものはなく、いはゞ環境によつて生ずる犯罪者を取り扱つたものが多く、従つて勧懲の意味も読者によく徹することが出来るが、「大岡政談」は、もはや勧懲をはなれた、犯罪の魅力がその中心となつて居ると言つてよいのである。だから見方によつては、犯罪小説としては、「大岡政談」の方が、「摸稜案」よりも優れて居るかも知れない。
「大岡政談」の中にある長篇は、殆んど皆殺人事件を取り扱つて居るが、短篇には殺人以外の犯罪事件を取り扱つたものが多い。たゞ、詐欺だけは、詐欺方法そのものに興味があるために、「大岡政談」の如き名判官を中心とする物語には取り扱ひにくい。然しながら詐欺は、その取り扱ひ方によつて、極めて優れた犯罪小説となり得るのであつて、すでに比事物と同時代に存在した詐欺小説即ち「用心記」が、比事物とは段のちがふほど立派な探偵小説となつて居ることは、注意して置かねばならぬことである。
「用心記」も、その名の示すが如く、一種の教訓小説であつて、物語の中に書いてあるやうな詐欺にかゝらぬやう用心するがよいといふ意味であるが、用心記を読んだものは、ことによると、詐欺方法を知つて、之を応用しかねないかも知れぬ。が、それは兎に角、宝永四年には西鶴の弟子北條團水が「昼夜用心記」を著はし、宝永六年には、「鎌倉比事」の作者月尋堂が、「世間用心記」(最初は、「儻偶(てれん)用心記」といつた。)を著はし、いづれも珍らしい詐欺方法を紹介し、最近発表された西洋の探偵小説に、全くその筋を同じくして居るものがある。(このことは、拙著「犯罪文学研究」に委しく述べて置いた。)現今の創作探偵小説ことに詐欺を取扱つた小説を好む人は、必ずこの両用心記を読んで置かねばならない。
探偵小説を論ずるものは、どうしても、その中の怪奇的分子を見逃がしてはならない。それのみならず、探偵小説と怪奇小説とは離るべからざる関係にある。西洋探偵小説の祖としてあげられて居るドイツのホフマンにしろ、アメリカのポオにしろ、いづれも偉大な怪奇小説家であつた。怪奇と犯罪との心理学的関係は言はずもがな、探偵小説はいはゞ一の怪奇を取り扱ふ文学であるから、その怪奇が説明されるものであるにしろ、説明し得ないものであるにしろ、怪奇を取り扱つたものは、広い意味の探偵小説である。
それ故、こゝにコ川時代の怪奇小説即ちお伽婢子(ぼうこ)を中心とする怪談物についても一瞥を与へねばならぬけれど、明治の探偵小説とはそれ程深い関係を持つて居ないやうに思はれるから、こゝでは省略するつもりである。開化の当初に於ては、怪談はさほど珍重がられさうにない。この結論が果して当を得て居るかどうかは今後の考察を待たねばならぬが、少なくとも明治の初期に於ては、優れた怪奇小説はあらはれなかつた。
明治初期に於ては、前に述べた如く、「大岡政談」ものが悦ばれ、それにならつて、各種の所謂実録物が大に世に行はれた。こゝでいふ明治の初期とは、仮に明治十八九年頃までをいふのであつて、ことに明治十年頃までは、コ川時代の著作が一般に読まれ、別に新らしいものは書かれなかつた。明治十二年二月に假名垣魯文は「高橋阿傳夜刃譚」を書き、須藤南翠はそれと前後して、「有喜世(うきよ)新聞」に「夜嵐お絹」、「新藁おみな」、「茨木お瀧」を書いた。いづれも毒婦の一生を興味本位に描いたものであつて、所謂、その当時の新らしい実録物として歓迎されたのである。
