インデックスに戻る

大衆文芸ものゝ映画化

 大衆文芸と一口に言つても、その範囲は広いから、私はそのうちの探偵物の映画化について一言したい。このことについては今年になつてから、色々の雑誌や新聞で述べて来たから、重複の点は我慢してもらひたい。
 従来の探偵小説映画化は一言にして言へば、多くは失敗であつた。これは作者が映画化といふことを念頭に置いて探偵小説を書かないからである。探偵小説を映画化したもので「拳骨」や「フアントマ」などは、兎も角、喝采を博したやうであるが、あれは題材の取り扱ひ方が、探偵小説化に都合がよかつたからであらう。尤もあれ等の作者がやはり映画化を主眼に書いたものであるかも知れぬが、……何だかそんなやうなことが何処かに書いてあつたやうな気もするが……まあ、あれは過去のものとして深いせんさく(※1)をしないことにする。
 一人の名探偵が証拠によつて事件を解決して行くといふやうなものは、読んでは、非常に面白いけれども、映画になると頗る退屈である。指紋だとか、髪の毛だとかいつたものを、探偵が発見する場面などは、見物にとつては、小説を読むほどスリヽングではあり得ない。だから、シヤーロツク・ホームズ物をはじめとして同種の小説の映画化は、映画それ自身に、特別の価値はもつとしても、原作の味は出ないのである。
 だから私は、これからは、作者が映画になる探偵小説を書くことに苦心しなけれ(※2)ならぬと思ふ。さうして、それを映画化する監督自身も勿論探偵小説の骨法に通じた人でなくてはならぬ。さもなければ、原作の味を必ず打ちこわしてしまふであらうと思ふ。
 私は大衆文芸の四月号に「龍門党異聞」なる探偵小説劇を書いた。特に私が探偵劇といはずに探偵小説劇といつたのは探偵小説の味を劇に出さうと試みたがためである。これはそのストオリーを書けば、独立した探偵小説になるつもりである。さうして、やはり同じやうに映画にも出来るつもりである。この劇は、五月八日から名古屋新守座に、伊井、河合合同一座によつて上演され、五月二十一日から帝劇で上演される。一方、マキノの手で映画化されることになり、山上伊太郎氏によつて映画脚色が行はれ、近く撮影されることになつて居る。上演の暁は是非皆さんの感想が承りたいと思ふのである。
 それから、目下私が「新青年」に連載しつゝある長篇探偵小説「疑問の黒枠」は、執筆の当初より映画化といふことを念頭に置いて書き続けて来たものであつて、いくらか、従来の探偵小説の型を出て居るものと思つて居る。これは近く、聯合映画協会の手で映画化されることになり、直木三十五氏が、自分で監督される筈になつて居る。この小説も、小説で読んだ時と同じやうな味を映画に移し得ると思つて居るのであるが、出来上つて見なければ、何とも言ふことが出来ぬ。
 かういふ訳であるから、探偵小説をそのまゝ映画化して、探偵小説と同じ味を持つものゝ出来るのは、まつたく将来のことに属すると思ふ。そこで当分のうちは、従来の探偵小説の映画化が行はれるであらうが、その際映画脚本を書く人はなほ更、探偵小説の骨法に通じた人でなくてはならぬ。言ひかへれば原作に従つて、別の探偵小説を作り得る手腕がなくてはならぬと思ふ。さもなくば、到底碌なものは出来ないのである。大衆ものといはれる髷物小説の映画化の際には、屡(※3)原作がぶち壊されるといふ事をきくが、これは致し方のない事で、ぶち壊さなければ映画にならぬのが当然であらう。それと同じく従来の探偵小説を映画化する際にも、原作をぶち壊さねばならぬが、たゞへたにぶちこわしたら、探偵小説は到底物にならないのであるから、どうしても、手腕のある人を要する訳である。

(※1)原文圏点。
(※2)原文ママ。
(※3)原文一文字空白。

底本:『キネマと文芸』昭和2年7月1日発行

【書誌データ】 → 「小酒井不木随筆作品明細 1927(昭和2)年」
【著作リスト】 → 「雑誌別 小酒井不木著作目録(評論・随筆の部)」

(公開:2019年11月10日 最終更新:2019年11月10日)