こゝで私は探偵小説と犯罪実記との関係に就て一言しなければならない。コ川時代から明治の初期にかけて流行した実録物は、実録とはいふものゝ虚実相半ばして居たのであるが、当時の人は皆それが逐一実際に存在したことゝ信じたのである。だから、その実際に存在したといふことが強く人々の興味を喚起したのである。空想の所産である探偵小説は、筋の運び方即ち作者の技巧そのものが興味の中心となるものであるけれども、実録物は、実際にあつたことだといふことが興味の中心となつて、作者の技巧は二次的のものである。だから実録物が一世を風靡して居る間は、よい探偵小説はあらはれないのである。明治の初期の探偵小説界は勿論のこと、第二期の全盛期即ち涙香時代に於ても、やはりこの傾向は免れなかつた。西洋の有名な探偵小説は、涙香の頭脳によつて、所謂実録物化されて紹介されたかの感がある。だから、涙香物のむかうを張つて書かれた創作探偵小説も、皆、実録物風の書き方であつて、今日の探偵小説に用ひられる技巧などは誰にも工夫されなかつた。若し涙香が、原作の逐字訳を紹介したならば、あれほど探偵物は流行しなかつたであらうが、その代り創作探偵小説に相当なものが出て居たにちがひなかつた。涙香以後、惰性によつて読まれて居た探偵物は、いづれも「探偵実話」として出版されたものであつて、それ等が明治三十五六年から四十年近くまで、いはゆる余命を保つて居たが、遂に全滅の悲運に立ち到つたのである。
かくの如く、明治の探偵小説はいはゞ全体を通じて実録物といふことが出来、大正の末年から、海外の探偵小説の逐字訳が行はるゝに至つて、探偵小説と犯罪実話との区別がはつきりついて来たのである。さうして、今日では、探偵小説に興味を持つものが、必ずしも犯罪実話に興味を持たず、犯罪実話に興味を持つものが必ずしも探偵小説に興味を持たぬことゝなつたのである。
尤も、今日に於ても、探偵小説の愛読者で犯罪実話に興味を持つ者は決して少なくはない。犯罪の魅力を感ずるものは必ず犯罪の実話に興味を持つ。探偵小説は必ず解決を見るけれども、犯罪実話は必ずしもさうでない。然しそれで居て犯罪実話は十分読者を引きつける力がある。現今、探偵小説の隆盛を極めて居る欧米各国で、犯罪実話が次から次へと出版されて而も多数の読者を持つて居ることは、要するに人々が犯罪そのものゝ魅力に感ずるがためである。
明治時代の人々が犯罪実話を好んだのも、今の人と別に変りはないが、たゞ探偵小説と犯罪実話との区別がついて居らなかつたゝめに、探偵小説が所謂低級なものとなつてしまつたのである。空想の所産を探偵実話であるとして紹介しても、根が作り物である以上、真実の犯罪は描かれて居ない。従つて犯罪そのものゝ魅力が極めて少ないのである。而もそれ等は単なるセンセーシヨンを目的としたものであるから、何等の芸術味もなく、どうしても俗悪低級の謗は免れなくなる訳である。だから、探偵小説を「低級」の謗から救ふためには、かならず、探偵実話型から離れなければならぬのである。今日に至つて漸くこの機運に向いて来たのであるが、明治時代には誰もそのやうなことを顧慮したものはなく、従つて、高山樗牛によつて、「堕落の極」と叫ばれるに至つたのも無理はないのである。
いづれにしても明治時代には、探偵小説を実録物から切り離すことは不可能であつた。明治二十一年十一月に出版された「摘陰発微(※14)奇獄」の如きは、実際の探偵に従事するものの参考書として、米国ジヨルヂ・マクウアツテルスの「デテクチヴス・オブ・ユーロープ・エンド・アメリカ」を訳したもので、訳者は千原伊之吉であり、発行所は京都の日本同盟法学会であり、その序文は法律学士井上操によつて書かれ、その中に、「……此書ニ記スル所ハ実ニ心(ノ)誠求(ムル)レ之(ヲ)モノナリ故ニ其情ヲ得タリ之ヲ棠陰比事等ノ書ニ比スレバ日ヲ同フシテ語ルベカラザルモノアリ棠陰比事ノ如キハ皆鉤距ノ術ヲ用フルモノニシテ誠心罪跡犯情ヲ求ムルニアラズ」云々とあり、警察官のために発行したものゝやうに書かれてあるけれども、やはり、探偵小説流行の機運に乗じて、出版されたものであることは否みがたい。既に原著そのものが、果して実際にあつたことをそのまゝに紹介したかどうかは、頗る怪しいのである。さうして、これと、殆んど時を同くしてあらはれた既記の「人耶鬼耶」及び「硝煙剣鋩(※15)殺人犯」の序文とを比較して見るならば、探偵小説と探偵実記とは、全然混同されて居たことがわかるのである。
日本に於ける翻訳探偵小説の元祖といふべきものは、安政年間に、神田孝平(神田乃武男の父)によつて訳された「和蘭美政録(※16)楊牙兒(よんげる)奇獄」であるが、これはあまりに時代がかけはなれて居るから、今こゝでは立ち入つて述べることをしない。又、探偵小説以外の明治の翻訳小説についても私は今こゝに委しく述べる余裕を持たぬが、涙香の翻訳探偵小説の生れる機運は、明治十年前後から盛んに出版された翻訳小説によつて醸されたことは事実である。
黒岩涙香が「今日新聞」(「都新聞」の前身)にはじめて連載した探偵翻訳小説は「法廷の美人」であつて、これは英国のヒユー・コヌウェーの作「後暗き日」を翻案したものである。新聞に載つたのは二十年前後だと思ふが、単行本として薫志堂から出版されたのは、二十二年五月である。さうして、最初に単行本となつたのは、「法廷の美人」、「大盗賊」に次で連載された「人耶鬼耶」であつて、明治二十一年の末、小説館と大川屋から出版された。
「法廷の美人」の序文を見ると、涙香小史の翻訳の態度を知ることが出来る。
「……「後暗き日」を「法廷の美人」と訳するは頗る不当なり、否寧ろ僭越なり、然れども本文に至つては其僭越焉(これ)より甚だしき者なり、余は一たび読みて胸中に記憶する処に従ひ自由に筆を執り自由に文字を駢(なら)べたればなり、稿を起してより之を終るまで一度も原書を窺はざればなり、原書を書斎に遺し置きて筆を新聞社の編輯局にて執りたればなり、斯く原文に合ざるは言ふ迄も無く、趣向も又原趣向に合はず、之を訳と言ふは極めて不当なれど、訳に非ずと言はゞ又剽窃の譏り模倣の嫌ひを免れず、依て強て訳と言ふなり、本文既に斯くの如し、故に其表題の原書と異るは咎むべし、怪しむべからざるなり、不当と言はゞ言へ僭越と譏らば譏れ、余は翻訳者を以て自任する者にあらざるなり。」
即ち、涙香小史の訳は、物語の骨子をとつて、これを自由に組立て、その一流の文章をもつて興味本位に書いたものであつて、当時の翻訳者も恐らくその大胆さに呆れたにちがひなかつた。而も、それが為に却つて翻訳界に一大センセーションを喚び起したのであつて、この点、たしかに涙香小史の着眼点の非凡なところである。実際、若し涙香小史が、忠実な翻訳を連載して居たならば、十年間読書界を風靡することはむづかしかつたであらう。
涙香が如何に大衆に媚びようとしたかは「人耶鬼耶」の序文を見ればわかる。媚びるといふと語弊があるかは知らぬが、涙香の眼中には、たゞ如何にして読者を喜ばしめるかといふ一事の外何ものもなかつた。涙香の訳文を見ると、「読者よ、今一二回我慢して読まれよ」といふ風な文句が屡ば使はれて居るが、探偵小説の初の部分は兎角倦怠を催さしめ易いために「人耶鬼耶」の序文に次のやうに書いて居る。
「斯の如き目的を以て訳述するが故に或は記事煩はしくして読者を厭はしむる処多かるべし、殊に我国従来の小説を読み慣れたる方々は屡々中途にして倦怠の念を生ずる事もあるべし、然れども初め疑はしくして後に至り雲晴れ霧散ずるは疑獄小説の常なるに、矧(ま)してや此篇の如きは小説に非らずして事実なるが故に其憾みは殊に多かるべし、唯だ余が強て願ふは初めより終りに至るまで漫偏なく読み通ほされん事なり、所々の無味なる所を読み落しては有味なる処までも味ひ得ざるに至るべし、読者乞ふ All or Nothing (読む位ならば残らず読め残す程ならば丸るツ切り読むな)の一言を記憶せられよ。」
このやうに涙香は、読者に、とにも角にもしまひまで読んでほしいといふことを訴へて居るのである。即ち、しまひまで読めば探偵小説は必ず読者の満足を得るにちがひないといふ意味を説いてゐるのである。
なほ、人名や地名を日本式に書きなほしたことについても、同じところに次のやうに書いて居る。
「翻訳の文は原文に拘制せらるゝ処多きを以て動(やや)もすれば流暢を欠き佶倔■(※17)牙読むに堪へざるに至るは読者の知る処なるべし、殊に其地名人名の如きは我国に在りふれたるものと異る為め、記憶し難き思ひあり、余が先に訳したる大盗賊の如きは強て漢音の近きものを当嵌るの例に倣ひたれど、余は其利益少なきを悟りたるを以て此篇に於て成るべく和訓の近きものを当嵌むべし、例へば「コモリン」を小森とするが如き是なり。」
なほ又、読者に如何に面白い小説を提供したかは次の一節でわかる。
「翻訳難しと雖も書を選ぶも亦易からずと或記者は言ひたるが、余は深くその言の妙を感ずるなり、余洋書を読み覚えてより西洋小説の妙を感じ毎月少きも十数部多きは三十部以上を読まざるなく終歳書の為に貧し今まで読尽す所三千部の上に至ると雖も翻訳して妙ならんと思はるゝ者は百に一を見ず……」
かくの如き選書の態度によつて、涙香が読破した小説中から、これは面白いと折紙のついたものだけが、矢継早に発表されたのである。今、それ等の小説名を挙げるならば、凡そ次のやうである。
(単行本の年代に順ふ)
人耶鬼耶、 大盗賊、 法廷の美人、 魔術の賊、 他人の銭、
無惨、 海底の重罪、 指環、 有罪無罪、 劇場の犯罪、
真暗、 美少年、 梅花郎、 幽霊、 片手美人、
悪党紳士、 涙香集(探偵)、 執念、 妾の罪、 美人の獄、
活地獄、 決闘の果、 玉手箱、 巨魁来、 塔上の犯罪、
如夜叉、 死美人、 非小説、 何者、 大金塊、
鉄仮面、 白髪鬼、 人の運、 嬢一代、 捨小舟、
怪の物、 露国人、 女退治、 女庭訓、 人外境、
アドルフ・ベルロー、 武士道、 幽霊塔、 心と心、 古王宮、
雪姫、 厳窟王、 噫無情、 人の妻、 山と水、
野の花、 破天荒、
このうち、武士道以上が、明治三十年までに出版されたもので、そのあとのものが、その以後の明治年間に著はされたものである。以上揚げたものは、涙香小史の著はした探偵小説の全部ではなく、「絵姿」、「暗黒星」その他数種あるけれど、それ等は今私の手許にないから、その発行年月日を知ることが出来ない。
さて、これ等の探偵小説はいづれもその原本がある筈であるけれど、皆が皆はわかつて居ない。序文に原著の名が書かれてある場合もあるけれど、何とも書いてないのが多く、それを知るのは甚だ困難である。逐字訳ならば発見するのに比較的容易であらうけれど、さうでないから恐らく永久に発見されずにすむものがあるかも知れない。
原著のわかつて居るものについて調べて見るに、一ばん多いのは仏国のボアゴベーとガボリオーの小説である。「海底の重罪」、「指環」、「劇場の犯罪」、「片手美人」、「決闘の果」、「巨魁来」、「塔上の犯罪」、「如夜叉」、「死美人」、「活地獄」、「鉄仮面」、「武士道」、「美少年」、「執念」などはボアゴベーの作であり、「人耶鬼耶」、「大盗賊」、「他人の銭」、「有罪無罪」はガボリオーの作である。いづれも、英訳から重訳したものである。
黒岩涙香の探偵小説はかくの如く一代を風靡し、それにならつて多くの探偵小説家が出た。即ち丸亭素人、菊亭笑庸、榎本破笠、南陽外史などがこれであつて、丸亭には、「獄中の働」、「三人探偵」、「惨毒」、「多湖廉平」などの著作があり、菊亭には「林中の罪」、「鬼美人」、破笠には「黒眼鏡」、南陽には「忍び夫」などがある。大てい翻案ものであつて、涙香のそれと全く調子を同じうして居る。
これ等の探偵小説は明治二十年代の小説界を占領したかの観があつた。そこで硯友社の連中は毒をもつて毒を制するの謀をめぐらし、匿名をもつて探偵小説集を春陽堂から出版した。これには五巻あつて各巻には五集づつが収められた。試みに第一巻に収められた五集の表題をあげるならば、「十文字」、「百万両」、「電気の死刑」、「五人の生命」、「やれ手紙」である。誰が何を書いたか、はつきりしたことはわからぬが、その著者の中には江見水蔭、三宅青軒、細川風谷、中村雪後などがある。就中江見水蔭は、「四本指」、「女の死骸」、「船中の美人」などを書き、その後も多数の探偵小説を発表して居る。然し、いづれも、涙香ものと五十歩百歩のものであつた。だから涙香ものが下火になるにつれてそれ等のものも下火になつたのである。
尤も、この種の探偵小説は、その後も引き続き、幾多の作者によつて、数多く書かれ、一部の人々の嗜好に投じて居たけれど、遂に明治の末期に至つて、殆んど滅亡せざるを得なくなつたのである。明治四十年代に入つて、多田省軒、安岡夢郷などが、「探偵実話」と冠して、比較的多くの作を発表したけれども、もはや問題にされなくなり、遂に、大正の翻訳探偵小説時代に移行したのである。
探偵物が全盛を極めた頃、実在の犯罪者を主人公とした読物も、可なりに多数出版された。今、それ等の一々の名称を挙げることは差し控へるが、兎にかく、探偵小説としては、物になつて居なかつた。前に述べたごとく、実在の人物を取り扱へば扱ふほど、ますゝゝ(※18)技巧をおろそかにする傾向があつたから、いよゝゝ(※19)悪趣味に堕するより外はなかつたのである。
涙香物が全盛を極めたときには、真面目な翻訳探偵小説があらはれても、あまり問題とされなかつた。森田思軒の「探偵ユーベル」(ユーゴー原作)、内田魯庵訳のポオの「黒猫」、森鴎外訳のホフマン原作、「玉を懐いて罪あり」や、ポオの「病院横町の殺人犯」の如きものは、純翻訳探偵小説流行の機運を作つて然るべきだつたのに、遂に世人の注意を惹くことなしに終つたのである。さうして、四十年前後になつて、コーナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ物」が、高等学校や専門学校の教科書として選ばれるやうになってから、だんゝゝ(※20)翻訳探偵小説の機運が向きかけて来たのである。その間に三津木春影などが出て、涙香物とこの純翻訳小説との過渡期に属するやうなものを出したが、これもさほど大なる反響はなかつた。かくて、ドイルの「シャーロック・ホームズ」の名がだんゝゝ(※21)読書界にひろまるに連れて、純翻訳小説が行はれるやうになり、大正六七年から以後、ますゝゝ(※22)発展し、大正の末年に至つて、その全盛期をつくり、現今に至つて、はじめて創作探偵小説が勃興しかけたのである。
純翻訳探偵小説の流行に関して、見のがすことの出来ぬ現象は短篇探偵小説の流行である。涙香物は、殆んど長篇であつた。「涙香集」の中には短篇があるけれど、それとても相当の長さである。まつたく煽情、激情を唯一の目的とするには、短篇小説は不向きである。ところが、ドイルの代表的探偵小説は短篇であつて、しかも非常に面白い。これが短篇探偵小説の愛好される基礎となつたと言つても差支はないのである。実際、探偵小説を、所謂「低級」の謗りから脱せしめる唯一の方法は短篇探偵小説の翻訳又は創作であらねばならぬ。現今漸く探偵小説が、「低級」の域から脱したのは、大正時代の半ばから、無数の海外短篇小説が翻訳されたがためである。無論それ等の訳の中には、あまり感心しないものがあるけれども、兎にも角にも短篇探偵小説の翻訳は、探偵小説を「低級」の謗りから救つたのであつて、このことが明治時代の探偵物と現今の探偵物との大きな区別の一つである。
明治三十三年十一月、コ富蘆花は「探偵異聞」なる短篇探偵小説集を民友社から出版して居る。序文がないから、蘆花の抱負をきくことが出来ぬけれど、当時の探偵物に較べたならば、文章も調つて居り、筋の運び方にも、よほどすぐれたところがある。この中の物語は、やはり翻案ものであるらしいが、大正三年に四版が発行されたことは、明治から大正へかけての探偵小説の推移を記念する作品であると言つて差支ないと思ふ。
大正から昭和にかけての時代は探偵小説の創作時代であつて、日本の作家によつて、海外の短篇探偵小説にも劣らぬ作品が数多く書かれるに至つた。が、長篇探偵小説は、まだまつたくその揺籃期に属して居るのである。で、今後の探偵小説界には、長篇創作探偵小説が流行すべき筈であるが、その作品は、やはり、涙香が当時の人心を捉へ得たやうに、現代の人心を捉へ得るものでなくてはならない。換言すれば、昭和時代には新らしい意味の「涙香時代」が復興されて然るべきであると思ふ。
短篇探偵小説は、そのトリックが単調になり易いために、冒険小説、怪奇小説、諧謔小説、ナンセンス小説などと提携するに至つた。だから、今日に於ては、探偵小説は、もはや犯罪又は探偵のみを取り扱ふ小説ではなくて、人間の好奇心に訴へるあらゆる小説を含んで居るのである。従つて探偵小説の名を変更するがよいといふ説さへ出て居る。ことに、探偵小説といふと、明治時代の探偵小説を聯想して、動もすると「俗悪低級」の観念を与へ易いから、すべからく撤廃すべきであるといふ論をするものもあるが、さて探偵小説にかはるべき適当な名称もなく、恐らく今後も長い間探偵小説の名称は残るであらう。さうして、日本の作家が、真に努力して、探偵実録物の臭味を脱せしめたならば、探偵小説は所謂高級文学の塁を摩するに至るであらう。
以上私は明治の探偵小説の輪廓を説き終つたが、その他の大衆物となると、すでに序言の中に述べたやうに、その範囲が頗る漠然として居て、それを簡単に紹介することは頗る困難である。高山樗牛が明治時代の小説を論じて、その中に探偵小説を入れて居るのは、見やうによつては、明治時代のすべての小説が一種の大衆物だつたといひ得るかも知れない。大衆文芸を煽情小説と同一視することは当を得て居ないかも知れぬが、冒険小説や伝奇小説や、家庭小説や政治小説を大衆物と見做するならば、明治の作家の殆んどすべてを網羅することになるのである。尤も、かの撥鬢小説の如きは、今日の考へから見て大衆物たる色彩は濃厚であるが、さて、撥鬢小説と他の小説とが、本質的に如何にちがつて居るかとなると、それを明快に区別することは恐らく不可能であらう。
たゞ探偵小説ばかりは、その形式が特種なものであるために、はつきり他の小説から区別がつくのである。即ち、事件の構想が逆に示されてあるのであつた(※21)、これが、探偵小説と他の大衆物と異るところである。尤も、人々を面白がらせる小説には、探偵的興味の濃厚なものが多く、ある意味からいへば、大衆物とは探偵的興味を多分に持つて居るものと言へないこともないが、明治の煽情小説を通覧すれば、探偵的興味は随所に発見されるのであつて、結局、明治の大衆物を論じようとすれば、すべての小説にわたらねばならぬことになるのである。(了)
(※1)(※2)原文の踊り字は「く」。
(※3)角書き。
(※4)(※7)言偏に「獻」。
(※5)「習」の右側に「元」。
(※6)原文ママ。「比」の誤植。
(※8)「皐」の右側に「秩v。
(※9)原文ママ。「脳」の誤植か。
(※10)原文の踊り字は「く」。
(※11)(※12)(※13)原文句読点なし。一文字空白。
(※14)(※15)(※16)角書き。
(※17)「敖」の下に「耳」。
(※18)(※19)(※20)(※21)原文の踊り字は「く」。
(※22)原文ママ。「て」の誤植と思われるが不明。
底本:『日本文学講座 第七巻』(新潮社・昭和2年5月30日発行)
【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」
(公開:2005年4月8日 / 最終更新:2017年9月22日)